古来、ラブレターの文章力はかっこよさであり、日本の神々でも夫婦設定があり、ふくよかな体形が美しい、という精神が根底にあるのが日本人とした勉強を学校でした。古事記は存在のみで中身説明はなかったように思う。
程度はわからないが、人気者の子供や人気者の次に生まれた者の幼少期から感じる圧倒的劣等感は致死量と思えるほど。
最新の詠春拳は詠春拳特有の回転力とスピードで相手の打撃攻撃の軌道を弾き曲げるみたいです。(今までは投げ気味に相手の打撃攻撃を防いでいた) かっけーーー✨
高純度な喜びを 表現していた SNS時代が半分。 巧妙度が加わった新SNS時代が半分。 が今の私。
"時"は常に ポジティブとネガティブ に振り分ける。私は因果の因を持ってネガティブ側にいたりする。。日本語特化の哲学による学力を欲しているからだ。さらに因に拘っている。。学生時期に打ち込んだ事柄は全て大器晩成させてやりたい野望だ。不憫な思いをより綺麗な思いにしたい。必要苦行。
真理とは誰どの存在にとっても当てはまるもの、真理=正義の土台が共有の時代を作る。個=正義の土台が言葉は飾りに過ぎない時代を作る。そして、群=正義の土台が争いの時代を作る。。。
聴覚は異性に反応する、気がする。が、無理にポジティブな聴覚にしなくても生きていけるようだ?
思い出 幼少期からベイビーという言葉が脳裏にある。昭和のかっこいい決め台詞のうちの1つで、タバコを吸うかっこいい所作、コーヒーをかっこよく飲む、かっこよさは味じゃなく形と考えており、形の組み合わせで似合う似合わないになると思っている。
男は散り際去り際が重要という台詞があるぐらいで、鍛錬とは勝つためと負ける準備を重ねる故の時であり、いざ本番の試合で清々しく見せるために練習はあると個人的に考えている。
昨今、巷で、ウェイブ心眼流のような技法が流行ってるようで。示現流に感動した者としては、あー、本流から外れてしまった。と思うばかりで、私は自然一体形切り捨て用体術を示現流と理解しており、調和ある流派だなとシビレており、全く後悔はないです。
理を重んずると、 倒すために投げるは 違うと考えている。。 倒すためなら、観察眼と瞬発力を鍛え、相手に触れ、俊敏さで崩し、バランスの弱い部分に向かって脱力で投げるになり、理を探る(できるだけ少ない動作で投げるを突き詰める)は違うと私は思っている。
人を癒やす職につける者は何が悪いかを網羅した人で、大工や寿司職人のような細かい技法に向いている人は何が良いことかを網羅した人で、良い事も悪い事も網羅してる人が組織の指導者にふさわしいと私は思う。
麻雀で言うところの"役"が揃った状態になった気がした。すると、生きる理由がなくなった気がした。ということで、もっと"点数の低い役"に役を変えれば、向上心が出て生きる理由が減ることはないという狙いで呟いてみる。 高得点を取れるのは若いうちだけだったようで、早く知りたかった。