耳からオリーブオイル
ジョギングは朝に限る。この時期、夕方〜夜にかけて走ると、飛んでいる小さな虫が口に入ったりする。わが家の周りは田舎なので虫くんたちも多い。特に田んぼの横や土手の草むらが近いところは要注意だ。
本当は、気分よく朝走りたい。朝なら虫も飛んでいない。のだけれども、お客さんの始業時間までに見積もりやらPSDを送らなきゃいけない(しかも朝やる)という、残念な仕事スタイルのため、走るのはどうしても夕方になってしまう。
やれやれ今日も18:20になってしまった、と思いながら走り出した某日。
マスクをして走るっていうのは、ハタから見ている以上にキツい。なにかの小説で読んだ、探偵が殺されるシーンのようだ。ビニール袋を被せられて窒息する、というシーン。
だけど、マスクをしていると口に虫が飛び込んでくるようなことはない。それはそれでありがたい。
だいぶ遅い時間になった日没も過ぎて、辺りは暗く肌寒くなってきた。川沿いにさしかかって「あと2キロ!」と思う。このへんは例の「虫エリア」だ。
あっ!
ガサガサっ!バタバタ!
わー!!!
耳の穴に何かが突入してきた!いや、虫だ。不意に耳にバタバタするものが近づいてくるだけでもビックリするのに、それが中に入ってしまった。ホールインワン。しかもだいぶ奥の方まで入り込んでる。なんでー。
口じゃなくて耳かよ! 時々震えるように耳の中でバタバタしている。というか暴れている。とりあえず走りを止めて、オトナなので冷静に、トントン(プールで耳に水が入った時のアレ)をやってみる。→ 出るわけない。
バタバタっ!
時々もがいて、どんどん奥の方に入っていく。どうして、よりにもよって。こんな小さい、おれの耳の穴めがけて虫は突入できるんだろう?
虫って、光に誘われて飛ぶんだよな、と思いながら、街灯の光に左耳を向けて、時々悶絶するおっさんひとり……。マスク姿で川沿いを走る、別のおっさんが訝しげにボクを見ながら走り去る。「やばい、自粛警察にみつかったら、ぜったい怪しまれる……」犬の散歩やジョギング、自粛警察パトロールのいい隠れ蓑だ。
ガサっ、ガサっ。
きっと身動きがとれないんだろう、虫くんも時々悶絶している。が、その都度ボクも悶絶する。お互い不幸だ。だんだん鼓膜の方まで進んできている気もする。
泣きそうになりながら家まで歩いて戻り、嫁さんに助けを求める → 無視(えぇ!)
いや、テレワークでzoomミーティング中だった。仕方がないのでソファでYouTubeを見てニヤニヤしている娘にSOS。「えったん、耳の穴に虫いないか見てくんない?」「え!出てこないの? こわー!」
スマホのライトで照らしながら覗いてもらうんだけど、見えないらしい。「光を当てれば、光をめがけて出てくるはずだよね?」
様子を察した嫁さんがミーティングを中断して参戦してきた。「タバコの煙を耳に吹き込むといいんだよ、何かで読んだことがある」(えぇ!)
なぜか、同居の娘と嫁さんとにストローでタバコの煙を耳の中に吹きかけてもらう、という実に不可解な構図に(笑)→ 変化なし(この策はどうやら都市伝説だったようです)
ガサっ、ガサっ。
どう考えても、虫くんはもがきながら少しずつ前進している。こわい。スマホライトを引き続き照射してみるが、全く進展なし。
そうだ、負圧だろ。負圧、負圧。
カメの水槽の水を取り替えるためのポンプがあった!(≒石油ポンプ)
せーの、シュポ!→ 逆だった!空気を圧入してしまった。
気をとりなおして負圧側を耳に当てて試してみたけど、圧が弱い。掃除機も思いつくんだが同じようなもんだろう。
あ!
工具箱の中に、ブレーキのエア抜き用の金魚ホースがあるじゃん!(6mmφ)
あれを耳につっこんで、口で吸えば吸い出せるんではないか(気分は音速で)? ブレーキオイルは危ないけど、もう5年以上エア抜きには使ってないから大丈夫なのでは?
クルマの工具箱からホースを持ってきて、片方を耳に、もう片方を口に。耳の穴へのフィット感は申し分ないのだが、これもまた49歳のいい歳したおっさんの姿としては、かなりヤバい。
せーの、スー!
せーの、スー!
スー!→ いい感じの負圧がかかってるんだけど、やはり気分が悪くなってきた。
きっとDOT4のブレーキオイルのせいだ。クリエイトかHACドラッグで金魚ホース売ってないかな。この時間じゃ無理か。虫くんは時々動くが、全く出てくる気配はない。
ガサっ、ガサっ。→ 悶絶。
嫁さんがミーティングに戻ると、画面の向こうの同僚にこの15分の中座を説明したうえで、アドバイスをしてもらっている(彼はドクターらしい)。彼が提案してきたのは、オドロキの策だった。
オリーブオイルを耳に注入する。(えぇー!)
たしかに、検索してみると「耳の中で虫が動くからといって、殺虫剤等をかけるのは厳禁です」と出ている。耳に虫が入り込むって、そんなによくある事象なのか!という驚き。「サラダ油やオリーブオイルなどの植物油を耳に注入すると虫は動かなくなります。その後、翌日でも大丈夫なので、早めに耳鼻咽喉科の診察を受けてください」
なるほど。できれば自分の不幸だけでなく、虫くんの不幸も取り除いて、生きたまま逃してあげたかったんだけど……。だが仕方ない。「耳の中に虫が残ったまま放置すると鼓膜の手術が必要になることもあります。」
ごめんな、虫くん。
「試してみるよー。耳を上にして横になって。」
「耳の穴って閉じてるのかな?脳がオリーブオイル漬けになったりしない?」
「あたりまえでしょ、大丈夫よ」
混乱した状況になればなるほど、うちの嫁さんは冷静になる。そこが頼もしい。ほどなく日清オイリオのエキストラバージン・オリーブオイルが左耳に注入される。少し暖かい、水とは違う感触の液体が流れこんでくる。「鼻から牛乳」ではないが、まさか耳にオリーブオイルを流し込むなんてことがあるとは、想像もできなかった。
油が注入されて、左耳がプールの中にいるような状態になった。周りの音が聞こえない。そして、さっきまでガサガサと動いていた虫くんの動きも止まる。
ごめんな。
「反対向いてー」
タオルを下にしてオイルを流し出す。油と一緒に流れ出てくるんでは?という淡い期待は、完全に裏切られた。緑がかった黄色いオリーブオイルだけがタオルに染みていた。
虫くんの体は、ボクの外耳道に「かなり、ひっかかっている」んだろう、というのがこの夜の嫁さんとボクとの結論だった。
翌朝、朝イチで近所の耳鼻咽喉科の診察を受けた。耳鼻科なんて40年ぶりだ。鼻づまりがひどかった子ども時代、よく耳鼻科に通ったものだけど、あいかわらず先生は丸型の鏡のような診察道具を頭につけてるんだなあと感心する。コロナ対策なんだろう、透明のフェイスガードと全身ビニールも被っていた。ほんとにほんとにご苦労さまです。
かくかくしかじか、経緯を簡単に説明する。
「虫はまだ耳から出てきてないと思うんですけど、虫いますか?」
「左耳ですね。イスに座って耳をこっちに向けてください」
「あー、いますね。」
さすが!
職業というのはたいてい、最適化された装備や設備の上に成り立ってものだ。そのうえで知識や経験が生きてくる。
「じゃあ取り出しますねー。」
最初、歯医者のバキュームのような道具で吸い出そうとしていたみたいだけど、うまくいかなかったのか、ピンセットのような道具を使いだした。
オリーブオイルがよかったのだろう、するっとした感触とともに、先生が虫を取り出せたことがわかった。
で、でかい!
思ったよりも全然デカかった! しかも羽もデカい! これじゃ耳の穴の中でUターンできなかったはずだ。
「虫は、とくに羽のついた虫は、穴の中で引き返すってことはできないんだと思いますね」
とは医師の言葉。
夜に飛ぶ虫というのは、自分の体ほどの小さな穴に飛び込んでしまうような習性があるのだろうか。
あの晩、あの場所で、あのタイミングでボクの左耳に飛び込んでしまった虫くんの運命について、想いをめぐらせてみた。
ごめんな。合掌