ビアバー休業とインターネットの檻
自粛で感じる閉塞感
最近とても閉塞感を感じることが多い。Stay Homeがどうということではない。そもそも独立して結構な時間はStay Home with work だし。
営業自粛要請がでて二週間、その前からの自粛を考えると、かれこれ1ヶ月近く外食をしていない。元々そんなに外食派というわけではない、ただ近くのビアバーに1人でいくということが僕にとっては結構な日常だった。幾つかの店は休業していると知っていたが、いざ調べてみると行きつけのほとんどの店は4/11前後から休業に入っている。
彼ら(オーナー、店長、スタッフ)がどうしているのか。オーナーが資産家か自物件で営業でもしてない限り大変に違いない。気になる。
同時に僕にとってビアバーに行けないことが、こんなに喪失感のあることなのか!?と少しの驚きがある。
もちろんビールが好き、1人の時間がいい、酔いたい、様々な要素がある。でもこれ家でも出来ることだ。クラフトビール買って、嫁のいない時に一人で飲んで酔えばいい。
でも何か欠けている。
なんというか、偶然の何か、ハプニングというか、そういうものがない。
あまりよく知らない人たちとのかかわり
店に行くと普段僕らがつながっている人たちと、全く違った背景を持った人たち、いや、背景も知らない人たちと会話やコミュニケーションが発生することがある。
全く知らない隣の人に仕事を聞かれ、「コーチです」といって全く通じず、何故か怪しい人扱いされたり、
日本語を学ぶインド人の通訳と英語と日本語ごっちゃで話して妙に盛り上がって何故か奢りあってみたり、
VEDETTのキャンペーンで、Tシャツが当たるまで飲み続ける羽目になったり、
顔は知っているけど話したことのない常連さんが、僕のヤンキースの帽子がジータ引退記念のものだと知って、熱く語りかけてきてちょっと迷惑だったりw
そう、予測不能。
深くて狭いネット
もちろん1人で行く理由は1人で時間を過ごしたいのもあるが、時に普段と違う人たちとの交流は面白かったり面倒だったり。でもこういったことは普段からずっと接している仕事関連やそのコミュニティではなかなかない体験。
この自粛の期間は特にオンライン上、インターネットの中にいる。よくインターネットは開かれた、世界のどことも瞬時に繋がれるメディアというけれど、実態は恐ろしく閉じられた状況に陥りやすい。
googleの検索はこれまでの検索や閲覧履歴から僕が興味を持ちそうなものを優先的に上げてくる。
SNSは関係の深い人たちが多くいるので、必然的に同じ情報が繰り返しシェアされやすい、一時期のティール組織に関しての情報や本のレコメンドは凄まじかった。僕のタイムラインだけ見ていれば「知らない人はいないんじゃないか?」と思ってもおかしくない。
Amazonで本を買うようになって、自分関心ある領域に関しては情報を逃すことは少なくなったかもしれないし、レビューも参考になる。ただ、結果同じ本を読んでいる人だらけになる。
同じ体験や情報を持っているから、盛り上がる。そしてどんどんそのつながりは強くなる。コーチングやリーダーシップに関して、これだけ深く話せる仲間がたくさんいることは本当に素晴らしい側面だ。
AIとかも進めばインターネット環境はどんどん僕に適したものを選んでくれるし、お勧めもしてくれるし、近い仲間に出会いやすくなる。
「ずっと"知り合いかも"に表示されていた、●●さんですね。なんか初めて会った気がしませんよ。」
リアルでも最近こんな会話多くない?
でも、下手すると知らぬ間に予想の範囲のことばかり。
個人的にこういった状況を「インターネットの檻」と呼びたい。
知らぬ間に築いてた
インターネットの檻の中で
もがいているなら
僕だってそうなんだ
インスピレーション、僕の内側にある創造性と共に詩が降りてきた。
檻からでる
以前読んだ本を思い出した。
2014年に出版された「弱いつながり」(東浩紀:著 幻冬舎)の冒頭部分にこうある。
ネットは階級を固定する道具です。「階級」という言葉が強すぎるなら、あなたの「所属」と言ってもいい。世代、会社、趣味・・・なんでもいいですが、ひとが所属するコミュニティのなかの人間関係をより深め、固定し、そこから逃げ出せなくするメディアがネットです。
自由に検索しているつもりでも、じつはすべてグーグルが取捨選択した枠組みのなか。ネットを触っているかぎり、他者の規定した世界でしかものを考えられない。そういう世界になりつつあります。
知らぬ間に、こういった中に僕らはいる。その実感は確かにある。深い理解が相互にできる居心地の良さも感じながら、何故かずっと同じところから出れないような不思議な感覚。
著者はこのネットの世界を出るには、グーグルの予測の外にある言葉を検索する裏切りが必要であり、それを可能にするのは体の移動であり、旅であり、弱いつながりと言っている。
さらに、〆的な著者の主張はこうだ。
「統計的な最適とか考えないで偶然に身を曝せ」
最適なパッケージを吟味した上で選ぶ人生、それはネット書店のレコメンデーションにしたがって本を買い続ける行為です。外れないかもしれませんが、出会いもありません。リアル書店でなんとなく目についたから買う、そういう偶然性に身を曝したほうがよほど読書経験は豊かになります。
んー、痛い。結構こうなっている現実もある。みんながお勧めしているのに勝手に反応するようにamazonのインターフェイスは構成されている。そしてまんまとそうしている自分。
自分が読みたい、なんか面白そう、心躍る、響く、とは別の「読んでおいた方が良さそう」という無意識の置きにいった選択。
僕はミーハーだし、ストレングスファインダー第3位「収集心」。
著者の怒りとも叫びとも取れる
「統計的な最適とか考えないで偶然に身を曝せ」
という言葉に響いた。そして、new normal に向けた本質的なメッセージにも思える。
そう、コロナウィルスでの自粛の中、相当意識的にいる必要がある。
ここまで書いて、僕にとってビアバーに行くことの一部は「偶然に身を曝す」という人生の彩につながっていたし、檻から出てバランスが取れる一つの行為。
そして、現実のほとんどは、僕らが普段見ていることの外側にあるんだ、と思える機会。
ティールなんて誰も知らないところで、「コーチ?、スポーツの?」と言われてみたり、
名前も素性も知らないまま、奢ってみたり、みられたり、
ビアバーにふらっと行くことが、こんなにも意味があったとは。
騒動収束後に向けて正当化と言われても、「檻から出て、現実を知るための大事な時間なんだ!」と胸を張って1人で飲みに行く確固たる理由。
さて、今のこの自粛状況でどうする?ということが残った。檻から出る具体的な行動は人それぞれ。
わからない。
でも、一見非効率的で生産的ではないことにヒントがあると思う。予測不能、弱いつながり、無責任に関われる。普段使わない言葉を検索するのも一つ。
「効率的に檻から出れるには?」この問いが、一番効率が悪そうだ。
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