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思いのほか、強く生きている

2024年は、波乱の幕開けだった。
1月16日に母が倒れ、その1週間後、自分が妊娠していることを知った。
生と死がこんなにも密接して、日常に潜んでいるなんて、思ってもみなかったので、なんとなく他人事のような、初めはとにかく実感が湧かなかった。

2月に入ると、母の容体が悪くなった。
母の頭にあったらしい脳動脈瘤がパンッと弾け、8時間にも及ぶ手術を無事終えほっとしたのも束の間、今度は血管攣縮という血管が細くなる症状が出てしまい脳梗塞を引き起こしたのだ。先生曰く、もう右半身は動かないし、右目も見えないらしい。この頃はまだ麻酔で眠らされていることが多く、会いに行っても横たわる母にしか会えなかった。顔は浮腫んで大きく腫れ上がり、試合直後のボクサーのようだった。ホッチキスが痛々しい頭からは細い管がでており、血のような液がポタポタと落ちて点滴袋のような袋へ溜まってゆく。落ちてゆく赤い液体を見ながら、「なんでこんなことになってしまったんだろう」と何度も思った。

2月の後半には脳の腫れが引かないので、開頭手術をすることになった。このままだと腫れた脳が頭蓋骨で圧迫されてしまうため、頭蓋骨外して脳圧を外へ逃すとのこと。生まれて初めて、頭蓋骨を外しても人は生きていけるのだということを知る。手術後に見た母の頭は、頭蓋骨がないことで、腫れた脳の分がぼわんと膨らんでいて、それはまるで巨大なたんこぶのようだった。幸い、容体も安定しているとのことで安心して東京へ戻ったが、数日後には容体が急変したと父から連絡が入った。

ーー延命処置をするかしないか、する場合はどこまで希望するのか、決めてくれって言われた。

父は思いのほか動揺しておらず、淡々と自分の意見を私に言う。「延命処置はしない方向でいいかなと、わしは思うんじゃけど。」
母が倒れてすぐに弱音ばかり吐いていた父は、この1ヶ月ほどでかなり強くなった気がした。頼もしい。

「お父さんの意見に従うよ。」
全面的に父の意向を組もうと思った理由は2つあって、父のその言葉からは覚悟のようなものが感じられ、娘の私があーだこーだ言うのはなんだか違うような気がしたこと。そして、そもそも私も父とほとんど同じ意見だったこと。なので、幸いにもぶつかり合うことはなかった。

最悪の状況が来ることを想定した父との会話では、葬儀の話もでるようになった。「お母さん、会社で倒れたから、もしものときは一回家に帰らせてあげたい。」父も、そんなことを言うのかとちょっと感心した。普段はぶっきらぼうなので、優しい言葉の一つもかけてあげたことがないんじゃないだろうか。この言葉を聞いたら、母はどう思うだろう。喜ぶだろうか、いや・・まだ死んでないんだけどとツッコむか。

先生と私達の予想を良い意味で母は裏切り、危ないかもしれないと言われた日々を1日1日と超えていった。
面会に行くと、目を開けていることが多くなった。「お母さん、わかる?」声をかけてみると、少し調子のいい時は目を合わせてくれたり、頷いてくれたりするようになった。正直、どこまで分かっているのかはわからないけれど、数日前までの生きるか死ぬかの状態に比べると大進歩だ。

母の体調が安定してくると、今度は私の体調が安定しなくなってきた。少しずつ始まったつわりは、3月にはピークを迎え一時は水を飲むことさえも難しくなった。仕事以外は基本的には横になり、食べては吐き、食べては吐いた。”つわり終わる兆候”、”つわりいつまで”、先輩妊婦さんのブログやnoteを読み、なんとか自分を奮い立たせる。私の場合は、朝起きた瞬間から寝るその瞬間まで、ひどい時は寝ている時でさえ、ずっとひどい二日酔いのような船酔いのような気持ち悪さが続く。
母が倒れてすぐの頃は、毎日母を思い出しては、ひとりで泣いていた。父や祖父母、叔母など親族がいる時は大丈夫だった。みんなの前では絶対に泣いてはいけないと思っていたし、泣くもんかと意地もあった。でも、一人になるとやっぱり泣ける。母とのLINEを読んで、幼い子どものように声をあげて泣いた。一人っ子の私にとって、母は大きすぎる存在だった。そんな私が泣かなくなったのはこの頃だ。幸か不幸か、つわりが辛すぎて、母のことを考える余裕がなくなったのだ。つわりは辛かったけど、つわりがあって良かったのかもしれない。おかげでなんとか私は私を保つことができたから。


つわりは5月を迎える頃にはだいぶ落ち着き、体調が安定してくると、帰省するのもだいぶ楽になってきた。自分の体調が良くなってくると、周りのことを気にする余裕がでてきた。それは、いい意味でも、悪い意味でもあって。

なんとなく父の言動が、妙に引っかかるようになった。突っかかりたいわけではないし、喧嘩をしたいわけではない。それでも、一つ一つの何気ない言葉や行動が気になってしまう。親子とは、家族とは、なんとも厄介だ。他人なら、「はいはい」と聞き流せるような些細な言葉も、細胞が激しく反応して、瞬間的に沸点まで怒りが湧き立つ。

「なんで勝手なことするの。」
「頼むから、もうこれ以上私の負担を増やさないでよ。」

父が私に負担をかけたいとは、これっぽちも思っていないことは分かっている。父は多分、不安なのだ。そしてそれと同時に誰かに心配されたいのだ。その心の奥にある想いが時々身勝手な言動と行動を引き起こす。多少の余裕は出てきたとはいえ、あいにく今の私にはそんな父を、「大丈夫?」と優しく心配してあげられるほどのキャパは残ってはいない。分かり合えない苛立ちから、母の病院に向かう車の中では、永遠のような沈黙が続く。他人じゃないから、気を遣う必要も、腹の底を探り合う必要もない。ただ感情に身を任せて、私も父も思いっきり不機嫌になる。

けれど私がキツイ言葉を言ったあと、少なからず父は反省するようで、私の好きなからあげくんを買ってくる。自分の分と2つを、近所のローソンで。
到底、これでは帳消しにならないことも多々あるが、父の不器用な想いは伝わってくる。父は私に嫌われたくはないのだ。私が幼い頃に、そうであったように。その気持ちがわかるからこそ、なんとも言えない気持ちになってしまう。キツイ言葉を言ったあとは、やっぱり後味が悪い。悪いんだけど、それでも言わずにはいられない。それが親子であり、家族なんだと思う。できれば優しくいたい、でも優しくなれない。家族なのに、いや家族だからか。なんだよ家族って、めっちゃ難しいじゃんって、この歳になって再認識する。



母の病室につくと、父は母に「きたぞ」と声をかける。その顔にさっきまでの不機嫌さは微塵もない。母がゆっくりと目を開けるので、私たちは横たわる母の顔をベッドの両サイドから覗き込んだ。母は、あまりに父と私の顔が近いから恥ずかしかったのか、目をキョロキョロと動かして、はにかんだ。つられて、私と父も笑顔になる。あぁ、やっぱり家族なんだなと思う。



私は今日も、思いのほか強く生きている。


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