選挙
素敵だと思う人は、いつもなんか強い。
「強い」の内訳は、自分以外のモノや人に対する怒り、違和感、嫌悪感みたいな、「これなんか嫌だ、肌に合わない」という心と身体の拒否反応を感じられること。
そして、その反応を躊躇なく発露できること。
こういう「強さ」を持った人が、周囲に多い。
たとえば、浮気した友だち、仕事に遅刻した同期に対して、「それおかしいよ」と声を荒げて怒る。街中で見かけた奇を衒ったような服の着方をするファッションの人、「オシャレ」としてバンTを着る人に、すれ違いざま「ダサいな」と言う。
すごいのが、友だちの恋人や浮気相手が自分の近しい人でもなく、同期が遅刻したことで自分が上司に怒られたわけでもないし、その服のブランドやバンドが好きだからこそ怒ってるってわけでもない。
ただ自分とは関係のない他人が、自分の「肌に合わない」言動をしているのをほぼ見かけただけだ。
こんなことをすれば、大体喧嘩になるだろう。実際、それで争う場面も何度か見た。でも、そんなことは大した問題じゃなくて、飛びかかって敗れたりしても、そこで悔し涙を流すことがあっても、「そうじゃないだろ」という気持ちが止まることはない。私は、そういう人たちの物言いと、エネルギーのこもった目にいつも圧倒される。
その目は何かを信じている目だ。
まず、自分の中に美しいものと美しくないものの明確な基準があり、その審美眼を心から信用している。それは自信でもあるように思う。だからこそ、「許せない」「こうした方がよりいい、自分ならこうする」という強い気持ちが、湧き出るのではないか?
私自身は、浮気しないし、仕事で遅刻はしないし、よく知りもしないバンドのTシャツは着ない。そうしている自分は嫌だなと思うから。でも、自分以外のことなら他人の審美は他人のものだと線引きをしてしまうから、まったく強い感情が生まれない。だから、浮気する友だちの話が面白いと思うし相談にものる、バンTが好みならいいねどこで買ったの?と興味が湧く。
ずっとこれでよかったけど、私の周りの素敵な強い人たちを思い出すと、「これって、もしかしたら自分にも相手にもずるいことをしているんじゃないか?」と感じるようになった。
選挙に行かない人を批判する同年代の発信に対しても同じ感情を抱く。私は選挙に行くけど、行かない人を見てもなんとも思わない。だから何も言わない。
一方で、私の周りの素敵な人たちは、「そうじゃないだろ」と言う。その人が大切にしているものの軸が他者から見える場所にあるからこそ、自分が美しいと思うものを他者にも美しいと思わせることができる。そのエネルギーが場を巻き込んで、人を動かすんだ。
私が守りたいものも大切なものもちゃんとある、でも誰も知らない。誰にも知らせない限り、それはないのと同じかもしれない。