メモ帳#08 - あそびと研究
暦本さんの「妄想する頭 思考する手」の記事から続く。
・「選択と集中」
研究開発分野におけて悪名高い「選択と集中」というキーワード。
以下に僕の思うことをつらつらと書き下しておく。
この分野における「選択と集中」の本質的な問題は研究で「遊べなくなる」ことだ。
創造的かつ開放的であることは科学の発展にとって、何よりも大事なことだ。研究環境に心理的、時間的余裕がなくなるとどうしてもよりインパクトが大きく、クイックかつ現実可能性の高い(実際にはインパクトが大き"そう"でクイック"そう"で現実可能性の高"そう"な)研究が多くなる。
これでは、イノベーティブな研究が生まれ得ない。
ところで、科学技術の発展は子どもの遊びが独自に開発されていく様と似ている。
同じツールを使いながらも日々変化するのが子どものあそびの特徴だ。
例えば、最初はトランプを使ってババ抜きや大富豪で遊んでいても、そのうち早く負けた誰かが横でトランプを使ってタワーを建て始める。自然とみんながタワーを建設し始め、何段組めるか競うゲームにすり替わる。
そうすると、今度はトランプ以外も使ってタワーを建築する子が出てくる。最初はそんなの反則だなどと非難されるが、新たなルールとして発展的に取り入れられるのは時間の問題だ。
多分この後は「どれだけ高い構造物(使用して良いものは実に民主的な合議で決まるものだ)を作って、そのトランプを立たせられるか」とか「一番早く〇〇まで届くタワー作ったやつが勝ち」みたいな競争が始まる。それともセロハンテープを使ってどれだけ複雑な構造を作れるかを競い始めるかもしれない。
以上は、多段階発展を遂げるあそびの例。
あるいは既存のゲームから一足飛びに別のゲームに移る場合もある。例えばこんな実体験がある。
ある時友達の家でスーパーボールを使って遊んでいた時(どんなあそびだったか覚えていない)、たまたま遊んでいた二階から階段へ落としてしまった。
勢いを増しながら落ちていくスーパーボールを見て友達が言った。
「大量にスーパーボール二階から落として、下の廊下で寝っ転がって受けたらちょっとスリルがあって面白くない?」
今考えると友達の性癖が心配になってしまうが、実際その遊びはものすごく面白かった。何十個ものスーパーボールを二階から落としては集め落としては集めたのを覚えている。
これらのあそびのプロセスは科学の発展のプロセスと本質的に同じだ。
明確な道筋が立っていることはないし、遊び方のわかりきった遊びが楽しいはずがない。そもそも最初から最後まで見通せる道を歩くのは単に苦行だ。
自分の面白いと思ったこと、咄嗟に閃いたことを内なる理想を持って想いのまま試してみる。その過程で様々な経験を得る。想い描く辿りつきたい場所に到達するために試行錯誤する。その過程で新しい発見があって、脇道に逸れたり、目的地が変わったりする。それがあそびだし研究だ。
ただただはっとするような満足のいく結果を得られた時、誰も見たことない景色を見ることができる。
さて、そう考えると研究に大切なのはシンプルに「好きなように研究できること」だ。研究予算や任期を気にすることなく、内なる理想を自由に追求することは、科学を発展させるためにどうしても欠かすことができない。
・多様性ってなんで大事なの?
これで終わりにしようと思っていたけど、投稿する前に読み直していたらもう一つ書いておきたいことが出てきてしまった。
科学を前に進めるために必要なものとして、いまいち広く共有されていないように感じることがある。それは研究の多様性が確保されることが本質的に重要だということだ。
当たり前のことだが、人気のある研究分野というのは研究者の人数も多いし、短期的な成果が見込めることから競争力が強く、獲得する競走的研究費が他分野に比べ多額になる。一方で、日の目を見そうにない分野の研究は、取り組む研究者も少ないし、資金の獲得難度も高い。
このような状況では、競争力が弱い分野の研究は簡単に淘汰されてしまう。
こうした状況に対して「企業はサンクコストを支払いたくはないし、国策としても限られた予算の中で、税金を無駄にしそうな研究より短期的に成果を挙げそうな研究を支援したいからしょうがない」とか、もっとひどいと「競争に破れる奴が悪い」とか「競争力の弱い分野が消えるのは自然淘汰だから当然だ」なんて声があったりする。
実際研究者の中にさえ「競争に破れる奴が悪い」と本気で思っている人もいるようなので闇が深い。そもそもこういう立場をとる人は、競争原理が働くことが無条件に良いことだと思っている節がある。
正直言って、自然淘汰だとか競争原理主義とかそんなことを言っている場合ではないのだ。キーワードは多様性だ。多様性の確保は確実で強固な発展戦略なのだ。
絶滅危惧種や人類に関係の深い生物種をリストアップして個体数の維持に努めたりするのは、生態系の多様性を保つためだ。それぞれの動植物はお互いに直接的にしろ間接的にしろ関係しあって生きている。たった1種の絶滅が周辺の生態系の維持を難しくし、地球環境や人類の発展に影響を与える可能性があるから、人間の破壊的な活動や自然淘汰から保護するのだ。
それと同じことが日の目を見ない研究にも言うことができる。研究資金が行き渡らずに競争力のない分野が消滅すると、それに関連していた分野や将来関連したであろう分野(こちらの方が将来的な影響としては深刻)にまで負の影響を及ぼしかねない。
ストレートな発展だけを追い求めるあまり、目に見えない価値を目に見えないからと言うだけで切り捨てるというのはあまりに想像力のない価値判断だ。
実際研究分野における多様性の重大さは日々明らかになっている。
科学が進歩して煮詰まってくるに従って、単一の分野のみでブレイクスルーを生じさせることが難しくなってきた。それに伴って活発になってきたのが、境界領域での研究だ。つまり、すでに成熟した分野間の裾野で、分野の垣根を越えて研究活動が融合してきているのだ。あるいは、他分野で開発されたメソッドが様々な分野に輸入されるということも日常茶飯事だ。
例えば、機械学習というメソッドは、データを扱っている分野であれば取り入れていない分野というのはもう存在しないのでは?と思うくらいどこもかしこもこの手法を導入している。応用範囲が広いという意味で、数理統計分野の研究も他分野に輸入されやすい。
こうした理由から、研究環境の多様性を確保することの重要性が理解されるように思う。多様性の確保に失敗すれば、主要研究分野であっても世界から取り残されるし、先細りする未来が見えている。
企業でも国でも、数年先の先行利益獲得のために近未来の科学技術へ投資が大部分を占めるというのは、上記の点から戦略として誤っていると言わざるを得ない。特に国には基礎研究等、競争力の弱い分野を確実に保護する使命があるといっても良いだろう。