猫タックル
50歳日誌、2週目。
夜のニュースでは、お天気お姉さんが明け方から雨が降りそうだと伝えていた。その日ボクが目覚めたのは午前2時。明日締め切りの仕事は、朝から再開すれば十分間に合う、とわかっていても、最初にあれをやって次にこれをやって……と寝ながら無意識に考えているんだろう。早朝に目が覚めてしまう。歳をとったせいか、ずいぶん小心者になった。
雨の予報を覚えていたから、起きてすぐ、庭に面したサッシをあけて外をのぞいてみた。自営業でずっと家にいるから、時々外の様子を見るのが半ば趣味のようにもなっている。
丑三つ時の外は静まりかえっている。2月にしては生暖かい空気。まだ雨は降り出していない。さっきまで見えていた月は厚い雲にすっかり隠れている。
やれやれ、やるかと思って、サッシを閉めて鍵をかけパソコンを開く。1時間ほどしてまた外を見る。ポツポツきているようだ。
午前5時近くだろうか。「ドスッ」という、びっくりする物音に跳び上がった。ガラスに何かが体当たりしたような音だ。しかも2回。「ドスッ」、「ドスッ」。
泥棒? と一瞬思ったけれども、いやいや、そういうかんじでもない。小動物がガラスに体当たりしたような音だ。このへんにはタヌキとかハクビシンとかも時々出没するから、そういった小動物が迷い込んだのか。鳥か? いやいや、夜明け前に鳥は飛ばない。
マウスを置いて恐る恐る、サッシから外をのぞいてみる。ガラス越しに庭を見ると2つの光る目がこっちを見ていた。サルスベリの木の下に、光る2つの目。体が雨で濡れている。
サッシをあけてよく見ると……あれっ? うちの猫だ。なんで外にいるんだろう?
名前を呼んでみた。「みかん!」
「にゃー」
わが家は猫を2匹飼っている。「みかん」という痩せた三毛猫と、「ねずみ」という太り気味のキジトラ。どちらも雌。
その「みかん」がいつのまにか庭に出ていて、ボクがサッシを閉めて家に入れなくしてしまったのだ。つまり「締め出し」状態。しかも3時間ぐらい。さっきサッシを開けた時に外に出たのか?
昨年ここに引っ越してくるまで、彼女たちは外の世界に出る、ということがなかった。マンション住まいだったし、こっそり飼っていたので、外に出ることといったら予防接種の時ぐらいだった。
ところがこの家は、小さいけど庭がある。隣の道路とは高低差もあって柵もあって、簡単には遠くに行けない。ならば庭に出してあげようか、という話になった。はじめて庭に出た2匹は、大喜びで庭でごろごろ転がって、走り回った。柔らかい体の毛が、秋の風になびく様子が実に気持ちよさそうだった。
一度外の世界を覚えると、野生の勘を取り戻すんだろう。それ以降、ひっきりなしに外に出たがるようになった。
さっきサッシを開けた時も、外に出る機会を狙っていたのかもしれない。ボクが気づかないうちにササッと外に出てしまったんだと思う。
サルスベリの木の下で雨に濡れた「みかん」は、見るからに怯えていた。猫は自分のテリトリーから外には容易に出られない。特に雌猫はテリトリーが狭い、と嫁さんがいつも言っている。庭の外にも出れなくて、でも家にも入れなくて、雨も降ってきて、でもボクには気づいてもらえなくて。たまらなくなってガラスにタックルしたのか。
実家で過ごした期間も含めて、ボクは動物というものを飼ったことが一度もなかった。犬も猫もきらいじゃないけど、どうやって付き合ったらいいのか、よくわからない。動物というのは、学術的には証明されてないんだろうけど、たぶん対峙する人間が動物好きかどうかはよくわかっていて、向こうもボクのような相手にはあまり興味を示さない。きっと自分はペットと呼ばれる動物とは、一生無縁なんだろうなあと思っていた。
それが結婚とともに意外な展開となる。うちの嫁さんは猫好きで、子どもの頃から、野良猫と何度も「出会って」しまい、そして飼うことになる人。だから結婚したときも猫が2匹いて、ボクがそのファミリーに後からジョインする形となった。
どうやって動物と暮らしたらいいのかよくわからなかった。最初のうちは、家の中に毛が舞ってることがものすごく気になった。気がつくと、まつ毛の上に毛が乗っていたり、服も全部毛だらけになったり……。
でも、動物と一緒に暮らすことは、結婚がもたらした「嬉しい」副産物だったなあと今では思う。
「みかん」はなぜかボクになついた。一緒に暮らすようになってしばらくすると、ちょくちょくボクのところに来て甘えるようになった。「みかん」は気難しい猫だ。なかなか心を開かない。ボクも同じような性格だから、気が合うのかもしれない。
日中、仕事で2階の仕事部屋に籠もると、「みかん」も2階にあがってくる。かといって犬のように「遊んで遊んで!」と全力でボクに向かって来るわけではない。パソコンのキーボードをふんずけながら窓際まで歩いていって日向ぼっこしたり、引っ越した時そのままに積み上がってるダンボールの上にジャンプしてそこで昼寝したり、勝手にやりたいことをやっている。そういう身勝手さ、というか「勝手にやってる感」が猫のいいところ。自分のやりたいことを勝手にやっている。でも、なんとなく近くにいる。独りで仕事をしているボクに、「仲間」が増えたかんじがする。
雨の中、締め出されて、ガラスにタックルしてやっとの思いで気づいてもらえた「みかん」は、「音速」で家の中に走り、押入れの布団の中にもぐった。こっそり押入れをのぞいてみると、少し怒っているように見えた。動物には表情というものがないらしい。でも確かに怒っている。──そして、約半日ほど「みかん」は押入れから出てこなかった。