ポムポムプリンのスリッパ #かくつなぐめぐる
2020年春から2年間、自分の家がなかった。それまで1人暮らしをしていた部屋を引き払う手続きをした矢先に新型感染症が流行り始め、新天地と決めていたドイツへの渡航を取りやめた。ニュース速報は絶え間なく不安を煽る。もうじきこの部屋を出ていくのに、やろうとしていたことも白紙になった。急に未来が不安になった。ベランダから取り込んだばかりのTシャツを握りしめて、「一緒に、住んでもいい?」とかつての同居人に電話をかけた時のことを今でも思い出せる。
そうして、先の見えない混乱に流されるように人の家に転がり込んだ。
「次」が決まるまでの、仮の暮らし。
最終的に、この仮暮らしは2022年の春まで続いた。
1人暮らしをしていた頃、やりたい放題の生活を送っていた。キーマカレーに納豆をかけて食べても変だとからかわれない。週一の洗濯と床掃除でも文句を言われない。玄関に靴を3足並べっぱなしでも朝の身支度の邪魔にならない。
心に澱がたまると切ない映画や音楽に手伝ってもらって、人目を気にせず泣いてスッキリする。楽しい気分になりたい時はお笑い芸人のラジオを聞く。くだらないことを話せる友人に電話をかける。
自分がこれをやりたい、こういう気持ちになりたいという欲望のまま動くと、それが全部実現する。
かりそめの全能感。まるで城暮らしの王様。
そんな王様が自分の城を出て、他人の生活に入れてもらうことになった。居候先は1Kで、そこで人間が2人暮らすと、何をしていても視線の端にいつも他人がいることになる。
オンラインミーティングでは、同居人の私生活が映りこまないように細心の注意を払う。お風呂に入る順番も、就寝・起床時間も自分のことばかり考えていられない。自分の城に住んでいた頃とは違い、配慮がなければ成り立たない生活だった。
最初は四苦八苦したが、努力の結果うまく新しい生活に馴染むことができた。一緒に料理をする時間が楽しかった。小さく切った鶏モモ肉とささがきごぼうをにんにくと共に炒めて甘じょっぱく味付けしたものをまぜごはんにする。これが本当に美味しくて、何度も作り、一緒に食べた。同居人に至っては、実家の両親にレシピを教えるくらい気に入ったらしい。
共有できる楽しみを増やすと、この生活が大切に思えて達成感が芽生えた。
その後、実家で1年暮らすことになる。いつでも帰っておいでという家族の言葉に甘えて、「またお世話になります」とLINEを送ると、不思議なくらい喜んでくれた。また一緒に暮らしてくれるなんて思わなかったなあと嬉しそうな父の顔は、きっと忘れられない。
私の父は厳しい人だ。仕事一筋で、自他に厳しく、小さい頃はよく怒られた。昔ヤンチャして義務教育もほっぽり出したけれど、仕事のことになると朝4時に起きて毎日勉強する。真の仕事人間。そんな父が、私が実家に戻って数か月が経ったころに、優しい声で笑いながらこんなことを言っていた。
「食事の時間に会話が増える、笑い声が増える、それだけでいいんだよ。」父の職場の人間がもしこの光景を見ていたら、全員ひっくり返っていただろう。
そんな実家暮らしにも慣れてきた頃に「一緒に住まない?」と友人に誘われた。一緒に住もう、というお願いをすること・されることがこんな短期間に何度もあるなんて。名残惜しくも実家を出ることにして、友人と物件を探した。この時点で半年後の予定が決まっていたから、友人の名義で部屋を契約して、2度目(3度目?)の居候生活が始まった。
しばらくして、こんなことがあった。
ついついトイレのスリッパを踏んで使ってしまう私に、友人は「スリッパ踏まないでちゃんと履いて。かわいそう」と言った。ポムポムプリンの顔を模したボンボンがついたスリッパだ。納得して、それ以降はきちんと履くようにしていた。ところがある朝、友人が出ていった後にトイレに入ると、踏まれて煎餅になっているスリッパが目に入った。私は踏んでない…と思う。
ということは?ぺちゃんこのポムポムプリンを見て、つい笑ってしまった。
こんな日常の1コマを、今でも覚えている。2年の仮暮らしを卒業して、新しい部屋を手に入れた今ふとしたタイミングで蘇る。まるでまだ誰かと住んでいるみたいだ。
誰かの生活に入りこんで、そしてまた出ていくということは、別れがあって、出会いがあるということで、忘れられないであろうことを言ったり言われたりもした。ただそれでも、自分の生活と他人の生活が混ざりあって、ひとつの形が見つかる瞬間が好きだ。
生活を共にできて嬉しい、とか、そこにいてくれるだけでありがたい、とか、そんな気持ちが分かるようになった。
人が変わり場所が変わり、地続きで暮らしは続いていく。今は近くにいない家族の生活、友人の生活にもたまに私が顔を出しているかもしれない。
ついさっき、今週末は台風が上陸するというニュースをアナウンサーが読み上げていた。注意を呼び掛ける力強い声が不安を誘う。「風やば、家にしがみつこや」「家ごと飛んだらウケるね」「その時はもう仕方ないやんな」
かつての暮らしで交わした会話と笑い声が、どこからか聞こえる。