偏見とか言葉の価値とか意味をいつも考えてる。結局、言葉も、偏見も時代のマジョリティの産物であり、主観の塊でしかないのだが、客観視というコンサルが作ったような言葉が説得の材料になっているのに違和感を感じる。客観視も所詮時代が作った誰かの主観でしかない。