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心震える経験を、山で。


  • この1万字を超える記事は、私が登山サークルの代表任期を終えるにあたり、登山の価値を社会学的フレームワークを用いて記述する試みです。

  • 「コスパ・タイパ」的思考に支配された社会への問題提起から発して、現代消費社会の空虚さと、今こそ山に行く意味を探ります。

  • 理論的支柱はアメリカの社会学者ジョージ・リッツァとフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールに依拠しつつ、やや古くなった彼らの学説が2024年の現代日本でも通用することを示します。

  • 長いですが、お付き合いいただけると幸いです。




1. 「コスパ・タイパ」社会

1-1. 英語学習の罠

先日、高校の後輩・先生と英語学習の話をしていた時、ふとしたことに気がついた。世の中で唱えられている英語学習は、極めて商業的で非本質的なのではないか、ということだ。
本屋に足を運んでみると、英語学参書のコーナーは多様なジャンルが溢れかえっている。「リスニング」「英作文」は当たり前だとしても、「長文」「イディオム」「和文英訳」「英文和訳」「英文解釈」「発音・アクセント」…etc。私は参考書は好きだったがあまり込み入ったジャンルごとの学習はしていない。単語と文法こそ英語学習の基礎であり、その基礎が整っていない限りおそらく本質的な英語の能力は身につかない。むしろ、それができていれば細かくジャンル分けされた勉強をしなくても英語の問題は解けてしまうし英語は使えてしまうのではないかと思うのだ。しかしながら、大抵の場合負担が重く精神的にも辛い単語・文法の学習を、土台が固まらないまま終えたことにし、目先の課題を済ませていくため次へ次へと細かな学習に進んでしまう高校生・受験生は多い。その場合、細かくジャンル分けされた英語学習は非本質的で、固まっていない土台をパッチワークのように埋め合わせていく小手先の作業に過ぎないのではないか。話を聞いていると、英語ができないと悩んでいる高校生は、時には中学英文法すらおぼつかない人もいるし、リスニングができないと悩んでいる高校生は、そもそも英単語や英文法をきちんと覚えられていない人がいるのだ。
だからこそ、土台を完成させないまま巷で唱えられている英語学習の「ルート」に囚われてしまうことは、英語という言語を習得するに至ってはあまりに非本質的ではないか、と疑ってしまう。

逆に、一見非効率的な学習が、目先の効率性を重視した学習法に比べはるかに功を奏することもある

1-2. アートすらも楽しめない現代人

ところで近年、映画の映像や画像を無断で使用し10分程度にまとめてネット上にアップする「ファスト映画」が氾濫し問題化した。確かにファスト映画は色々な作品のあらすじや展開がサクサクと追えて便利だ。しかし、ファスト映画を鑑賞した後の人間に果たして何が残るというのだろうか?
アートの本来の機能は、人の感情を大きく揺さぶったりまた時には傷つけたりすることである。名作と言われる作品は多くの人に「刺さる」。絵画だってそ音楽だって人に「刺さる」機能を持っている。映画を見たり音楽を聞いたりして思わず涙を流す、というのはさほど不思議なことではない。
しかし、ファスト映画は人間に「刺さる」だろうか。内容はすぐに忘れ去られ、その作品を全く見ていないにも等しい空虚な時間潰しにしかならない。
先に結末を知りたいがためにファスト映画を観るという人もいるようだが、そういう意味での「安全性」はアートの本質的な機能をどこか低減させてしまっているのではないか。

1-3. 「コスパ・タイパ」的思考

非本質的な英語学習と、空虚な「ファスト映画」視聴はどこか共通性があるように感じる。おそらくそれは、現代の「コスパ・タイパ」を追い求める風潮だろう。目先のテストで点数を取るためには、という(本質を欠いた)コスパ的思考から「早く点に繋がりそう」な参考書が売れる。土台が固まっていないのに、パッチワークのように細かいジャンルに手を出してしまう。色々な作品のあらすじをさっと知りたい、というタイパ的思考から「早く結論がわかる」ファスト映画の視聴数が伸びる。しかし、そのあとそこには何が残っているのだろう。学んだはずの英語は土台がままならないので点も伸びなければ、もしテストで力を発揮できてもその後はすっきりと忘却される。視聴済みリストに入っているファスト映画は、無感動で無味乾燥であるばかりかその内容すら思い出せない。
本当に意味のあるものとは、その時々でさまざまなコストを伴う。英語学習も映画鑑賞も、本来は時間がかかるし精神的な浮き沈みを強いられるものだ。学習とアートはその点で共通性を帯びる。だからこそ、学習やアートに「コスパ・タイパ」的思考は全く合わないのだ。サボらないこと、傷ついたり泣いたりすることから逃げないことこそ、人間に多大な意味をもたらすというのに、現代人は空虚で近視眼的な「コスパ・タイパ」的思考に縛られている。

「コスパ・タイパ」的な思考は、学習やアートの事例に限られず、現代社会のさまざまな場面で私たちを縛っている。フードデリバリーやスマート家電の台頭などの表面的事例はもちろんとして、対面で誰かを顔を突き合わせて話すことや、日常の何気ない会話、あてもない散歩すらコスパが悪いとされ、軽視されがちな傾向にある。学術界に対する政府の予算配分は「コスパ」重視となり、儲かりそうな研究しかお金がもらえない。あてもなく誰かと話したりどこかに足を運んだりすることは、たしかにコスパやタイパが悪いが、ふとした時に重大なアイデアの源泉になったりするものだ。同様に、何につながるかわからない研究も、新しい何かを生み出す重要な基礎たりうるというのに。

1-4. 「コスパ・タイパ」の非合理性

「コスパ・タイパ」的な思考は、合理的であると人々から「信仰」されている。一見、これは非常に現代的な現象のように感じられる。しかしながら、マックス・ウェーバーに端を発する合理性批判を踏まえれば、今も昔もその構造は何も変わっていないことが分かる。合理性はある種の信仰であり、往々にしてそれは逆説的な非合理性をもたらすのだ。
前述の英語学習ような非本質的な学習を「ファスト・スタディ」と呼ぶことができるとしたら、「ファスト・スタディ」や「ファスト映画」といったものが、近視眼的には合理的でありながら、本質を欠いているために実のところ非常に非合理的な結果を生んでいることは明らかだろう。せっかく勉強したり何かを観たりしたつもりになっていても、実質的には特に何も得られていないのなら、それはとても非合理的だ。
現代は「コスパ・タイパ」的潮流の中で「ファスト〇〇」なるものが氾濫している。「ファスト教養」などもってのほかである。教養こそ時間をかけて熟慮や思いがけない出会いの中でじっくり涵養されるものであるのに。ファスト教養を「身につけた」(この言葉自体が矛盾する)ひとは、果たしてその教養をいつどこでどのように発揮するというのか。YouTubeの10分ほどの動画で先人の思想を学んでも、高尚なことをしている優越感に浸るか周囲の人に知識をひけらかすことくらいにしかならない。
こうした「ファスト〇〇」のトレンド、広くいって現代の「コスパ・タイパ」的思考は、合理的に見えて、実は非常に非合理的な結果を生むのである。


2. 消費社会の空虚さ

2-1. 合理性のもたらす非合理性

合理性のもたらす非合理性については、生産現場をめぐる議論が典型である。産業化のもたらす機能的合理化が、必ずしも実質的合理化を進めないことを指摘したカール・マンハイム(ドイツの社会学者, 1893-1947)の議論を踏まえながら、ジョージ・リッツァ(アメリカの社会学者, 1940-)は合理性の限界を指摘する。機能的な合理化は、人々の自律的な判断を阻み実質的な合理化を阻むという。
従業員の作業をマニュアル化することは、経営者の視点から見れば極めて合理的である。これこそ産業化のもたらす機能的合理化だ。一方、これは現場にいる人々の自律的な判断を阻むため、実質的合理化を阻害する。高度に分業化が進んだ社会において、トップダウンで下される機能的な合理化は必ずしも現場視点での実質的な合理化をもたらさないのだ。
前項で論じた「コスパ・タイパ」を例にとれば、現代人は目先の機能的合理化にとらわれるあまり、実質的合理化を図れず、結果として非合理的状況に直面している、と言うことができる。
消費の現場でも、合理性は非合理性を生み出す。リッツァは、現代資本主義の焦点が、生産の統制と搾取から消費の統制と搾取へ移行したと指摘する。したがって、消費の統制と搾取へ焦点の移った現代資本主義社会では、消費の現場においてこそ、さまざまな実質的非合理が(皮肉なことに)合理性という名の下で進行していると考えることができる。

彼の著した『マクドナルド化の世界: そのテーマは何か?』の中に次のような一節がある。

我々が有する経験が高度に予測可能になると、人生にとって決定的に重要な何かが失われる。人生はルーティン、無感動、そして退屈なものとなってしまう。予見しがたい何かと結びつく興奮—驚きに満ちた発見もしくは予期せざる経験—は失われる。

ジョージ・リッツァ(1998)『マクドナルド化の世界: そのテーマは何か?』
(正岡寛司訳, 早稲田大学出版部, 2001) p.197

この記述は今から20年以上も前のものだが、2024年現在の消費社会の抱える問題にも大いに通ずる。現代の消費といえば、ネットショッピング、SNSのショート動画、前述の「ファスト〇〇」などであり、それらは「コスパ・タイパ」の観点で合理化されているため、大抵予測可能で無感動なものである。そうした合理的な消費によってもたらせる経験は、人生に大切な何かを欠いている。
恋愛においても同じことが言えるかもしれない。マッチングアプリは時には出会えるはずのなかった人々を結びつける新規性をもたらすのかもしれないが、おそらくほとんどの場合、人は自分の望む条件の人にしか出会わず、それ以外の可能性を最初から棄却してしまっている。自分の出会いうる人を「制御」するマッチングアプリは、言わば「ファスト出会い」を実現している。しかし、それは果たして合理的な結果を生んでいるのだろうか?人やアルゴリズムは、統計や相互評価によって恋人になるべき人を計算し効率的に制御することが果たしてできるのだろうか?人は、しばしば自分自身の気持ちさえわからないというのに。まさに、リッツァの言うとおり、そこではまさに、「予見しがたい何かと結びつく興奮—驚きに満ちた発見もしくは予期せざる経験—は失われる」。

何かを買うにしても、何かを見るにしても、大抵同じようなことが言える。モノを買うという購買行動一つとってもそれは同じだ。リッツァはクレジットカードの登場の衝撃性を強調する。

人々が手元の現金に頼っていた時、節約の期間というのがまずあった。だからこそ、必要な金額が貯まった時には、念願のものを買うことができる、もしくはある経験に参加できるという興奮があった。こうした節約の期間を短くしたり、排除する傾向は、その興奮を閉め出すことなのである。

同 p.197

消費の現場で、人々は目先の合理性を重視するあまり予期せざる経験と興奮の可能性を奪われ、ますます非合理的な状況に陥っているのである。

「街が似てくる」というのも示唆的な現象だ。合理的なまちづくりの中でその土地の固有性は失われ、どこにでもあるような街が生まれる。これは実はものすごく非合理なことなのではないか。街が似てくると、新しい街を訪れても「予見しがたい何かと結びつく興奮」はなくなってしまう。

2-2. ディズニーランドの機能

合理性のもたらす非合理性は、消費者にとっては消費の空虚さとして発現する。いくらショート動画で時間を潰して、ネットショッピングの散財でストレスを晴らそうとしても、それらはひたすらに空虚な消費でしかない。
この世界の空虚さに人々はどう対処しているのか—。一つの解として、人々は消費のさらなる加速によってドラッグ的な快楽を得て消費社会の空虚さから目を背けているのではないか、という疑いがある。

ジャン・ボードリヤール(フランスの哲学者, 1929-2007)は消費社会への痛烈な批判で知られる。現代社会を特徴づけるのはオリジナルのない模造すなわちシミュラークルであると考えた彼は、リアルなものが消え去った「ハイパーリアル」の社会におけるディズニーランドの機能を暴く。

彼によれば、「ディズニーランドは、それ以外の場こそ全て実在だと思わせるために空想として設置された」。空想の世界を自称するディズニーランドは、本当はフェイクでしかない外の世界を実在だと信じさせるために、空想の世界を自称しているというのだ。

ディズニーランドの幻想は真でも偽でもない。それは実在のフィクションをリバースショットで再生しようと演出をもくろむ抑止の仕掛けだ。だからそこにディズニーランドの空想の弱点と、その小児的後退がある。大人は別の世界に、〈実在〉する世界に居る、と思いこませるためにこの世界はできる限り子どもらしく振舞う。その上本物の小児性がどこにでもあるのを隠そうとして、そしてまた自己の実在する小児性をあざむこうとして、子供の真似をしにディズニーランドにやってくるのは、他ならぬ大人なのだ。

ジャン・ボードリヤール(1981)『シミュラークルとシミュレーション』
(竹原あき子訳, 法政大学出版局, 1984) p.18

ディズニーランド批評は消費社会論の中でも重要な位置付けを占める。それは大抵否定的なものであるが、ここで強調しておきたいのはディズニーは世界の空虚さを忘れるための装置であり、空虚さから逃れるための祝祭であるという点だ。言わば、消費社会のドラッグである。

ちなみに、ディズニーランドは人々に安全・便利・快適という"合理的な"快楽をもたらすために計算し尽くされているため、そのディズニーというパラダイム自身が非合理性を内在しているとも言える。そこでの経験は、アーキテクチャによって完璧に制御されており、人間的に見えて実は非常に非人間的である。
ジョージ・リッツァはディズニー旅行についてのジャーナリズム記事(“HOW I SPENT (AND SPENT AND SPENT) MY DISNEY VACATION”)を引用しながら次のことを指摘する。

このようにディズニーワールドは、人間の経験を創造的、かつ想像力に富んだものにするかわりに、非創造的で、想像力に欠け、そして究極的には非人間的な危険を与えるものであることが暴露される。

ジョージ・リッツァ(1993)『マクドナルド化する社会』
(正岡寛司訳, 早稲田大学出版部, 1999) p.214

こう指摘されるだけではディズニーのもたらす危険がいかなるものであるか、読者にはわからないかもしれない。なぜなら、ディズニーを作り上げているアーキテクチャがあまりに高度に計算され尽くしたシステムだからだ。消費者はそのアーキテクチャに気づくことすらできない(ようにされている)。
パノプティコンの仕組みを暴いたミシェル・フーコー(フランスの哲学者, 1926-1984)によれば、優しく穏やかな管理は、騒々しく厳しい形態よりもはるかに厄介であるという。ここでは、私たちが計算され尽くしたシステムの中で空想を見せられている(あるいは私たちが進んでそれを見ようとしている)、その点にこそディズニーに内在する非合理性・非人間性・空虚さが隠されいるのだ。

コカ・コーラ、マクドナルド、ディズニーランドがいずれもアメリカ発祥の文化現象であることは偶然ではないだろう。ボードリヤールは、アメリカを無味乾燥な砂漠と評した。

2-3. インスタ映えという粉飾

消費活動の空虚さを紛らわすため、消費はますます加速していく。私たちの生きる社会では、しばしば余暇の時間をいかに充実させるられるかが非常に重要とされる。休日にどれだけ充実した余暇の時間を過ごせるのか、競い合うかのようだ。煌びやかな場所に行き、インスタ映えを狙う。人々がインスタグラムにアップするのは余暇の時間の活動だ。インスタ映えする投稿は、単に景色の綺麗なところに行ったという事実以上の意味を持つ。その投稿主が休日に友達や恋人とそこを訪れたという経験を暗示することで、投稿者自らの「余暇の時間」の充実さをアピールする行為だからこそ、インスタ映えになる(だからこそそれを嫌う人もいるわけである)。
ボードリヤールは余暇の時間の記号性をも暴いていた。

余暇の根本的な意味は、労働時間との差異を示せという強制である。だから余暇は自律的ではなく、労働時間の不在によって規定される。

ジャン・ボードリヤール(1970)『消費社会の神話と構造』
(今村仁司・塚原史訳, 紀伊国屋書店, 2015) p.275

彼はあらゆるモノは消費される記号に過ぎないと考えた。余暇の時間は労働時間の不在という記号であり、人々は余暇を余暇らしく見せる強制のもとで余暇を過ごす。したがって、彼によれば、余暇とは見せびらかしや誇張を糧としつつ、人々の自己宣伝として成り立つ。インスタ映えは、現代人が余暇の時間を余暇の時間たらしめるための自己宣伝なのだ。
そしてそれは、実のところ限りなく空虚である。映えるスイーツや映えるスポット自体に内実やそれに相当するほどの使用価値はないし、インスタに上がる映えるモノは、ありふれており、もはや投稿者ごとの固有性は全くない。還元可能な似たような写真が何万枚も撮影され、アップされ、一つ一つの経験は交換可能な記号となる。
余暇の時間の「余暇らしさ」を示す強制を受けた人々は、消費をドラッグ的に加速させていく。そもそも、インスタ映えを狙うこと自体が人々が消費活動の空虚さを隠蔽する粉飾行為なのだ。皮肉にも、そしてますますそれらは空虚な記号となっている。

2-4. 小括

以上、近年の「コスパ・タイパ」的思考のトレンドが、一見合理的でありながら極めて非合理的であるという倒錯を孕んでいること、合理性の名の下に固有の経験の驚きや予期せざる出会いが失われていることを確認した。また、そうした空虚さを紛らわせるために、ディズニーやインスタ映えが消費社会のある種のドラッグとして消費のさらなる加速を促していることを見た。
合理性のパラダイムは、当面の快楽を味わおうとする現代の消費活動と親和的だ。しかし、そうした消費活動は内実のない空虚なもので、時間が経ってしまうと何も残っていない。昨日見たショート動画、数週間前に食べたスイーツ、数ヶ月前にネットで買ったガジェット……。早くて安全で便利で快適な消費活動は、実は非常に非合理的であり、ただひたすらに空虚なのだ。
こうした状況を前にして、ドラッグによってそこから逃れるのではなく、本来私たちが本当に得るべき経験とは、果たしてどのようなものであろうか。


3. 山に行こう

3-1. 安全安心はつまらない

ここまで、現代的消費について「非合理性」や「空虚さ」といった言葉を使ってきたが、簡単に言えば「つまらない」ということである。例えば、当面の快楽のために消費するモノは、実はその内実は全くなく総じて「つまらない」モノに過ぎないからこそ、私たちは結果的に非合理的な経験を強いらているのだ。流れ続けるショート動画もとりあえず流し読みしているだけのSNSの情報も、実はとてもつまらない。
完全に計算や制御がされきった体験というのはつまらない。ありきたりな場所に行きありきたりなことをするありきたりなパッケージツアーに、身の毛のよだつような驚きはない。安全安心な体験は、極めてつまらないのである。

ここで、お腹が空いた、ご飯を食べようという時をイメージしてみよう。私の友人は大変な食通で、海外も含め旅行先では必ずご当地グルメを食べるという。すると、彼はしばしば新しい場所で新しい店に入り予測不可能な経験を積み重ねることになる。それらは、安全安心なファストフードチェーンで世界中で同じように規格化されたフィンガーフード(指で食べる食事)を頬張るよりはるかに有意義な経験の数々であろう。
また、私のまた別の友人はあてもなく18きっぷを使って気まぐれに旅をするのが趣味だ。彼にとってそうした旅の魅力は、どこでも行ける18きっぷの特性を活かして、自分がどこに行くか自分でもわからないという予測不可能性と創造性を楽しむことだ。予測不可能な経験は、彼の想像に多大な可能性を開き、限りなく固有の経験をもたらす。決まり切った観光スポットを観光ガイドに連れて行ってもらえる月並みなパッケージツアーなど彼にはつまらなくて耐えられないだろう。

二人の友人に登場してもらったが、ここで私が主張したいのは、安全安心はつまらない、ということである。合理化のパラダイムのもとで高度に規格化・制御され、予測可能で還元可能なものになった消費や体験は、限りなくつまらない。一方、予測不可能で一見非合理的な体験は、安全安心を離れ多少の心的コストを伴いながらも、限りなく還元不可能な固有の経験をもたらす。前者が「どこにでもありそう」な空虚さに満ちているのに対し、後者は、「他にはなさそう」という新たな可能性を開くのだ。

そして、こうした本来的に有意味な経験の可能性は、現代の「コスパ・タイパ」的思考に大きく反旗を翻すことになる。あえて安全・安心や便利・快適といった合理性の枠からはみ出し、コスパ・タイパの悪そうな実践をすることは、リッツァの言う「驚きに満ちた発見もしくは予期せざる経験」を取り戻し、いつか予期せぬときに人生に実りをもたらす何かを秘めている。

3-2. 安全安心からはみ出せ

以前、一緒に登山をしていた時に後輩が「登山していると、時に山を消費してしまっている感じがする」と口にした。山に入りスタスタと登山道を進み、山頂に触って、帰ってくる。こうした一般的な登山スタイルは、せっかく自然を求めて来ているのに全くそれを楽しんでいないようでおかしいではないか、という違和感があったのだろう。
しかし、私はその違和感こそに山の可能性を見出したいと思った。「山を消費してしまっているのでは」という違和感を気づかせてくれるのが、山なのだ。これは、消費社会にとってのドラッグであるディズニーとはまるで対照的だ。ディズニーではそんなこと絶対に気づけないであろう。これは決定的な違いだ。

後輩の感じた違和感に対して、私は次のような見解を持っている。まず、たしかに一般化した登山が消費行動的側面を持っていることは否めない。高尾山や筑波山といった非常に有名な山(私の個人的定義では高尾山は山ではなく丘であるが)で、誰しも同じような体験をしているのかと思うと、やはり自分の登山も消費的なものかと感じることはある。

しかしながら、レベルが上がれば上がるほど、山は下界ではあり得ないような想定外の状況が私たちを襲ってくる環境であり、その点で私たちが自分自身に固有の、「驚きに満ちた発見もしくは予期せざる経験」を手にできる舞台だと信じて疑わない。そもそも、レベルを問わずとも天気予報は下界ほどあてにならないので、当日の実際の天候は登山者にとって予測不可能であり制御不可能である。どんな景色に出会えるか、どんな動植物に出会えるかはわからない。下界と違って、安全も絶好の展望も、何も保証されていない。頑張って登ったけれど雨で、何も見えないなんてこともある。しかしながら、そうして安全安心の枠からはみ出していく唯一無二の経験に人は悦を覚える。

インスタ映えするカフェに行けばお目当てのスイーツを食べられるだろうが、たとえ日本アルプスに行っても、ライチョウ(「氷河時代の生き残り」とされる高山にのみ生息する貴重な鳥)に会えるとは限らない。あなたがどれほどライチョウに会いたいと思っていても、山でライチョウに会う権利を買うことはできない。

ニホンライチョウ 農鳥岳周辺にて

自然は私たちに否応なく様々な予測不可能な事態を突きつけてくる。安心できやしないような環境下で、数時間後あたりはどうなっているだろう、明日自分はどうなっているだろう、というゾクゾク感を味わうことができる。それが登山の魅力である。

たとえネットに記録の上がっている山でも、一つ一つの山行は個人の固有の経験になりうると私は思う(究極的には人類の踏み込んだことのない領域を探検するのが一番なのかもしれないが、ほとんどの人にとってそれは不可能だ)。山行にもよるが、山は下界ほど甘くないので、一つ一つの経験は他と同じような交換可能な記号には成り下がりにくい。芦別岳旧道で一瞬道迷いした時はどうなることかと思いヒヤヒヤしたし、常念岳で天候不良に見舞われた時はゾクゾクが止まらなかった。ちなみに、常念岳ではその後2頭のライチョウに至近距離で出会い、無事下山した。私は、こうした山行がネット上に上がっているどんな情報にも還元できない、固有の「驚きに満ちた発見もしくは予期せざる経験」であると胸を張って言うことができる。

ニホンライチョウ 前常念岳にて
奥穂高岳登山道から槍ヶ岳を望む

大切なのは、固有で還元不可能な経験だ。当面の「コスパ・タイパ」からは到底肯定されえないような、安全・安心からはみ出していくような経験こそ、私たちに必要なのだ。

3-3. 時間の真の使用価値を取り戻す

ボードリヤールは1970年に著した名著『消費社会の神話と構造』の中で、まるで2020年代の「タイパ」社会を見通していたかのように、時間の真の価値を我々に訴えている。

余暇がなんとかして取り戻そうとしている時間の真の使用価値、それは浪費されることに他ならない。ヴァカンス(本来は「真空」の意味)とは、文字通り無駄にすることの可能な時間、損失を計算に入れずに済むと同時に、なんらかの方法で稼がれたものでないような時間の追求を意味する。

ジャン・ボードリヤール(1970)『消費社会の神話と構造』
(今村仁司・塚原史訳, 紀伊国屋書店, 2015) p.266

時間の真の使用価値は浪費である。これは現代の「タイパ」思考に真正面から異議を唱える思想だ。思えば、登山は「タイパ」が悪い。しかしながら現代の合理性パラダイムから積極的にはみ出していくことこそが悦であり、リッツァの言う「驚きに満ちた発見もしくは予期せざる経験」をもたらす秘訣であった。現代人は合理性の呪縛に縛られるあまり、「損失を計算に入れ」過ぎてしまった。「コスパ・タイパ」的思考に縛られ、人間的に有意義な経験の可能性を閉ざしてしまった。
だからこそ、予測可能・計算可能な消費の限界性を認識し、安全・安心や便利・快適のコンフォートゾーンからはみ出していくこと、還元不可能な自分固有の経験を積み上げることが大切だ。
そのための手段はなんでも良いとは思うのだが、今の私が個人的に最もおすすめするのは、自身の経験上、登山である。

さあ、山に行こう。
心震える経験を、山で。


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