Wikipediaより詳しい略歴(1989-2024)

1989年 消費税導入の月に福島県伊達郡保原町の保原中央病院で生誕。父は公務員、母は専業主婦。その後、父親の仕事の都合で白河市・福島市に住む。

1991年 上の妹誕生。まだ2歳にもならないガキのくせに「ま、とりあえず無事に生まれてよかった」などとほざいたらしい。

1993年 下の妹誕生。生まれた瞬間は自販機で買ってもらったヨーグルトを食べていた。その後、保原町に戻る。保原教会幼稚園に通う。当時住んでいたアパートの隣だった。将来の夢はおもちゃ屋さん。

1996年 保原町立保原小学校に入学。身体の弱い子供だったが、田舎でのびのびと育つ。学年が進むにつれ、いじめに遭ったり、やり返したら相手が不登校になったり、給食をこぼした隣のクラスの友達をからかいに行ったら転んでアゴが裂けて3針縫ったり、人間関係の難しさを知る。昭和特撮と爬虫類・両生類が好きな子どもだった。将来の夢は漫画家か生命工学者。

2002年 保原町立桃陵中学校に入学。男子は運動部に入らなくてはならないという不文律のため、友達が多く入っていたテニス部に入るが、正直テニスは全く好きになれず、練習をサボって3年生で退部するまでずっとボール拾いだけしていたのを、なぜか顧問の先生から「自己犠牲的な献身」と思われて県大会まで連れて行かれる。中1の夏休みに町内で新築した家に引っ越し、これが今に至るまでの実家となる。父親からスパルタ教育を受けて勉強を頑張るようになり、夜中まで勉強するため自然と深夜ラジオを聴く習慣が付く。特に声優の出演する「アニラジ」系の番組を好み、自然と『月刊声優グランプリ』を定期購読するようになる。ほか、両親の影響で椎名誠、ナンシー関、大槻ケンヂ、原田宗典などを読むようになる。当時の夢は父親と同じ公務員。

2005年 福島県立福島高校に入学。第三セクターの阿武隈急行線で電車通学。学校新聞の編集委員(実質的には部活だった)と文芸部に加入。文学少年になり、「高校の3年間嫌な勉強をして大学へ行くのだから大学では好きなことをやりたい」と文学部志望になり、親と険悪になる。夏休み、ひどい鬱に陥り、阿武隈急行線の線路に横たわり死のうとするが、怖くなってやめる(このあたりの話は『死にたいのに死ねないので本を読む』参照)。寺山修司を読んで短歌を作り始める。成績は中の上くらいだったが、国語は勉強しなくても点が取れた。自分では中学まで国語が得意とは思っていなかったので変な感じがした。「田村ゆかりのいたずら黒うさぎ」、「國府田マリ子の寝不足ラジオ」などで投稿が読まれる。

2006年 元日付けで保原町は合併により伊達市になる。文系クラスに進級。地歴は日本史と世界史、理科は地学を選択。この選択が功を奏したのか成績が上がる。特に地学は理系科目とは思えないぐらい好きで、担当の先生から気象予報士にでもなったらどうだと言われた。修学旅行でシドニーに行くが、「I have a terrible headache!」のワンフレーズで全てのアクティビティを拒否する。文芸部員が集まらず、廃部を避けるため実績を作ろうと、福島県文学賞に短歌と俳句を応募し、両部門で青少年奨励賞を受ける。短歌部門の応募総数は4人、俳句部門は8人だった。2部門での受賞は例がないということで賞を主催していた新聞社からインタビューを受ける。学校新聞の編集のほうでも全国大会に参加して、なんだかんだ充実した青春を過ごす。

2007年 進路希望調査では、二次試験で数学の代わりに日本史を選択できる国立大文学部を偏差値の高い順に書き、第一志望が阪大、第二志望が北大、第三志望が筑波大だったが、妹たちが高校をやめたり祖父が末期ガンで余命宣告されたりして、親と話し合って指定校推薦で早稲田の文化構想学部に進むことに決める。文学部にしなかったのは、旧第一文学部の文芸専修(創作を専攻するコース)が文化構想学部文芸・ジャーナリズム論系になると知ったからだったが、夏休みにオープンキャンパスに行くと一度も読んだことがない中上健次の話をされて敗北感に打ちのめされ、その後たまたま見かけた表象・メディア論系の現代思想や表象文化論の研究に惹かれる。学校新聞に文化祭開催反対の論説を書いて文化祭実行委員とバチバチの関係になる。文化祭当日はボイコットして、その日が初日だったエヴァの新劇「序」を観に行く。「コサキンDEワァオ!」などアニメ系以外の深夜ラジオでもネタ投稿が読まれるようになる。全国高等学校文芸コンクール短歌の部に次席入賞するが、授賞式の日が祖父の葬儀と合格した早稲田のガイダンスの日に被り、式に行かず。その式の場でのちに早稲田短歌会で一緒になる𠮷田恭大と井上法子が邂逅していたことを知るのはまだ先の話。短歌研究新人賞に初めて応募するが当然のごとく落選。

2008年 2月下旬に上京。西武新宿線東伏見駅徒歩二分のところにあるアパートに住む。なぜか突然痩せて、身長は172cmのところ体重が55kgになる。早稲田大学文化構想学部に進学し、フランス語の学習と古本屋・図書館めぐりに熱中する。リーマンショックが起きて就職氷河期の再来がニュースになっていたため、保険のつもりで国語の教職課程も取る。サークルは短歌会と俳句研究会に入るが、俳句のほうは学生が少なく雰囲気も良くなかったため短歌会をメインに活動することになる。同人誌『dagger』に参加。東京に出てきたことで地の利を活かし、松来未祐のイベントやYMOの出演する夏フェスなどに行く。浅田彰『構造と力』を高田馬場駅の古本市で買って読み、遅れてきたスキゾキッズになる。また、中学時代に『このライトノベルがすごい!』の小コラムで知って以来気になっていた稲生平太郎『アクアリウムの夜』を読んで戦慄する。短歌研究新人賞、歌壇賞に応募。

2009年 早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系に進級。いわゆる「コミュ障」で、短歌関係以外の交友が広がらず。文化資本に恵まれた都会出身の学生たちに対抗するため、図書館を最大限に利用して哲学史とフランス文学史を系統立てて学ぶ。また能楽にも関心を持ち、いくつも授業を取る。取れる単位数の上限や、受講できる学年の制限がある授業などもあったため、モグリ学生をやるようになる。フランス語検定3級、準2級に続けて合格。ハタチになるが、仏検の準備のため成人式には行かなかった。最初の選挙がいきなり衆院選で、民主党への政権交代が起きる。当時、東浩紀の影響でエロゲー論壇が流行っており、その影響下で「さよならを教えて」を知り、衝撃を受ける。生まれて初めて恋人ができる。短歌研究新人賞、角川短歌賞、歌壇賞、短歌現代新人賞などに応募。

2010年 千葉文夫教授の「イメージ哲学」ゼミに入る。理由を尋ねられて正直に「このゼミだけ面接がなかったからです」と答えたところ、翌年から面接を課すようになった。一度面接試験で失敗するもフランス語検定2級に合格。ゼミ以外にも千葉先生の研究室で開かれるフランス語文献の読書会にも参加するようになり、これはのちに大学当局から「専門特殊研究」という単位として認定される。読書会で出会った現代フランスの哲学者クレマン・ロセ(Clément Rosset)にハマり、邦訳がほとんどないため慣れないフランス語で読むようになる。一方でコミュ障は治らず、ゼミ合宿(九鬼周造について発表した)などでは地獄のような思いをすることになる。この年も短歌関係の新人賞には軒並み応募。木田元の著書を、ハイデガー関連のものを中心にあれこれ読む。夏休みには教職課程の介護等体験実習で老人ホームに行く。「さよならを教えて」論を書いて表象・メディア論系の機関誌『xett』に投稿、掲載される。

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