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難病発症したらしいわ、、、からのメンタル回復劇!人生、楽しんだもの勝ち〜行動認知療法との出会い〜

はじめに

お時間あるときに1人の難病に立ち向かい楽しく生活してこれている私の闘病日記です。誰かの勇気になれると嬉しいです

1、貧乏だった大学生時代

私の家は俗に言う裕福でない家庭で高校生の時にはそんなことにも気が付かず、私立の看護大学へ進んだ。
通い始めて、ケータイが止まって友人と連絡が取れなくなるのは日常茶飯事。
これはお金がいるぞと言うことに気が付き授業終わった後は急いでバイトへ行って深夜まで働いて、1限目から授業は出て赤点を取りながらも優しい友人や先生に恵まれながら、あとは運も味方してなんとか卒業し看護師の免許を取得。
看護師になることができたのだからこれからはお金に困ることもないはず!自分のしたいことを目一杯するぞーと意気込んだのを今でも懐かしく思う
(患者様の皆様ごめんなさい、若き私は看護というよりも目の前の生活が豊かになることが全てだったのです)



2、社会人1年目(看護師1年目)お金がある!

学校とバイトでいつ寝るの?の生活から解放されて、働き始めてすぐは時間とお金に余裕があり遊び呆け、ほぼ外食三昧
もちろん、看護師1年目だったので寝る間も惜しんで勉強し、先輩看護師から厳しく指導され涙する日も数知れずあった。今思うと本当に恥ずかしいが、忙しい業務をどれだけ早く回し、いかに残業せずに帰るかばかりを考えていた

3、バカが夏風邪をひく

そんな生活を続け、夜勤にも入り始め収入は鰻登りで、こんなにお金持ったことない、欲しいものを我慢せず買ってもお金が残る!経験が数ヶ月過ぎた2年目の夏
39度の高熱の日が続いた。仕事が忙しく、熱以外の症状がなく解熱剤を飲めば熱も引くので迷わず働き続けていた。熱がぶり返すあの寒気を感じながら入浴介助を行い、爪のチアノーゼ(紫になる)のも「あ、そろそろ熱出るわ」と冷静にみていた。
そんな日を1週間程度続けていたらついに喉が痛くなり食事が食べにくくなり、食べれないのでしんどくなってきて休み、耳鼻科へ行き抗生剤をもらうが3日経っても熱は下がらず。喉が燃えるほど痛いけどお腹は空く。唐揚げが食べたいけど、喉を通ることを考えるとゾッとするほど痛みが強かった。
免疫が落ちている関係か、陰部もかきむしりたいくらいひどく痒みがあった。過去にカンジダにもなったことがありその類だろうと勝手に思っていた。
厳しい先輩からは「3日経っても熱が下がらないなら普通再診するでしょ」と嫌味を言われながら再度耳鼻科へ行くと、「喉に口内炎ができている」と言われ初めて出されたプレドニン。魔法かな?と思うくらいすぐに症状緩和し元気回復!

4、難病発症したらしいわ

元気回復たが、陰部を無意識に掻きむしったせいなのか潰瘍らしきものができていた。耳鼻科の医師に3日後に再診に来るように言われていたが、元気になったので不要では?というほどだったが何となく行かないといけない気がしてきて受診。
「喉の口内炎は良くなっている」と言われ安堵し何を思ったのか「陰部に潰瘍ができてしまったので今日、婦人科を受診しようと思っている」と話をしたところ、医師がひどく驚き「もしかしたらベーチェット病の気があるかもしれないので急いで皮膚科と眼科を受診するように」と指示された。
何病か聞き取れないまま待機に回され眼科、皮膚科と受診。
皮膚科の医師に「ニキビもあるしおそらくベーチェット病だろう、詳しく調べないと断定はできないけど、耳鼻科でステロイド開始になっているからしばらくは内服がどっちにしても必要だから通院して。今後は皮膚科が主治医でみるから」と言われ、そこでプレドニンがステロイドだということを知り、国家試験で勉強した時に必死こいて勉強したあれか!と気がついた
先輩看護師に「ベーチェット病で熱がなかなか下がらなかったみたいです、人にはうつらないらしいです」とだけいうと「待って、ベーチェット病って難病だよ、ほらEXELの誰かもなってるやつ、失明するやつだよ」と言われて初めてことの重大さに気がつく。“ナニソレタベレルノ?”



5、初めての入院

難病と言われもいまひとつピンとこない
これが率直な感想だった。ステロイドを途中で急にやめてはいけないこともここで初めて知った(看護師2年目なのに、、、)
とはいえ元気なのに毎日薬を飲むのは難しい。頭が痛ければ鎮痛剤を飲みたくなるが、何の症状もないので飲みたくならない。食事の後のタバコは覚えていても薬は覚えていない。小さい粒だから転がってもいくし、何日まで飲んだかもわからず再診日でも薬が残る。
だんだん股関節、膝関節に痛みが出始めるがちょっと遊び過ぎたかな?程度
だんだん頭痛もで始めるが、生理前の頭痛かな?程度
それが少しずつ、鎮痛剤を手放せなくなり効きが切れると頭を抱えるほど痛くなるので切れる前に逆算して飲むようになった。
ベーチェット病だと診断されて1ヶ月も経っていないのに、呑気な私は病気のことをすっかり忘れかけていた、
そんな頃、熱が出た。しかも高熱。飲み薬では太刀打ちできず座薬を入れないと解熱効果がいまひとつなくらいひどい高熱。
1ヶ月経ってもベーチェット病疑いのままだったので、抗生剤処方され帰宅し、しばらく仕事にも出られず。頭が割れるほど痛く、動かすのも嫌なほど。ついには吐き気まできてトイレの前から動けなくなりトイレの前で寝ることも。

あまりの頭の痛さ、吐き気を訴える私に、念のためMRI撮ってみようかとのこと、結果
「髄膜炎になってるわ、ひとまず入院しよう」

入院してステロイドミニパスというものをした。多量のステロイドを点滴投与し、内服へ切り替えて少しずつ量を減らしていくとい治療方法だった。
ミニパルスをすると嘘のように頭痛が軽減し、元気復活!スマホの画面見るのもしんどかったけど、ゲームでもしようかなというほど元気になった。
身体は元気になったけど、入院生活は辛かった。
初めての入院だったので個室で過ごしたが、外の空気は外来が休みの日にしか吸えず、
ただただ窓から外を眺め、時々くる人とだけ話をして、食べたいものは買いにもいけず。病気に関して調べる時間はたっぷりあって“私は病人になってしまったのだな”と自覚するには十分すぎるくらいの時間だった。
一度退院した後、全身チェックのために大きめの病院へ再度入院。
ここまでくるとだいぶ病気について勉強していて、ベーチェット病は血管、消化管、神経に病変が現れるよう。人生初めての髄液検査、胃カメラと大腸ファイバー検査を行った。
セルシンの効果を実感し、大腸ファイバーの後の腹部膨満感と我慢しきれないほどのガスなんだかほんと色々とどうでも良くなってきた。髄液検査の後は、病気とはまた違う頭痛に悩まされ滅入った。
恋人もいたが、ドラマのように別れた方が良いとも思ったが別れれるほど自分のメンタル強くなかったので、彼は私のメンタルサンドバックとなり耐えてくれていた。

6、精神科通院で出会った認知行動療法

2週間の入院生活と2週間の自宅療養を終えて仕事復帰。バタバタと忙しい仕事は色々と考えずに済んで助かった。だけど、何にも楽しくない。あんなに望んだお金だって自分で稼げるようになったのに辛い。
看護師2年目。いろんなことにもチャレンジしていきたいし、将来役職だって狙いたかった。同期はどんどん新しいことをおこなっていく中「ストレスは病気に悪いだろうから」と新しいことは任せてもらえず。厳しく指導してくれていた先輩も腫物に触るように指導も緩くなりますます私は病人になった。
ベーチェット病も確定診断となり、難病受給者証も届いた。しかも症状から神経ベーチェットの診断となった。
ぼーっとすると気がつけばスマホで検索し、神経ベーチェットは認知症発症や失明の可能性もあり、20代前半でこんな病気になり周りを悲しませてしまうのかと悔しいのか悲しいのかよくわからない涙も流した。強がりだった私は他人や親に弱音も吐くこともできず、ただただ涙した。辛すぎて堪らず、当時大きめの病院へ通っていたので精神科を受診するように進められ、ますます落ち込んだ。
当時、精神科はちょっと様子がおかしい人が行くところと思っていた(ごめんなさい)ので、行くのも怖かったが、待っている人の多い診療科で思っていたところと随分違った。薬で治すところだとばかり思っていたけど、医師も看護師もゆっくり話を聞いてくれ、認知行動療法というものがあることを教えてくれた。

7、認知行動療法

医師がおすすめする本をすぐに買って読んだ。難しくて全てを理解できたわけではないが、当時の理解としてはものの受け取り方、考え方を落ち着いて考えてみてみなさいよ、みたいな内容だった。人生において病気は上位にのぼるほどの強いストレスが起こるそう。
自分は人生において同年代では誰よりも強いストレスにさらされている、だからひとまず落ち込むだけ落ち込んだらいいのではないか。
散々に落ち込み涙して、色々と考える余裕が出てきた。最初は半強引な考え方からだったが、大切な誰か(私場合は家族、恋人)が病気になるのではなく自分で良かったのではないか、大切な誰かの代わりにい自分が病気を引き受けることができてよかった。食べることが大好きなので消化器系の病気でなくてよかったなどから。
病気は悲しいこと、辛いことだけど今はどうか?薬を飲み続けなくてはいけない、夜更かししないようにしないといけない、ストレスは避けなくてはいけない、、、、○○しないといけないは確かに多いけれど、それによって頭も痛くない、熱もないそれで良いのではないかと少しずつ考えるようになってきた。
病気の受け入れができてきた頃、先輩看護師から「病気が辛いというより、悔しいって気持ちの方が大きいように見てるよ」と言われやけに腑に落ちた。看護師してみんなと同じペースで成長していけない、両手を広げて結婚や妊娠を考えることができないことが、私は悔しかったんだなと気がつくことができた。私は病気になったことによって悲しい、辛い、悔しいなどいろんな感情が一気に押し寄せてきてぐちゃぐちゃの渦のながに陥っていたのだった。

8、患者側になって初めて気がつく患者の気持ち

仕事復帰して入院経験や病人経験したことが意外にも役に立つことがあった。それが患者の気持ちがわかることだった。大部屋の隣人のいびきや温度調節から検査に向けての不安や自分の病気への不安などだった。病気になる前は苦情だった隣人のいびきや温度調節は、勇気を振り絞って訴える意見や思いに感じるようになった。検査の不安軽減のために疑問に思いそうなことはないかとゆっくり話をして、検査の前には声をかけたり終わった後には背をさすったり愚痴を聞きに行くようになった。病気の不安は、わからないこと、知らないことからくる謎の不安を少しでも減らせるようにわかりやすい言葉で伝えたり、医師からの説明の後は「先生の話、わかりました?」と声をかけるようになった。
スタッフ間の会話でよくある「肺炎の人」「501の人」ではなく「○○さん」になった。ベーチェット病である前に私は私であること、肺炎である前に1人の人間であることをすごく意識するようになった。
先輩たちが、ストレスをかけまいと気を遣ってくれることが以前は腫物に触るように接されていると感じていたが、ありがたいなと感じれるようになった。健康が資本であるから、自分のペースで細く長く仕事が続けていけるようにしていければいいと思えるようになったからだ。

9、薬を飲んで元気に過ごせるのだからいいではないか!

病気は落ち着いていて、ステロイドを順調に減量していけることが目標だった。
仕事の方は、仕事=お金を稼ぐものから、仕事=やりがいや人のためになれることなのだな、看護師になってよかったと思えてきた頃、今振り返ると正直少し調子に乗ったのもあると思うが、発症した。正しく言えば寛解と増悪を繰り返す病気なので増悪した。
退院後恐る恐る過ごしていた時期から、気持ちも落ち着いてきて夜勤も再開できるのではないかと思えてしまったのだ。そこに続いて、飲み会に誘われても22時には解散していたのに楽しくていつもの時間を越してお酒も飲んだ。
翌日喉痛がきてそうこうしてたら、頭痛と熱が出たのでやってしまったと思ったがもう遅い。すぐに大きめの病院に行けと指示され救急室へ運ばれた。歩くのもやっとで、車椅子って考えた人に感謝したいほどだった。即入院となり、順調に減っていたステロイドもまた振り出しに戻った。ステロイドを大量投与されたら水を得た魚のように動けるようになったが、またも髄液検査をして頭痛に悩んだ(私の場合は水を抜くことによって脳圧に変化が起こり、頭痛が起こるそうで今後は症状が出たら検査はせずにそうであろうとの扱いにすることになった)
あんなにそうっと過ごしていたのに、調子に乗った。減量をすることをひたすらに目標にして進んできたのに、また元に戻ってしまった。病院は気分を落ち込ませるには十分な効果があるのは発症時にわかっていたけど、わかっていても落ち込んだ。
職場の師長さんがお見舞いに来てくれ「薬が効いて元気になったような気もするかもしれないけど、(ステロイドの副作用で)免疫力がかなり低下しているのだからゆっくりしないと、入院しているおじいさん並みの免疫力なんだから」と言われ妙にしっくりきて、ゆっくり休む気持ちになれた。
退院後、落ち込んだ気持ちも少しずつ上向きになれてきた。今回の入院では、仕事をするにしても遊ぶにしても健康が資本である、これは揺るぎないことが身をもってわかった。高血圧の人は高圧薬を飲んで通常血圧になり、心筋梗塞などの次の病気を予防することができ、健康に生活することができている。私もそういった方と同じではないかと思えるようになった。ステロイドは諸刃の剣、確かに長く内服を続けると副作用はあるかもしれないけど、将来の不安を思って今も不安で過ごすのは結果的にずっと不安でい続けるのは損ではないかと思うようになってきたのだ。損得で考えてしまう思考、学生の頃貧乏していてよかったとも思えた。

10、病気なのは大変なこと?

少しずつ前向きになっていたものの、気が緩むとやっぱり泣けてくる。そんな時に言われたのが「病気に対してコンプレックス持ちすぎ、そんなに大変なことなの?」と彼に言われた。驚いた。今まで周りからは病気になってから大変ね、しんどいねと声かけられることは多くても大変なの?って聞かれたことはなくて、、確かに大変じゃないかも!と思えるきっかけをくれた。病気を大変にしているのは自分自身だと気がついた。そうだ、病気を大変かそうでないかを決めるのは自分だ。ちょっと心が軽くなった。

11、私にしかできないこと

久々の増悪入院からより一層慎重に過ごし、またしばらく増悪なく過ごすことができた。自分のペースで成長を、仕事を任せてもらえたらいいと思い過ごし自分の中で次は夜勤への復活が目標となっていた。師長さんは、いつでも私のことを応援してくれる師長さんだったが夜勤復帰の申し出をすると「自分が師長である限り、夜勤はしない方がいいと思うからしなくていい」と言われたのだ。なんで!とも思ったがいつも私のことを心配しながらも応援してくれる師長さんなので、私の身体のことを思っての判断だったのだとすぐに理解できた。が、じゃあどうやってスキルアップしていけばいいのか、出世コースから外れていてもせめて人通りのことができるようになりたいが目標だったのに。
所属の病棟に脳梗塞でベッド上で自分では思うように動けず、意志も伝えることができないが拒否は強く手には抑制の手袋をつけ、食事も鼻から管を入れ、それでも不十分だからと点滴を行い(毎日漏れるので毎日針刺し直し血管も細くなかなか入らない)排尿も管を入れたままの60代くらいの男性が半年くらい入院していた。医師からは胃に穴をあけて栄養管理にするのが良いと勧められるが、妻では決められず今の状態が半年続いていた。ついには膝にできた褥瘡が深く膝裏に穴が空いたような状態にまでなっていた。半年も入院しているのでスタッフの処置は手慣れたもので流作業にも等しかったし、医師も妻が判断仕切らないと説明の間隔も開くようになってきていた。
今の患者さんの身体の状況は病院スタッフがよくわかっているけど、患者さんがどんな性格で何が好きで妻や家族との関係性やなんの仕事を頑張ってこられてきたのか等全然知らないなぁと思い始めた。妻にとっての夫はどういう夫だったのか、患者さんには患者さんの今までの人生があって今はその一部分にしかすぎない。スタッフには思い付かないような思いを本人や家族は持っているのかもしれないそう考えるようになった。そこに気がついた時には遅くその患者さんは亡くなってしまい私は何の話もできなかったが病気になっても1人の人間として扱ってもらいたい、気持ちを大切にしてもらいたい。それは私も入院している患者さんも同じである。
医師からの説明や提案は医療的に診ての話がほとんどである。医療と気持ちの橋渡しできるのは看護師であり、病人でもある私にしかできないことではないかと考えるようになってきた。
人並みにできるも大切かもしれないけど、私は私にしかできないこと(看護)で患者さんの役に立てばいい。

12、退院支援看護師

そういうことできるのって誰?と思ったときに1番に思い付いたのがケアマネジャーだった。ケアマネは経験年数5年ないと受験資格がないのでまだ足りずできない。一人一人の患者さんに寄り添って看護していくのが良いとも思ったが業務が忙しいと後回しになりがちな患者さんの気持ちを聞くお話。
ちょうどそこで加算の一つとして出てきたのが退院支援看護師であった。退院支援看護は、入院した時から退院後の姿、希望を聴取しながら入院中から退院後の生活を想定し入院生活を送っていただけるようサポートしたり、自宅や施設退院になったときに困らないように在宅スタッフと連携してスムーズに自宅に帰れるように支援する役割だ。ゆっくり患者さんと話をして思いを聴取する看護師である。
夜勤をして人並みの仕事ができるようになるを目標にするのではなく、患者さんへより沿った看護を病院で行っていけるスペシャリストになるぞが目標になった。
国の方針で入院期間が長くなると病院の利益が上がらないシステムになっていて、本当に治療が必要な人しか入院が難しくなってきている。そんな中で気持ちを大切にいていけるスタッフは貴重だった。
在宅を知るために介護保険を勉強し、病院から在宅の見学にも行った。そうこうしていると仕事に夢中になって、出世から外れているとか、病気で同期から遅れをとっているとかどうでも良くなってきた。

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13、人生楽しんだものがち!

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