スキ好き、大好き!心に触れたい、たとえばあなたの。
昨日は記念日だった。
初めてスキをもらった記念日なのだ。
心が弾んでしまい、記事を何個も投稿した。
そうしたら、またスキをもらえた。
今朝も、起きて携帯を確認したら、またもやスキがやってきていた。
やったね。本当に、嬉しいことだ。
この記事を書いている途中にも、スキがご機嫌よく飛び込んできた。
文章を読んでくれた人、スキを伝えてくれた人、みんなありがとう。
こっそり、みんなの記事を楽しんでいます。
コメントも書きたいけど、ちょっと怖い。ネットでも安定のひきこもり。
反響があったとはいえ、自分の恥を晒している自覚はある。
文章は上手くないし、勢いで書いている。
だから、読む人には話が飛躍して見えるかもしれない。
伝えたい思いや考えだって曖昧なままだし、脱線もしまくりだ。
句読点の位置だって、学校ではバツがついてしまうだろう。
読み手の事をしっかり考えて書かれていない、とのお叱りつきで。
それでも、書かずにはいられない。
もう、抑圧はしない。感情も思考も。
抑圧された感情は消えてなくなるわけじゃない。
どろどろと体の中でうずまいて、最後には自家中毒。
訳も分からず、ひたすら苦しくなってしまう。
それで、ずっと苦しんできただろう。
そうやって、かたくなになるんだよ。
思考は、しっかり自覚していないと雲散霧消、我は水なりと言わんばかりに
頭からこぼれ落ちてしまう。何か存在していた、という水滴を残して。
その何かを探して、さまよいつづける。これもまた辛いことだった。
どんな考えも、自分の中であたためて、育んであげてほしい。
言葉は、人によって定義が違う。その背景もイメージも。
だからきっと、人は分かり合えない。
分かり合えないという前提を忘れてしまっては、いけないと思う。
長い時間を共有した人間でも、血の濃い人間も例外ではない。
分かり合えない。そこで孤独な感情が囁く「わかって、理解して、愛して」
それが、難問だ。
私たちは、いかにして、人の孤独を分けあえるのか、自分の孤独を誰かと一緒に溶かすのか。目があって、肌が触れ合っても、誰かが隣で笑っていていも、孤独が癒えたって、確信を持って言えるだろうか?
むしろ、より孤独が増したことの方が多いだろう?
私たちは、言葉を操る動物、言葉に操られる動物でもある。
言葉で肌に触れることはできないけれど、心には触れられる。
今こうして、目も合わせたこともないあなたと。
どうやって笑うのかも知らない、あなたと私は、確かに触れ合っている。
私は、こうして誰かの心に触れたい。
あなたにも、私の心に触れてほしい。恐々とした手つきでもいい。
きっと、同じような気持ちの人もいるはずだ。
だから、たとえ伝わらなくても、伝えるのに幾千の言葉が必要だとしても、諦めずに伝えたい。自分の心臓を突き破って、暖かく流れるその血潮を啜ってほしい。
自分の経験や独り言が誰かの心に触れたら幸いで、
誰かの孤独に花を手向けられたら、
孤独を溶かす、ろうそくの火になれるのならば、
私は惜しげもなく言葉を紡いでいきたい。
あなたが少しでも救われるなら、
それで、きっと、私も救われるのだから。