中央アジアを旅行して考えたこと。(上)
春休みに中央アジアを一人で旅行した。カザフスタンの夜行列車の中でハタチを迎えた。僕は律儀に、日本時間が午前0時になるのを待って食堂車に行ってビールを開けた。
旅行中、「お前は日本語と英語しか話せないのか」と何度も言われた。
「しか話せない」と言っていたわけではなかったが、僕にはそのように感じられた。
彼らは現地語とロシア語を話す。多くの人が、隣国の言葉も話せる。語彙と文法が似通っているためだ。5ヶ国語を操る人もざらにいる。
そして彼らにとって、ロシア語はその中で最も通用する言語である。彼らの世界では、ロシア語が「世界共通語」だ。
「郷に入っては郷に従え」とよく言うが、ロシア語が世界の共通語の地域に行くのに、2、3の単語しか知らずに英語でゴリ押ししようとした僕はおろかだった。
もちろん、冷戦はとっくに終わり、英語こそが真の世界共通語であることは彼らも知っているはずだ。それでも実際のところ、中央アジアはキリル文字を使い、ロシアから多くの観光客がやってくる。
冷戦後に生まれた子どもたちは、小学校から現地語とロシア語と英語の三ヶ国語を学ぶそうだが、それでも彼らにとっては英語よりもロシア語の方がより身近であることに変わりはない。
彼らの世界共通語は、今も昔もロシア語である。
何度スパシーバ!と言われたことか。
相手がロシア語で話しかけているだろうと思った場面が何度あったことか。
ロシア語も現地語も、僕には同じくらいわからないのに。
それはちょうど、私たちが日本語も英語も同じくらいわからない中国人観光客相手に、必死にカタコトの英語で道案内を試みるようなものだ。
僕がスパシーバ!と言っても反応しない彼らが、ロシア語同様付け焼刃で覚えた現地語でラフマット!と言うと喜んで「お前は○○語が話せるじゃないか!」と言ってくれる。
彼らにとって、「外国人=ロシア語を話す人」なのだ。
それくらいロシア語は彼らにとって世界共通語で、日本人よりも人口が少なく、大陸で境界をあいまいにしながら広がり合う諸民族にとって、互いにコミュニケーションを取る手段はロシア語である。
シルクロードという歴史的に「国際化」の最前線にあった中央アジアでも、子どもたちが学校で暗唱させられたであろう
"Sit down, please." や
"What's your name?" とか、
"Where are you from?"
をたどたどしく言って見せる時の気恥ずかしそうな表情は、私たち日本人が英語を話すときの表情と同じものであった。
英語でコミュニケーションをとるということは、教科書の中でのお勉強に過ぎず、結局は非現実的なのだ。
カザフスタンの夜行列車で乗り合わせた子どもたちは、僕にハラショーがロシア語で「良い」という意味であることを思い出させてくれた。
僕はどこでバスを降りればいいのかわからずに困ったことが何度もあった。
旅の序盤でこの言葉を覚えた僕は、バスの車内でロシア語で話しかけられたときに、
「ニエット、ルスキ」
と済まなそうに言うより、
「カザフスタン、ハラショー」
「ウズベキスタン、ハラショー」
と返した方がよっぽど相手の気分を害さないことに気づいた。
僕が英語しか話さないということは、ロシア語を中心とする中央アジアの国際交流における秩序から外れることであり、コミュニケーションの拒絶を意味する。
僕がロシア語がわからない「異邦人」であることがわかれば、あとは僕が旅を楽しんでいることがわかるだけで、彼らは十分満足してくれる。
覚えたてのロシア語で
「ステューディエント・ヤポニスキ・アディン」
と付け加えれば、隣席の人は得意げに、僕が日本から一人で来た学生であることを周囲に通訳してくれる。
異邦人が何やら困っているらしい、という尋常ならざる事態でざわついていた車内も、僕がカタコトのロシア語で事情を説明すれば、目的地までの数十分は再び落ち着きを取り戻す(そして、僕が降りるバス停になると、みんなが口々に「ここだ!」と言ってくれる)。