日記(le 5 juillet 2021)
好きだった声優ソング、アニラジソングのいくつかのこと
先日、VTuberの人が主題歌をうたったとかで「ギャラクシーエンジェル」がツイッターのトレンドに入ったり、シャフト作品で名作だと思うのは何か?というランキング記事が出たりして、懐かしいアニメの名前をたくさん見かけて、なんだかセンチメンタルな気持ちになってしまった。
「ギャラクシーエンジェル」は中学のころCSを契約しているテニス部の仲間にVHSに録画したものを譲ってもらって見たのが懐かしいし、シャフト作品なら、上京前に見てオープニングの鮮烈な映像表現に衝撃を受けた「ぱにぽにだっしゅ!」、一貫してあたたかい世界をえがいて大好きだった「ひだまりスケッチ」シリーズ、3.11の年に放送されていろいろと思い出深い「魔法少女まどかマギカ」「電波女と青春男」、などなど思い出は尽きない。
ここでは僕が中高生のころ聴いていた声優ソング、アニラジソング(アニラジとは声優が出演するなどアニメに関連するラジオ番組全般)のなかからWeb上で動画が見付かったものを紹介していくことにする。ちなみに田村ゆかりと堀江由衣のほかは、どの曲もサブスクには入っていない。寂しい。
國府田マリ子さんや松来未祐さんの曲、レコード会社の関係とかいろいろあるんだと思いますが、なんとか配信してもらえないでしょうか?>関係者の方々
まず國府田マリ子「Horizon」。長寿番組だった「國府田マリ子のGM」の、僕はその終盤の何年かを聴いたに過ぎないけれど、「マリ姉」の声、言葉に救われたことのある一人として、番組EDテーマだったこの曲を紹介せずにはいられなかった。夜明けをうたった曲ということでリスナーの間では初日の出に合わせて聴いたりうたったりすることがあり、僕もいまだに年始はこの曲をうたい、聴かないと年が明けたという気がしません。番組終盤に聴いていたリスナーということで、個人的には末期にEDテーマになった「Lifelike〜It's now or never〜」にも思い入れが強いのだが、こちらは動画がどこにもないようだった。
誰かのせいだと 逃げること
憶えてから ずっと
歩き出せず いた
という歌詞なんかはいま聴くと少し自己責任論っぽくてつらくなったりもするのだが、そういった時代も反映した曲として今後も聴いていきたいと思っている。
続いて世界一かわいいよ!でおなじみの田村ゆかりから、初期の名曲「Baby's Breath」。「田村ゆかりのいたずら黒うさぎ」で何度か投稿が採用されたことがある……という話は各所に書いたことがあるので繰り返さない。田村ゆかりの楽曲でも、とりたてて大きなタイアップがあったわけでもなければ、「fancy baby doll」のように印象的なコールがあるわけでもないのに、ファンから愛された名曲だと思う。いろいろ余裕がなくなってしまって、最近の「ゆかりん」のことはラジオも含め追えていないのだけれど、生活が落ち着いたら、またラジオを聴くあたりから再開してみようかと思っている。ちなみに
花に降る雨を 真夜中の虹を
君の心も今 感じてますか
大切なものは…。 大切な人に…。
必ず届くからね
という歌詞は拙作「花に雨、まよなかの虹、たいせつなものだけ抱いて死んでゆかうね」に引用(本歌取り)させていただいた。
そんな田村ゆかりの「眠れぬ夜につかまえて」は、僕が初めて買ったシングルCDだった。配信やサブスクの時代になって「初めて買ったレコード/CD」という自分だけの記念碑的なものがなくなってしまうのは少し寂しい気がしなくもない。この曲が文化放送のランキング番組「こむちゃっとカウントダウン」で1位になったときは嬉しくて、イントロに合わせてタオルを頭上で振り回したりした。僕にしては珍しくアッパーな思い出。この曲の
ページをとばすみたいにあなたは消えちゃった
新しいミュールもびしょ濡れ
という歌詞から着想を得た歌が、『忘却のための試論』でも重要な位置を占める連作「砂糖と亡霊」に1首ある(暇な人は探してみてください)。
そんな田村ゆかりとユニット「やまとなでしこ」を組んでいた堀江由衣の曲で思い出深いのは「笑顔の連鎖」。これも名曲として知られているし、中高生の頃から聴いていたのだけど、個人的には大学2年の、フランス語検定の準2級を受けるための勉強をしていたとき、この曲に元気をもらった思い出がある。いま聴いても「ほっちゃん」の声に背中を押される気がする。
運命ってきっと
あるんだと思うの
それぞれの道
素敵な夢
用意されてる
でもその時どの
カードを選ぶかが大事
曇らぬ
笑顔で
さあ幸運を呼ぶの
引き寄せて
堀江由衣の曲も思い出深いものが多いが、もう一曲だけ挙げるなら、堀江由衣 with UNSCANDALとして発表された「スクランブル」だろうか。アニメ「スクールランブル」のテーマ曲で、このアニメのキャラクターが表紙になったミニノートのようなものを高校に持って行ってオタクアピールをしていたのをかすかに覚えている。印象的な
グルグル回る グルグル回る
グルグル回る グルグル回る
のところは、大学時代のいつだったか、カラオケボックスでオールをしたとき、いまは作品を発表しなくなって久しい歌友・松永洋平に巻き込まれるようにしてデュエットしたのが懐かしい。
先に初めて買った「シングルCD」は田村ゆかりだったと書いたが、シングルに限定せず初めて買った「CD」を挙げるなら、新谷良子のデビューミニアルバム「ピンクのバンビ」だった。中学1年の春休みのこと。表題曲「ピンクのバンビ」は青春の恋愛をえがいた曲で、歌詞にある、ふたりで授業を抜け出してしまうような恋とはとうとう縁のないまま三十路を迎えてしまったが、初めて買って擦り切れるほど聴いたこともあり、いまだに歌詞をソラで覚えているのが恐ろしい。動画はこれしか見付からなかったのでLIVE版。同じミニアルバム「ピンクのバンビ」に入っていた中で、いちばん好きだったのが最後に収録されていた「秋の空」という曲。切ない恋の終わりを描いた曲だが、さまざまな別れに通じる普遍的な「いとおしい痛み」とでも呼ぶべきものをうたった楽曲として、心に残っている。
晴れたら あのバス停 きみと見てた 秋の空
遥かな時間(とき)を越えて『ありがとう』伝えたいよ
「ありがとう」伝えたいよ
ほかに別れをうたった声優ソングとして印象に残っているのは、中原麻衣「宿題」。これも「あなた」のおかげで成長できた私が、もう一度あなたに会いたいと願う曲で、ラジオ大阪系「ゴクラク!もえもえステーション」内の番組「美鳥の日々 美鳥のLOVEダイアリー」のテーマ曲だったのでアニラジソングと言ってもいい。しかしそれ以上にこの曲とアニラジということで印象深いのは、ぜんぜん別のラジオ番組「野川さくらのマシュマロたいむ」でこの曲が取り上げられたときのこと。この番組中にはスポンサーのランティスが発売する新譜の宣伝として、その曲に合わせて作られたショートストーリーを野川さくらが朗読するコーナーがあったのだけど、この「宿題」をテーマに作られたショートストーリーが、別れは別れでも「死別」をテーマにしたものだった。死別のイメージはなぜか中学時代の僕に強い印象を残して、今でもこの「宿題」という歌は死別をうたった楽曲なのだと思いながら聴いている。
解けない心に 秘めたる思い
壊れそうで 動けない
宿題ばかりだけど こんなに
会いたい
この先に何があるのかなんて
誰もわからないけど
あなたに出会えたから
私は乗り越えて行ける
あと声優ソングとして紹介しておきたいのは後藤沙緒里「サンデー・ホリデー」。最近インスタとツイッターを開設した後藤沙緒里は、僕の中学生当時まだ高校生か高校を卒業したてぐらいの年齢で、自分とそんなに歳も変わらないのに、既に「ギャラクシーエンジェル」で重要な新キャラとなる烏丸ちとせ役を演じていたので印象深かった。そしてその関係で「ギャラクシーエンジェル」とタイアップしたアニラジ「エンジェルLOVE」で田村ゆかり(蘭花・フランボワーズ役)、新谷良子(ミルフィーユ桜葉役)の二人と共演していたのだが、まだまだ新人で右も左もわからないという感じで、おどおどとトークしていたのが懐かしい。後藤さんの髪の毛茹でたい。そんな後藤沙緒里の1stミニアルバム「LipTrip」を僕はいち早く手に入れて聴いていたのだが、特に思い出深いのがこの曲で、高校1年のとき
日曜の午後 教科書とにらめっこ
お休みの日は 遊ぶものですよと
といった歌詞を聴きながら、田舎の中学から進学校に入ったばかりでなかなか授業の進度についていけず、土曜も日曜も机にかじりついて勉強していたのを思い出す。
上に紹介した「エンジェルLOVE」の前進番組にあたる「ぴたぴたエンジェル」「ぴたぴたエンジェルA」という番組があり、この「ぴたぴたエンジェルA」が一時期だけ地元のラジオ福島でネットされたことがあった。ちょうど「國府田マリ子のGM」がネット終了して、その枠に後番組として入るかたちだった(その後「GM」に関しては北海道のHBCなどを遠距離受信して聴く「雑音リスナー」になった)。ラジオ福島でのネットは途中で打ち切られてしまったのだが、番組主題歌だった田村ゆかり・新谷良子「はぁ〜い!はぁ〜い!はぁ〜い!」(ニコニコにしか動画がなかった)はぎりぎりラジオ福島でネットされていた時期に発売されたので、CDを入手したときも、スリップにネット局として文化放送・ラジオ大阪と並んで「ラジオ福島」があり、何かちょっと嬉しかったのを記憶している。ラジオ福島でのネットが打ち切られてからは文化放送を遠距離受信して聴いていた。この頃から遠距離受信でたくさんの「アニラジ」を聴くようになった。この番組はリスナーの悪ふざけ投稿をきっかけに、新谷良子が30分間のうちほとんど「バケラッタ」しか言えないルールの回があったり、けっこう前衛的なことをやるアニラジだったように思う。最終回に至っては、確か2週にわたる前後編で、スタッフや関係者が次々に謎の死を遂げていき……というサスペンス展開(というか小芝居、茶番のたぐい)をやっていたはずだ。(番組CD「たれゆめ」も発売された。)
はぁ〜い!はぁ〜い!はぁ〜い!
ハピネスのおすそ分け
夢の国に行きたい人 みんなこの指とまれ
はぁ〜い!はぁ〜い!はぁ〜い!
雨上がりの景色に 未来へ続く虹を架けようよ
Lucky Lucky Day
そんな自由だったあの頃のアニラジを象徴するような曲として思い出すのが、モモーイこと桃井はるこの作になる、大原さやか・浅野真澄・桃井はるこ「ぽぽらじのうた」。タイトルの通り「ぽぽらじ」というラジオ番組(アニメ「ぽぽたん」とタイアップ。ラジオ大阪系「ゴクラク!もえもえステーション」内で放送)のテーマ曲だったのだが、ラジオを通じてパーソナリティとリスナーがつながる感じをうたった名曲だと思う(ポルノグラフィティ「ミュージック・アワー」のアニラジ版といったところか)。ニコニコにしかなかったうえ「叩いてみた」動画しか見付からなかったが、ぜひ聴いてみてほしい。
今夜さいしょのおハガキは
ペンネーム匿名希望さん
はじめまして
いつもたのしく聞いています
(ありがと!)
仕事?それともお勉強?
お部屋でのんびり?運転中?
あなたのこと
いろいろ想像しちゃうの
ダウンロードな世の中で
時間も距離も越えられるね
だけど同じこの夜を
あなたといっしょにすごしたい
この「ゴクラク!もえもえステーション」は放送中のアニメとタイアップしたラジオ番組を流す枠だったのだが、単なるタイアップ番組という域を超えていろいろなことをやっていて、おもしろかった記憶がある。浅野真澄(現在は作家としても活躍)がパーソナリティだった「低俗霊DAYDREAM」の番組では、誰か特定の人物を「口寄せ」して話すというコーナーがあったのだが、田村ゆかりがゲストの回で浅野が田村を、田村が浅野をそれぞれ「口寄せ」してお互いに暴言を吐き合うということがあって、このときは深夜なのに腹がよじれるほど笑った。またアニメ「D.C.〜ダ・カーポ〜」とタイアップした「初音島放送局」ではアニメの舞台となる初音島から登場キャラクターたちがラジオを放送するという設定で(のちにCD化)、僕はこの番組をきっかけに鷺沢頼子という猫耳メイドのキャラクターと、彼女を演じた松来未祐という声優のファンになった。
その松来未祐は6年前に、国からの難病指定すら受けていないほど非常に珍しい病気で亡くなったのだが、存命中は明るくてはっちゃけたキャラクターで、とても好きだった(彼女が亡くなった日に訃報を伝えた「NHK NEWS WEB」や、闘病の様子を取り上げた「世界仰天ニュース」などは今も録画を消さずに取ってある)。人生で初めてライブのたぐいに参加したのが松来未祐のイベント「M4」「M5」だったので、声優・アイドルオタクとしての出発点として「初参戦」した「現場」が松来未祐のものだったことになる。今となっては、とても誇らしい。そんな松来未祐の代表曲は、ラジオ番組「(有)チェリーベル」内で演じたキャラクターソングだった「あなたのハートにはきゅん!どきゅん!」(YouTubeにはアイマスコラボ動画しかなかった)。とにかくぶっ飛んだこの曲を、恥じらいながらも吹っ切れたようにうたう松来さんの姿が昨日のことのように思い出される。途中の台詞パートは、「結婚願望が強いのに理想が高すぎてなかなか叶わない」という松来さんのキャラクターを思い出させて、懐かしくなる。松来さんの理想は歌詞とはちょっと違って、小池徹平(当時はまだ独身だった!)と「ときめきトゥナイト」の真壁くんだったのだが。
んーっていうか、好きなタイプはやさしい人が好き。贅沢は言わないもん
でもかっこよくて、お金持ちで、ヤンエグで、外車乗ってて、イケメンで、ロン毛で……
最後に、冒頭でも触れた國府田マリ子の楽曲から、「花」を紹介しておきたい。これもマイナーな曲だから動画はないかと思っていたのだが、Dailymotionで見付かった。松来未祐さんが亡くなるさらに4年前、個人的にとてもハードな死別を経験したのだが、そのとき真っ先に思い出して聴いたのがこの曲だった。通夜に行く前、薄墨の筆ペンを買ってきて、慣れない香典袋を書きながら、アルバム「My Best Friend 3」のこの曲だけを延々とリピートしていたのが、鮮明なような、ぼやけたような、不思議な記憶として残っている。
別れた恋人を 思い出す時は
1番好きだった 笑顔を浮かべてたい
という冒頭の歌詞とともに。
鶴瓶の落語を聞いた日のこと
2011年12月の寒い日のこだった。夏に早稲田仏文の院試に受かって、とりあえず翌年からどこへも行き場がなくなるということは回避されたと思っていた。教育実習も終え、卒論に関してはもう終わっていたのか目処が立っていたのか忘れたが、とにかく心配することもなかった。そんな時期に落研?が配っていた無料チケットで、笑福亭鶴瓶がトリをつとめる落語会を聞きに行った。文キャン(戸山キャンパス)の学生は滅多に行かない大隈講堂での落語会だった。鶴瓶の落語は、その年に起こった3.11を受けて、「家族に乾杯」で出会った人たちと震災後に再会したエピソードを枕にした新作落語(自身の子供時代を題材にしたもの)で、笑いつつも感動的だったのを覚えている。
母にだけメールで、大学で鶴瓶の落語をやるから聞きに行くよ、と伝えていたが、母が「隼人もこんなに元気にしているよ」と父にメールを転送して伝えたらしく、そのことが父の逆鱗に触れた。父には直接、2011年に経験したハードな死別のことを伝えておらず、てっきり母を通じてそのことは伝わっているものとばかり思っていたが、伝わっていなかったのだろう(今も知らない可能性がある)。そのあたりも父の怒りに影響していたのかも知れない。
父は僕が福島に帰ってきて国語教師になることを望んでいた。実際、福島県の教員採用試験の日程が出たときは珍しく自分からメールしてきた。父は滅多なことがない限り自分からメールしてくることはない。家族の大病など以外でメールしてきたのは、仕事で綾瀬はるかに会ったときぐらいだった。
教育実習のために実家に泊まっていたときも、嫌な顔ひとつせずにいた。そのときはもう院試に受かっていて大学院に進むことが確定していたし、そういう会話をしていたはずなのだが、父としては僕に、少なくとも東京でもいいから教職なり何なり安定した仕事に就いて、自分の食い扶持は自分で稼げるようになってほしいと思っていたらしい。それが大学院に進んでモラトリアムを延長し、そのうえいい気になって落語なんか聞きに行っているという。「お前のような収入のあてのない息子の奨学金の保証人になんてなれない」とかなりきつい調子の長文メールが届いた。落語会から出て、大隈講堂から文キャンに戻るために南門商店街に差しかかるところだったのを鮮明に覚えている。
保証人がいないとなると奨学金の返済も、今後の生活もどうなるかわからない(のちに保証人を立てなくてよい「機関保証制度」に切り替えた)。学食で大好きだった「クリームチーズメンチ2個盛り」と「麦ごはんLL」を食べながら、死ぬことだけ考えていた。これが最後の晩餐になるのかな、だとしたら貧乏くさいな、と思っていた。その頃まだホームドアのなかった地下鉄東西線に飛び込むイメージが頭にこびりついていたが、何とか飛び込まずに帰った。たまたま帰りの西武新宿線の車内で、原発事故に関して、心ないことを言っている人たちがいて、余計につらくなったような気もするし、自分の身に降りかかったあまりのことに気にしている余裕もなかったような気もする。もはや記憶が定かでない。そのあと1日じゅうツイッターも更新せずにひきこもっていた。1日ぶりに「死ななかった」とツイートしたら、尊敬する先生から「死なないで」的なリプライが来て、どうしたらいいのかわからなくなった。
結局、数週間後には年末で実家に帰ることになっていたので、そのとき父に頭を下げ、「あと何年か勉強させてください!」と頼み込んだ。父はいかにも不機嫌そうに「ん」とだけ言って、それで終わりになった。
しかしこの一件以来、父との仲は険悪なままだ。ついでに言うと父と母の仲も険悪である。というか、父が一方的に険悪にしている。いま実家には両親しかいないわけだが、どうやって暮らしているのか心配でならない。
父は、角川短歌賞をとって連絡したときも「よかったな、おめでとう」の一言だけ。WBCで日本が優勝したときの、中日の落合監督(当時)のコメントのようだった。現代歌人協会賞のときは、そもそも連絡したのかどうかすら記憶にない。帰省しても、他の親戚や家族(おじ、おば、妹の夫など)がいる場面では機嫌よく接してみせるが、それ以外の場面では僕と母にはほとんど話しかけない。たまにこちらから用事があって話しかけたり、逆に向こうでどうしても話しかけなくてはならない用事があるときは、必ず怒鳴りつけるような調子でしか物を言わない。いわゆる「モラハラ」ではないかとも思う。いつ頃からか、まず母に対してそういう態度を取るようになり、院進学の件以来、僕に対しても同様になった。正直、父が怖くてたまらない。上京してからも父に怒鳴られる夢で目覚めたりもしたが、その頃はまだ学部生だったので笑い話で済んだ。昔からおっかない父親ではあったが、今は本当に怖くて怖くてたまらない。
母は父に、3年前に僕が学振の任期が切れて収入のアテがなくなっていたときもそのことを隠していたらしいし、今も恐らく助手の任期が切れて失業保険と実家からの仕送りで生活していることを隠している。そのことが露見したらどうするのか。本当に怖い。一生実家に帰れなくなるかも知れない。
教員免許の更新講習を受けられるよう、煩雑な書類手続きに振り回されながら何とか準備を整えてはいるし(すべてが終わったら「教職に就いていない僕が教員免許を更新しようとしたらこんなに大変だった話」としてnoteにまとめようと思っている)、専任講師や塾講師なら紹介できるという親切な中学時代の同級生もいるのだが、それでも地元に帰って教職に就けるかどうかはわからない。(そもそも10年も経ってから父の過去の希望を叶えても遅すぎるかも知れないが……。)地元で教職に就くには、ろくに電車の通っていない田舎のため、車酔いのひどさゆえにずっと避けてきた普通免許と自動車が必須になる。それで、教員採用試験を受けるか院試を受けるか迷っていた大学3年の頃から、教職に就くにしてもできれば地元は避けたいと思っていた。しかし今や妹がふたりとも「嫁に行った」状態で、田舎の長男、しかも一人息子に年取った親がかける期待は言わずともわかっている。地元に帰ってきて、車の免許も取って、何かあったときに遠くにある福島県立医大病院へ連れて行けるようにしておくことだ(しかし、たとえ普通免許を取れたとしても、絶望的な方向音痴の僕に医大までの道が覚えられるのだろうか)。やはり福島に帰らなくてはならないのか。
福島に帰るとして、何より問題になるのが、学振の2年間と助手の2年間、研究費を与えられていたために膨大な量に増えた蔵書をどうするかということだ。上京するとき大量の本を持っていこうとしてカミナリを落とされたこともあり、蔵書が多いことを父は決して歓迎しないどころか、むしろ蛇蝎のごとく嫌っているのはわかっている。しかしこれまで積み重ねてきた研究の証をすべて処分してしまうのはあまりにつらい。そう考えるということは、研究者になれなかったことが本当に自分にとってはつらいことなのだなあと改めて思い知らされる。
……あれ?鶴瓶の話は?
笠置シヅ子「買物ブギー」の歌詞はどう改変すべきか、のこと
笑福亭鶴瓶はデビュー当時、笠置シヅ子の息子を名乗っていた。そのことで思い出したので、笠置シヅ子の名曲「買物ブギー」について少し書く。
この動画(フルで聴けるのがニコニコしかなかったのでまたしてもニコニコですみません)では「買物ヴギ」という表記になっているが、いちおう正式な表記は「買物ブギー」のようだ。元のつづりがBoogieなので「ブギー」のほうが正解に近いだろう。しかし昔はそのあたりいい加減だったのか、「ヴギ」という表記が使われているのを、だいぶ後年の東映版スパイダーマン(1978〜1979)でも見たことがある。スパイダーマン・ブギという曲がヒットするという回があるのだが、劇中で登場する週刊誌の宣伝紙が「スパイダーマン・ヴギ」という表記だったのだ。ちなみに「スパイダーマン・ヴギ」には蜘蛛にだけ効く超音波が仕込まれており、この曲がヒットして街中で流れるとスパイダーマンは戦えなくなってしまう……というのが敵の作戦だった(もしヒットしなかったらどうするつもりだったのだろうか?)。Boogieをヴギと表記する間違いはかなり長いこと続いていたものと思われる。
閑話休題。「買物ブギー」は超かっこいい。ウィキペディアの記事を読んだだけでも、その豊かさがわかる。洋楽を範としつつ、落語を取り入れることで日本ならではの独自性をも活かした服部良一たち制作陣の自由闊達な空気は、戦後の復興期にふさわしい気がする。笠置シヅ子自身が歌詞について「ややこし、ややこし」と言ったことすらも歌詞に取り込む自由さは素直にすごいと思う。個人的には、八百屋でネギを買う場面で「東京ネギネギブギウギ」と、代表曲「東京ブギウギ」を取り入れる(バックバンドも東京ブギウギをワンフレーズ演奏してみせる)あたりのセルフパロディが好きだ。
ちなみに笠置シヅ子は吉本興業の二代目として跡継ぎになるはずだった吉本穎右との間に子供を授かるも、親の反対のため結婚できず、さらに穎右は結核で夭折してしまう。このエピソードを取り入れたのが、実在人物をふんだんに登場させながら東西冷戦で日本が東西に分割統治された世界をえがいたSF『あ・じゃ・ぱん!』だった。この作品中ではシヅ子と結婚した穎右は早死にせずに分断された西日本の首相になり、天寿を全うする(さらにいうと吉本興業は世界的なコングロマリットになっている)。そして物語の舞台となる1990年代初頭には、亡き夫の跡を継いだ笠置(吉本)シヅ子が首相になっており、在任中、東日本の中曽根書記長が「大車輪政策」で築かせた「壁」によって分断されていた東西日本が、「壁」の崩壊で東西ドイツのように往来自由になる。その少しあとの場面で、シヅ子大統領が東西日本の報道陣と遣り取りする際のセリフでは、この「買物ブギー」の歌詞も引用されている。
話を本題に戻そう。この項目で書きたかったのは、「買物ブギー」の歌詞に出てくる2つの差別用語「わしゃ×××で聞こえまへん」と「これまた×××で見えません」のことだ(前掲の動画では伏せずにそのまま歌われている)。これはたくさんの買い物を頼まれて慌てている歌の主人公が、本当なら耳の聞こえないほうの店主に買い物メモを見せて、目の見えないほうの店主には口頭で注文を伝えるつもりだったのが、その逆をやってしまって両方に伝わらないというギャグになっている。さらに言うと耳の聞こえない店主とのやり取りは聴覚障害を示す差別用語と「ちょっとオッサンこれなんぼ」の「なんぼ」が韻を踏んでおり、また目の見えない店主とのやり取りは視覚障害を示す差別用語を使った「×××番」という、真面目に仕事をしない様子をさす慣用句とも掛かっている。
ともあれこの部分は現行版ではカットされて「わたしゃ聞こえまへん」などと不自然なつなぎ方になっている。笠置シヅ子が存命でない(また存命中も後年は歌手活動をおこなわなかった)ため仕方のない処置だが、いかにも不自然なので、カバーの際にはリズム・メロディに合うよう別の歌詞に変えて歌ってほしいと思う。近年、ものまね芸人のミラクルひかるが笠置シヅ子のものまねを披露しているが(芸名通り宇多田ヒカルのものまねから出発した人が笠置シヅ子をやるのは不思議な気もするが、時代の歌姫という意味では宇多田ヒカルも笠置シヅ子も変わらないのかも知れない)彼女が「買物ブギー」をやった際に歌ったのは、「わしゃ聞こえまへん」というカットされたバージョンだった。できればそれ以外のバージョンで歌ってほしいと思う。
いろいろなアーティストがこの曲をカバーしているようなので、それぞれこの箇所についてどのような対応をしているのか詳しいことは知らないが、個人的に想定される歌詞の改変は2種類ある。
ひとつは「わしゃ『なんにも』聞こえまへん」「これまた『なんにも』見えません」と、差別用語が含まれる「×××で」のところを「なんにも」に言い換えるパターン。
もうひとつは「わしゃ×××で」「これまた×××で」の部分を丸ごと「耳が不自由(ふじゆ)で」「目ぇが不自由(ふじゆ)で」と入れ換えるパターン。
東北出身の僕の個人的な印象に過ぎないが、「○○が不自由で」という言い回しは東京ことばにはやや口語として馴染みにくいところがあるが、関西のことばなら割と自然に聞こえるのではないだろうか。とりわけ「不自由」を「フジユー」と語尾を伸ばして発音するのではなく、「ふじゆ」と短く切って発音したほうが関西のことばらしい気がする。(本当に非ネイティブのたわごとなので読み流してくださってかまわないんですが。)
そういえば加川良「教訓1」をハンバート・ハンバートがカバーした際には(恐らくは面識のあった加川に許可をとって)歌詞の一部が改変されている。
命をすてて男になれと
言われた時にはふるえましょうヨネ
そうよ 私しゃ 女で結構
女の腐ったのでかまいませんよ
という歌詞が、性差別的だということで、
命をすてて男になれと
言われた時にはふるえましょうヨネ
腰抜け ヘタレ ひ弱 で結構
どうぞ何とでもお呼びなさいヨ
に改変されている。昨春の緊急事態宣言のとき、俳優の杏が部屋着のまま、自由に動きまわる幼子をかたわらに、ギター1本の弾き語りでこの曲を歌う動画がYouTubeに投稿されて話題になったが、そこで参照されているのもハンバート・ハンバート版の歌詞だった。「お呼びなさいよ」の歌い方が「こう呼びなさいよ」に聞こえるところまでハンバート・ハンバート版をなぞっている。
歌は世につれ世は歌につれ、なんて使い古された言葉を今さら言うまでもないのだが、こうやって歌詞もまた時代に合わせてアップデートされることで、名曲が歌い継がれていけばいいなと思う。差別の問題はきわめてセンシティブで、ウルトラセブン12話「遊星より愛をこめて」や怪奇大作戦24話「狂鬼人間」のように、いわゆる「封印作品」になってしまうことも少なくないから……(今はどちらもWeb上で簡単に見られてしまうのだが)。
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