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中央アジアを旅行して考えたこと(下)

春休みに中央アジアを一人で旅行した。
ロシア語と現地語でいくつかの単語を知っているだけで、旅ははるかに楽しいものになった。

「ヤポニスキ!トーキョー?」
「ダー、トーキョー」
「トーキョー、ハラショー?」
「ダー、ダー、トーキョー、ハラショー!」

そんな僕でも、込み入った話は英語でせざるを得ないから、英語を話せる人とは英語で話していた。
観光地の店の人や入国審査官はともかくとして、高校生や大学生くらいの、僕と同世代の人は、僕の英語が彼らより流暢なことに驚いていた。僕の英語は日本の大学生の平均レベルのはずだ。

彼らが生まれる少し前まで、彼らの世界の中心はロシアであったこと、そして今でもロシア語が彼らの世界共通語であることを理解したうえで、僕は「英語が上手いですね」と言われても「私の英語はまだまだですし、ロシア語はまったく話せませんよ」と謙遜して見せた。

僕は日本語と英語の二ヶ国語を話せるが、彼らの多くは現地語とロシア語と隣国の言語の三ヶ国語を話す。言語が違うだけで、彼らの方がよほど語学の才能があるのだ。


宿の公用語はどこも英語だった。現地の労働者や旧ソ連からの観光客はロシア語で話していたが、英語とロシア語でテーブルは分かれていてその間の交流は殆どなかった。

共用スペースに、隣国から来た旅行客と僕が2人でいたときは、僕たちは英語で会話をしていた。しかし、彼女の友人もやってきて、他の旅行者も来たら、たちまち英語とロシア語でテーブルが分かれてしまう。

僕は、英語のテーブルの中では円滑にコミュニケーションが取れているから、自分の英語にそこそこの自信をもっていた。

僕たちは言葉が通じない「異国」を旅する「外国人」として、ある種の連帯感を抱いていた。

同じアジアでも東アジアと中央アジアでは顔立ちが全く違うようで、1桁多い外国人料金を設定するモスクの入り口では、僕は必ず呼び止められて外国人料金を払わされた。

僕たち「外国人」は、英語で会話し、英語で連帯した。


ところが、中国に来て状況は一変した。中央アジアの旅行を終えた僕は、トランジットも兼ねて北京で1泊した。

他の「外国人」宿泊客が英語で会話しているのが、急に聞き取れなくなってしまった。もちろん、ネイティブとノンネイティブの比率の問題かもしれない。しかし、僕にはそれだけに思えなかった。

中国語が分からない「外国人」として、同じ外国人の彼らと連帯しようとした僕は、その考えを諦めざるを得なかった。
そこでは、白人と非白人という区別が働いていたようにも感じられる。

中央アジアで度々聞き返しながらバックパッカー達の会話に参加しようとした僕は、自分が入ろうとしていた輪が「欧米系」と「非欧米系」を二分する輪であって、日本人として「欧米系」に入ろうと必死であったことを自覚した。

現地の学生よりも英語が多少堪能であることに、僕と違って彼らがロシア語を話せることを差し引いても多少の優越感をつい感じてしまった僕は、結局「英語万能主義」から自由になっていなかった。


中央アジアの人にとって「世界共通語」がロシア語であるのと同様、中国人の「世界共通語」は中国語であり、他の言語が介入する余地は一切ない。

天安門の受付で僕がどんなに単純な英単語を使って意思疎通を図ろうとしても、相手は困惑し、中国語で何かまくし立ててくる。こちらも困惑してきてしまうが、僕の後ろに並ぶ「外国人」にとって、僕は連帯の対象ではない。

彼らの彫りの深い顔から自然に作られる微笑みは、欧米人のアジア人に対するある種の「弱いものを慈しむ」ときのまなざしであり、中国人と欧米人のどちらでもない僕は、そのまなざしの狭間で全くの「異邦人」として孤立してしまう。


そんな僕が最終兵器として持ち合わせていたのは、筆談であった。

英語よりも漢字の羅列の方がよっぽど通じる。

英語万能主義が欧米による世界支配の産物であることを忘れてはならない。

英語がもてはやされるグローバル化の潮流の中にあっても、「世界共通語」が容易に英語に切り替わるわけではない。
そして英語に切り替わったとしても、欧米主導の秩序の中で彼らと対等に渡り歩くのは、相当な努力と困難を要するだろう。

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