お経、僧侶、宗教に触れた日
前略
アンチエイジングからウェルエイジングへ。otemoyanさんの記事を読み、チョコレートに伸ばしかけた手を思わず引っ込めました。目の前の欲と、未来の自分がどうありたいかというイメージ。日頃の習慣がいずれ大きくものをいう、そんな当然の摂理につい目をそらしがちですが、10年後の自分は今の積み重ねであることを常々想像しなければ……。
***
”美”とはまた違う観点になってしまうけれど、桜の時期に逝った父の口元をふと思い出した。口元、というか歯があるかないかで高齢者の見た目の印象は大きく異なるもの。父は歯が弱くて早くから入れ歯を入れていたものの、晩年は入れ歯を作っては失くし、作っては失くし…で、亡くなる2カ月前にも新しい入れ歯を作ったばかりだった(どこに失くすのかはいつも本当に謎だった)。結局真新しい入れ歯もほぼ使われることはなく、せめてあの世でおいしいものを食べてねと棺の中に納めたのだった。
コロナ禍ということで、父の通夜と葬儀は近隣に住む身内だけで行ったが、それはやはりどこか寂しく感じるものだった。5人姉弟の4番目だった父。存命なのは姉1人と兄1人なのだけど、ともに80代で遠方に暮らしていることもあり、今回の参列は叶わなかった。とくに、父は姉とはもう20年近く会っていなかったこともあり、電話口で「弟の顔を最期に見てやれないなんて……」と叔母は声にならない声を絞り出していた。コロナ禍が収まったら、私が父の写真をもって叔母に会いに行こう。
また、僧侶がマスクをしてお経を読むというのもコロナ禍ならではなのだろう。それにしても、お経がこれほどに心を慰めてくれるものだとは、父の死を経験して初めて知った。いや、お経というより僧侶の存在、宗教というものに、だろうか。私はこれまでお正月は神社にお参りし、山や海など八百万の神を敬い、祖父母の法事ではお寺を訪れて仏様に手を合わせ、クリスマスにはケーキを食べてお祝いをする……という、日本ではごくごく一般的な宗教観をもって生きてきた。おもにお願い事をする時だけ神や仏を頼ってきたわけだが、心をこれほどに慰めてもらったのは今回が初めてかもしれない。持って行き場のない激しく動揺した心に「安心してください」と語りかけてくる力。宗教というものが世界各地で生まれ、必要とされてきた理由の、その片鱗に初めて触れたような気がした。
草々
matsuon