僕の思考体系のまとめ
今回、僕の思考体系の軸(骨格)となる部分を、まとめて言語化することにした。
以下に記述する内容は骨格であり基礎であるので、わりかし客観的かつ普遍的なものになっており、色々応用が効くと思う。
本当ならば思考法の全てを片っ端から書きたいのだが、本1冊分くらいの分量になってしまうので骨格部分のみに留める。参考になれば幸いだ。
さて、僕の思考体系の骨格は、3つの段階に分けられる。
1、流されないこと
これは思考の前段階と言える。思考というよりも「意識」のレベルか。だが、この意識が非常に大切なのだ。周りに流されればその時点で思考は停止し、知的活動が終了してしまうからだ。
例えば「この人がディスっているから」「賛成意見がバズっているから」「あのインフルエンサーが賛成しているから」「テレビで芸能人が批判していたから」
といった風に、周りに流されて自らの意見や立場を決めることは、身も蓋もない言い方をすれば、「小学生にでもできる」ことだ。流されたその刹那、自分の頭で考えることからおさらばしてしまう。
だから、思考をする前提として流されないことが求められる。
この前提から抜け出せない人は、生涯にわたり周りに流され続け、真の意味での「思考」に出会えないまま、知性に欠ける生涯を終えることになるであろう。
2、賛否両論に触れること
前提をクリアしたら、次は自分で考える段階に入る。この時、思考の材料として賛否両論を参照することが非常に大切だ。賛否どちらか一方の意見だけを見ていては思考が歪な物になる。思考の材料が片方に偏っている以上、自ずと思考もそちらに傾いてしまうからだ。せっかく「周りに流されない」という前提をクリアしても、また流されてしまう。
検察庁法改正案のように、賛否のどちらか一方が(大半がスパムだったとはいえ)圧倒的に多かった時、我々はそちらを正しいものと考えてしまいがちだ。
しかし忘れてはいけない。多数派が正しいとは限らないのだ。多数決で正解を出せるのならば、この世界の大抵の混乱は消え失せるだろう。
有名な話だが、多数決は大きな危険を孕んでいる。我々は時々、皆で赤信号を渡っていることがあるのだ。映画「十二人の怒れる男」を観たことのある人にはよくわかるだろう。
だから、必ず賛否両方に触れる。それから、自分なりに考えてみる。どちらが論理的か。どちらが客観的か。どちらが正しく深い知識に基づいた意見か。そして、どちらが人として正しいか。
※余談だが、「考える」際にはある程度の知識や論理的思考力が求められる。これら抜きでは鋭く深い思考はできない。そして、これらは本を読むことや勉強することで培われる。だから、読書や学校の勉強を侮ってはいけない。僕はそう思う。
周りに流されて意見を決めることに比べれば、他者の意見を参照した上で自分なりに考え、意見を決めることは幾分マシである。
しかし、繰り返しになるが、真の意味で思考をしたければ、どちらか一方の意見だけ見てはいけない。気に入った側の意見だけ見るのは精神衛生的には良いかもしれないが、思考の過程としては良くない。
多角的な視点を失えば、視野の狭い人間の出来上がりだ。そのような人物はテーマによっては正論を唱えられるが、テーマによっては全く頓珍漢なことを言い放ってしまう。この良い例が、テレビやツイッターで荒唐無稽な発言をしている一部の大学教授だ。
3、総合的に判断すること
最後に、賛否両論、自分の知識、思想等から総合的に判断すること。
「総合的に」とは漠然とした言葉であるが、要するに、ありとあらゆる要素を照らし合わせるということだ。せっかく手に入れた情報の山から、一つだけ持ってきて判断材料にするのは愚かである。なるべく様々な情報を頭に入れ、判断材料に組み込むことが大切だ。
そうして総合的に判断した結果が偏ってしまっても、それは悪ではない。多角的に考え、総合的に編み出した結論が「偏っていた」のなら、それが自分なりの最適解なのだろう。それでも無理に中立の立場を取る必要はないと思う。無理に中立であろうとすることは自らの知的活動に反目することであり、かえって知的活動から離れてしまうように思える。
さて。以上のことをまとめると
「流されないこと・賛否両論に触れること・(自分の頭で考えること)・総合的に判断すること。情報を受け取り意見を考えるとき、それが一番大事。」
おまけ 批判的思考について
学術的な用語に「批判的思考」というものがあるる。学校や参考書で目にしたことがある人も多いだろう。
しかし、正しい意味を理解している人は少ないのではないか。「積極的に批判していく思考」と勘違いしてはいまいか。何かにつけて批判することを、賢いことだと思い込んではいまいか。
批判的思考とは、何事も批判しようとする思考ではない。そもそもそんな思考は、批判しようと初めから決めている時点で、思考とはいえない。軽い思考停止状態に陥っている。
この言葉には本来、何事も批判しようなどというニュアンスは含まれていない(日本語的にややこしいことは否めないが)。
批判的思考において、批判的に見るべきなのは他人の言動ではない。「常識」や「感情論」や「自分の思考回路」である。ようは、我々を思考停止に陥らせる要因の数々を、鵜呑みにせず批判的に捉え、自らの頭で論理的に考え直すこと。僕はそう解釈している。
正しく「批判的思考」をすれば、真の意味で賢い人間になることができると思う。
批判的思考についてはベネッセ教育総合研究所の解説がわかりやすいので、気になった方は参照してみるといいかもしれない。
https://berd.benesse.jp/assessment/topics/index2.php?id=2578