【恋愛の深層心理】冷たい異性にはまる理由
「やさしい人が好き」といいながら、
傍から見ると明らかに優しくされていない
カップルってたまにいませんか?
そういうカップルに限って長続き
してたりしますよね。
ここには「恋愛の極意」とヒントに
なるものが隠れているんです。
以前の記事(02 人のせいにしていると幸せになれない)
では、「H」「A」「人」という関係のタイプが
出てきました。「依存」が関係を強くしていたり、
「アンバランスのバランス」
だったりというのが出てきました。
今回は「人が感動をおぼえるとき」
というのがポイントになります。
これを読んで下手をすると映画や小説といった物語に
感動できなくなるかもしれませので、
読むかどうかは気をつけてください。
実際、私はこれに気づいたことで、
映画や小説に感動できない時期がありました。
今でも、これを知る前と比べて
感動が少し減ったような気がします。
この世には「知らぬが仏」ということがあるんですね。
少し脅かしすぎましたでしょうか。
人には「逆説志向」が効くのですが、
それを更にひっくり返して見ます。
(逆説志向:スポーツの試合などで「相手に勝つ」ことに集中するよりも「自分のベストを出す」ことに集中すると成績がよくなる。このときの「目的に対して直接」のアプローチではなく、2次的に目的の達成を狙う意識の持っていき方)
裏の裏は表ですね。 でも、裏側を見てから見た表は 表しか見ていない表とは違うものです。 1. どうすれば人は感動するか
冷たい異性にはまる理由は「人がどうすれば感動するか?」
と同じ原理です。
映画や小説を例にして、見ていきましょう。
再度、注意ですが、
映画やドラマ、小説などが趣味の方は、
ここから先は読まないことをおすすめします。
それらを楽しめなくなる可能性があります。
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さて、人が感動するにはどうすればいいかです。
「ギャップ」を利用すればいいんですね。
映画やドラマ、小説が、なぜ面白いかというと、
「え!そうなの!?」というビックリがあるから
のことが多いです。
あとは、「あぁ良かった☆」という安心感もいいですね。
これを意図的に演出するのが映画やドラマ、小説
といったストーリーなんですね。
もう最初から結論を言ってしまいます。
「想定できる最悪の状況を作り、それを克服する」
これで感動は作り出せます。
残念ながら、これを頭に置いて映画やドラマを
見ると、展開や結論が読めてしまいます。
ポイントは「想定できる範囲内」ということです。
うまいストーリーはこのギリギリのラインを演出します。
想定できるかどうかのギリギリを攻めているんですね。
「想定できる範囲」を越えてしまうと
自分を重ねることができなくなってしまうので、
なんだか突拍子もないものを見ているような
感覚しか得られないんですね。
人の心理からいって、ストーリーを見るとき
うすうす「こうなったらいいな」ということと
「こうなったら最悪」ということを
無意識的にイメージしています。
平和な結論を崩され、想像していた最悪のパターンが
起こったときに「え、どうするの!?」
というドキドキが生まれます。
そして、それを克服して幸せになると
「あぁ良かった!」という感動があるわけです。
よくある演出はこうですよね。
「平和な日常・素晴らしい関係」
→「アクシデント」
→「立ち向かう」
→「克服する」
最初に「平和・安心・安全」という基準を作り、
それを壊すことで、大きくショックを受けます。
そのショックを四苦八苦しながら克服していくところに
「共感」を覚え、自分を重ねていくんですね。
そして、それを達成したときに大きな感動が生まれるわけです。
これらに「リアリティ」、つまり「それわかる!」
という現実感を加えることで、作品は生きてきます。
たくさんの人に共感されることで作品はヒットします。
つまり「想定される最悪のパターン」を
想定できるようになってしまうと、
話の先が読めてしまうんですね。
そして、結論はだいたいが「人が潜在的に求めているもの」
に帰着することが多いです。
「何もない平和な日常」ですとか、
「愛のある生活」ですとか、「不安がなくなった」とか、
「厳しい現状を受け入れていく」という感じでしょうか。
当然、ストーリーのつくり手が言いたいことによって結論は
変わってきますが、「人とはどんな生き物か?」ということを
考えていくと、先が読めるようになってしまいます。
これがひとつの感動の作り方なんですね。
現実は物語よりも奇なりと言われる理由がよくわかります。
現実は想定される以外のことが理不尽に起こるわけですから、
ストーリーには勝てません。
また、そういったストーリーを作っても楽しめないわけです。
要は、人には
「逆境を乗り越えることに感動を覚える」
という習性があるということです。
ストーリーは逆境を意図的につくり出し、
それを乗り越えるプロセスを演出しているわけです。
テーマを変えることで、共感する人の種類を
変えているわけですね。
ギャンブルにハマルのも同じ原理ですし、
DV(ドメスティック・バイオレンス)の例をとっても
同じ構造があります。
これをうまく利用して、健全な関係を
つくることも可能です。
2. ギャンブルとDVについて
感動する理由をお話ししてみました。
ギャンブルとDVがこれと同じ理屈という
ところを紹介していきましょう。
人の習性がわかってくると
「冷たい異性にはまる理由」もわかりますし、
どういう恋愛をしていけば異性を継続的に
惹きつけられるかもわかってくるでしょう。
感動は「ギャップ」を利用するということでしたね。
ギャンブルもDVも同じ特性を持っていて、
なかなかやめられなくなりますね。
さて、どういうことでしょう。
ギャンブルはわかりやすいですよね。
「当たると儲かる」わけです。
「しかし、なかなか当たらない」んですね。
だから、もっと「当たりたい!」と思ってしまうんですね。
それで「たまに当たる」わけです。
「なかなか当たらない」のに「たまに当たる」わけです。
これが「快感」なんですね。
また、「大負け」している中で
起死回生的に当たったりするわけです。
ストーリーに感動するのと似ていますよね。
ギャンブルは「基本的に当たらない」ようになっています。
これは「お金が減っていく」という危機感です。
「最悪」にどんどん近付いていきますよね。
ギャンブルはまず初めにお金を投入しますね。
初めから「お金を失うかもしれない」という危機感がありますね。
しかし、そこに投入したお金以上に儲かるという
「夢」があるんですね。
それがたまに叶うわけです。
うまいことできていますね。
ギャンブルに慣れてくると、危機感がマヒします。
「勝つ」という夢だけが見えてくるわけです。
こうなるともうはまっていますね。
脳の中で「合理化」が起こるんです。
「〇〇円投入しても、○○円勝てる」とか
「トータルでは勝っている」などと
自分に言い訳をし始めるわけです。
これはギャンブルをしていない人から見れば
「あらあら・・・」という感じですが、
本人たちにとっては「現実」なんですね。
本気でそう思っているわけです。
この「合理化」がポイントです。
見ていきましょう。
「自分へのいいわけ」
「自分に嘘をつく」
「自己弁護する」
これらは「口に出して人に説明する」ことで
どんどん強化されていきます。
人に話したときに、呆れられたりしても
強化されます。
ここから見ていきましょう。
呆れられるというのは「最終的には何も言われない」
ということですね。
これって実は「話が通った」ということと同じなんですね。
無意識的には「受け入れられた」のと同じなんです。
「これを言うと、もう責められない」ということなんですね。
「合理化」が起こっているときの心理状態は、簡単に言うと
「自分がやっていること、やりたいことは正しいことであり、やっていいこと」というふうに「信じたい」
こんな感じです。
他人から「それってさぁ…」と指摘されるのは
はたから見れば「現実を見せる」ということですが、
言われている本人からすると否定されているのと同じです。
否定されるのは嫌ですよね。
しかも、特にギャンブルの場合ですと、
社会的に「あまり良くないもの」というイメージがありますから、
実は本人も「少し悪いことをしている」とか
「止められたらいいな」と考えることがあるわけです。
そこに来て他人からの指摘は余計に効きますよね。
自分のコンプレックスを、自分から話すのは大丈夫だけれど、
他人から指摘されるとショックなのと同じことなんですね。
だから「自己弁護」するために「逃げ道」を
作りたくなるんですね。
そうやってどんどん「うまい言い訳」を作っていきます。
「いいわけ」の種類ができればできるだけ、
ギャンブルをすることを自分に対して許していく
ことになるんですね。
自分に対して「ギャンブルしてOK」な理由を
どんどん作っていくということですね。
ギャンブルへ出かけることを、自分に対して許可しますから、
どんどんギャンブルをしていきますね。
これが、最終的に何も言われなくなるときの強化です。
また、指摘されている最中にも強化は起こっています。
ギャンブルをしている人は、本当に大きく勝ち越していない限り
実は結構な額を損していることに気づいています。
「指摘される」ということは、その損したということを
「思い出させられる」ことが多いんですね。
「思い出す」だけでも合理化は強化されます。
「損」はできれば「認識したくない」ですよね。
ですから、それを人から指摘されるのは
「自分が見たくないもの」を「思いだせせられ」
まざまざと「見なければならない」わけです。
だから、抵抗します。
「見たくないもの」というのは、脳内でうまいこと
思い出さないように格納されることが多いんですね。
「悩み」などと違い、ギャンブルの場合は、
簡単に夢を見ることができますし、
やっていること自体が楽しくなってしまいますから、
「嫌な記憶」VS「楽しい記憶」の対決で、
簡単に「楽しい記憶」が勝利します。
そこで「ギャンブル」=「楽しいこと」という
回路ができあがるんですね。
そこに来て「指摘」されるとどうでしょう?
見たくないものを見せられてしまうので、
「悪いものではない」といいわけしたくなりますね。
指摘してくる人に対していいわけしているはずなのですが、
実はこれ、自分に対してのいいわけにもなっているんですね。
冗談交じりでも、まじめでも「指摘」されたとき、
「これはこうだから、大丈夫なんだよ」と一生懸命説明しますね。
一生懸命それが「問題ない」と説明します。
この「問題ない理由」を探す行為がギャンブルを
強化してしまうんですね。
これは心理カウンセリングと似た効果があります。
心理カウンセリングで相談者さんはカウンセラーに
自分に起きたことや、自分が考えていることを話していきます。
カウンセラーはそれを聴いていき、相談者さんを
理解するところから始めます。
当然、カウンセラーが分かりにくかったり、
より理解を深めたいところがあれば、質問します。
そのとき、相談者さんは質問に答えるために、
その事柄を、より詳しく話したり、違う角度から
説明したりします。
その瞬間に、今までとは違った考えが浮かんだり、
気づきがあったりするわけです。
ちょっと似てますよね。
ギャンブルは「指摘」に対して、いろいろ説明して、
相手に受け入れられようとするのと同時に、
「ギャンブルをする自分」に対してOKを
出すために「いいわけ」を試行錯誤で探します。
「指摘」を受けて、説明する中で
「へぇー!そうなんだ!じゃあオレもやろうかな!」
なんていう返事がきたものならば最高ですよね。
相手に、自分がやっている行動を認められているわけです。
相手が理解し、認めてくれることで、説明している
自分自身にとっても「OK」が出せるわけです。
これが、自分に対するいいわけになっている側面であり、
指摘されている最中の強化です。
「悪いものではない」と弁護すればするだけ
「悪いものではない理由」が見つかります。
そしていずれ悪いものではなくなるんですね。
最終的には「自分に必要なもの」になっていきます。
たばこのケースなどで同じことをよく聞きますが、
「イライラする方が身体に悪いから、
やっている方がいいこと」
こんな風になるんですね。
「悪いものではない」から、またやります。
更に「悪いものではない」だけでなく、
「必要なもの」になったら、もっとやりますね。
大義名分ができてしまうわけです。
これが「合理化」です。
こうやって
「ギャンブルから離れられなくなる」んですね。
「離れられなくなる」
この文章だけ見ると、
「これを恋愛で起こせたらすごい」ですね。
しかし、そこにたどり着く前にまだ道のりがあります。
DVも見ておきましょうね。
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3. DVは続いてしまう。
次はDVについて見ていきましょう。
ギャンブルは「合理化」がポイントでしたね。
DVにもこの特徴はあてはまります。
これら「ギャンブル」と「DV」の特徴を
踏まえて「人の習性」を捉えることで
「冷たい異性にはまる理由」を見てみましょう。
そして、最終的にこれらの「習性」を
ポジティブに利用できる方法へつなげましょう。
DV「ドメスティック・バイオレンス」
一般的には「家庭内暴力」を指しますね。
主に「夫婦間」「恋人間」ですが、
「親子間」のものもDVに入ります。
いずれにせよ「言葉」および「身体的」な
「暴力」および「虐待」です。
「暴力」から縁がない人からすると、
「なんで?」「理解できない」と思われるかもしれません。
ですが、テレビのニュースに出るということがあるだけで、
かなりの数が存在していることを示しています。
テレビでピックアップされることは
「氷山の一角」なわけです。
さて、なぜDVは起こるのでしょうか?
平和に暮らせている方から見れば
「怒ることはあっても手は出さない」
というのが当たり前かもしれませんね。
社会的に「暴力」は「あってはならないもの」
とされています。ですから、怒っても我慢しますよね。
これは「怒り」をセーブできているわけです。
怒りをコントロールして、収められているんですね。
特に悪意を持った何かをされたと感じると
嫌な気分になりますよね。
このとき身体は「闘争か逃走」といって、
脳内にアドレナリンが分泌され、
体を活性化させています。
つまり、身体が準備しているんです。
何の準備かというと、「闘う」または
「逃げる」準備です。
この「闘争」と「逃走」は、実は身体の
反応を見ると同じことが起こっているんです。
この二つの反応を使って、「嫌な気持ち」を
コントロールしているわけです。
「言葉で反論する」とか「理論攻めする」とか
「教え諭す」というのは「闘争」を
うまく社会に合う形で表現したものですね。
「無視する」とか「我慢する」というのは
「逃走」の一形態です。
つまり、人はストレスに対して
様々な形で対応しているわけです。
ストレスを受けたときのその人の反応の仕方を
「コーピング」といいます。
このコーピングの一つとして、「暴力」が選ばれ、
それが家庭内で起こったときに「DV」になるわけです。
ではなぜ普段外では「暴力」を選ばないのに
家庭内では「暴力」を選んでしまいやすいのでしょうか?
ここに「合理化」が絡んできます。
また、「学習」という観点も入ってきます。
まずは全体像を見てみましょう。
暴力をふるっている側は果たして
どんなことを思ってその行為をしているのでしょう?
ほとんどのケースが「正しいことをしている」です。
「悪いことをした人には制裁が必要だ」
といった考え方をしている人が多いです。
ですから、暴力をふるった後に出る言葉は「謝れ!」です。
つまり、「自分は正しいことをしている」と
思っているし、思いたいんですね。
だから「謝れ!」と言うわけです。
相手が謝るということは、その行為を認めることになります。
つまり、自分の「暴力」を「正しい」と認めてほしいわけです。
認めてもらえないと、認めてもらえるまで暴力が続きます。
悪い循環ですね。
謝れば認めることになり、また別の機会で
暴力をふるうことを強化してしまいます。
どんな「合理化」があるのでしょうか。
暴力は高ストレス状態で起こります。
ストレスが、その人の支えきれないくらいまで高められると、
なかなか理性的な対応ができなくなります。
すると、その人が潜在的に持っている
コーピングが現れるわけです。
「子供っぽい反応」が出るんですね。
子供は平気でたたいたり、ひっかいたりかみついたりしますね。
これは動物として原始的な反応なのです。
高ストレス状態だと、こういう反応が出るわけです。
しかも、家庭内というのにもポイントがあります。
「家庭」というのは自分の「ホームグラウンド」ですね。
家でやんちゃばかりしている子供ほど、
外ではいい子にしているものです。
つまり、「家庭」とは「落ち着ける場所」であり、
「解放される場所」なんですね。
「自由にできる空間」なんです。
「家庭」が居心地悪いと、子供には
万引きやいじめなどの不適合が出やすいんです。
DVが起こる理由もここに関連します。
誰もが外では我慢しているわけですね。
ストレスがたまっている状態で帰ってくるわけです。
そこで、パートナーや子供がイラッとくることを
するとどうでしょうか。
ストレス発散の矛先がパートナーや子供に
向いてしまうんですね。
しかも「正当化」された形で、
かつ、その人にとって都合のいい形で発生します。
「これは怒らなくてはいけないところだ」
「相手のためだから」
「しっかり怒って教えてあげなくては」
まるでギャンブルにはまる人が
自己弁護しているときと同じですね。
「正当化」され「合理化」されるわけです。
ここからDVが始まっていきます。
「相手はいけない人」「自分は正しい人」
になるわけです。
そして、相手が謝ったり、怖くて何も言えなかったりすると
それは「受け入れられた」ことになります。
すっきりするわけです。
ストレス状態が収まると我に返り
「自分はとんでもないことをした」と反省しますが、
「合理化」されているので、循環が作られています。
また高ストレス状態になったときに
同じコーピング、つまり暴力が出てしまうんですね。
更に「学習」ということをつけくわえて
DVをもう少し見てみましょう。
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