なぜ図書館に住みたいと思うのか
私は本が好きだ。読むことは勿論だけど、所持していることにも幸せを感じる。本に囲まれた空間にいると安心できる。
さかのぼると通っていた保育園の隣に図書館があったり、父が本を読む人だったりと、幼少期から本に囲まれて育ったからか、身近な存在なのかもしれない。
明確に図書館が「居場所」になったのは、小学生の頃だろう。五年生から六年生の間、私はイジメを受けていた。そのため教室に居場所は無かった。
原因は不良になろうとした友人に苦言を呈した結果、そのまま彼が不良達に告げ口してしまったことだ。自業自得といえばそこまでだが、当時の私にはとても辛く暗い時期だった。
授業の間の10分休みは、トイレに閉じこもっていればよかったが、昼休みはそうはいかない。体育館、教室、グラウンド、そのどこにいても不良グループの目があった。唯一目が届かない場所が図書室だった。
特に歴史コーナーはよかった。場所が図書室の中でも、隅っこにあるからだ。オマケに大きな柱があって外から見られることもなかった。
そんなわけで、私は共用の机には座らず、部屋の角の柱の影に隠れて、ひっそり
「学研まんが日本の歴史」を繰り返し読み漁っていた。おかげで私は、教科書をしっかり読まなくても、日本史のテストはいつも満点近く取れていた。
思うに、私が用も無いのに図書館や書店に行くのは、心を回復させようとしているのかもしれない。疲れて弱っている心が、本が沢山ある空間に行けば安全なんだと、覚えているのかもしれない。
確かに仕事で失敗してしまったときや、酷い人と関わってしまったときなど、
心が凹んだり傷ついた帰り道などは、書店に立ち寄り、店内を歩き回って
何も買わないのに満足して帰ることがよくある。
もしくは本を買うという行為は、私にとって防具を買う行為なのかもしれない。少しでも自分を「マシな状態」にしたいという気持ちがあるかもしれない。
人間関係や、仕事、時間の使い方など、悩んでいることについての書籍を
手に入れることで、これで解決できるという前向きな気持ちになれる。
私が将来自宅を設計するときは、壁面いっぱいの本棚がほしい。
リビングに設けたい気持ちもあるが、背表紙の色や文字、書籍の置き方など、
大量の情報が常に目に見えるところにあるのは疲れてしまう。
現に今住んでいる部屋でも、テーブル横に本棚を3つ並べているが、
本の並びや、積んでいる本などを余裕がない日にみると、ゲンナリしてしまう。
人との距離もそうだが、モノとの距離感も大切である。だから私が「自分のために本を収納するスペースを」つくるなら、リビングではなく、書斎のような場所を設けたい。土地の広さに余裕が無ければ、廊下の壁を本棚にして、部屋の扉をその一部にした、秘密の隠れ家のような住まいにしたい気もする。
理想を言うと、図書館に住みたい。図書館のような家にしたい。
本で埋め尽くされた家に住めたらどんなにいいだろう。小説の海辺のカフカ
(村上春樹著)には、図書館に住む描写がある。当時この作品を読んだ
高校生の私は、本当に羨ましく家出することが魅力的に感じた。
最近では「舟を編む」の主人公・馬締さんの下宿先がたまらなく好きだ。
古い民家に何気なく置かれた、とんでもない量の本と、猫と木製のベランダは
まさに希望しているイメージの一つだった(雲田はるこ先生の漫画版が一番良かった)。
「秋深し、自宅は何するところぞ」。芭蕉ではないけど、
世の中の人は、それぞれ家で何をしているのだろう。
私は安心がしたい。壁いっぱいの棚に、好きな本や置物を飾り、
私だけの図書館の、私だけの椅子に座って、時間の許す限り静かに過ごしたい。