ザル屋
1.ザル屋
「我々はそれを通称・ザル屋と呼んでいましてね。あなたにはそのザル屋をお願いしたいと思っているんですよ。」
国家機密管理局の担当者と名乗る謎の男、田辺 守(たなべ まもる)が私にそう話した。
その日、私は休日出勤を終えてコンビニで競馬新聞を買った。
仕事が少し早目に終わったので帰り道に近所の喫茶店でコーヒーを飲みながら今週のG1の予想をしていた。
そこへ背広姿の中年男性がアイスコーヒーと紙ナプキンを片手にこちらへと近づいて来た。
「いやぁ、大事な予想中のところ申し訳ない。少しお話し、良いですかな?」
その男が突然声をかけてきて、私は驚きの余り赤ペンのキャップをカチンと元に戻した後、戻したばかりのキャップをパチンと再びあけるといった意味不明な行動をとってしまった。
「え、話?あのぅ…私にですか?」
私は辺りを見回し、話しかけられた相手が間違いなく私であることを確かめた。
そして、私は握っていた赤ペンのキャップを再びペン先に戻してカバンにしまおうとしたが動揺し思わず手元が狂ってしまい、その十分に湿ったペン先は私の左手の親指を赤く濡らした。
私は気づかれないようにテーブルの下で赤らんだ親指を中指で力任せに何度か擦ったが、逆にその範囲が広がってしまい諦めた。
しばらくすると男は私の了承を待たずして私の向かいの席に座り、落ち着いたテンポで話を始めたのだ。
そして、さり気なく私に名刺を渡してきた為それを受取り、仕事帰りであった私も思わず自分の名刺を差し出してしまった。
その男は少し戸惑い気味な私に簡単な自己紹介をし始めた。
「国家…機密管理局、ですか?国家というと、つまりはそのぅ…国の?」
「まぁ、そうですね。国の、いわゆるアレですよ。ただ、そんな大それたもんじゃないんですがね。どの国にもね、そういった管理局ってのはありますしね。」
田辺はそう話したが、正直、私は国家機密管理局などという言葉を海外のテレビ・ドラマでしか聞いたことがない。
こんな平和な国にそんな機関なんて存在するわけがないと内心疑っていた。
ただ、もしかしたら私が知らないだけなのかも、という不安感もやはりあった。
小さな会社の契約社員である私には住民票の写しを貰いに伺う以外にお役所にはご縁がない。
もしかしたら、お堅いお役所界隈では、実はそれは有名な機関なのではないか。
もしそうであれば、田辺 守という知り合ったばかりのこの男に、瞬時に私が世間知らずな人間だいうことがバレてしまう。
それはそれで恥ずかしい話だ。
そして、この後自宅に帰ったら帰ったで妻にもいつもの様にまたバカにされてしまうではないか。
「あなたってほんとに世間知らずね。いくらあなたがおバカでも私はあなたを愛しているけれど、おバカも程々にしないとそのうち愛せなくなるわよ。」
以前、妻に言われたその言葉を私は思い出した。
勿論、私の思い込みや勘違いはこれまでにも多々あり、私という人間が昔から世間知らずな人間であることに間違いはない。
また、妻が放った「おバカ」という言葉も何一つとして間違ってはいないし、むしろ正確すぎる妻の表現力を私は高く評価している。
そして、いかにもお国のそこそこの偉い人風な空気がそれとなく漂うこの田辺という男を目の前にして、何故か私の中にある経験値がソワソワと騒ぎ始めた。
私の中にある経験値というものは日常的な使用頻度が低過ぎてかなり埃が積もっているため、その「けいけんち」と書いてある箱を開いた途端、私はむせ返ってしまった。
「大丈夫ですか?」と田辺と名乗る謎の男はさり気なく私を気遣った。
私は「このままでは、まずいぞ。」と思い、私の脳は急ぎ足で目の前の現状を理解するように努め、そして、答えを出した。
そうか。
つまりは、きっとこう言うことなのだ。
国家機密管理局というのは大まかに言えば、おそらく国のために日々何かしら尽くしている組織なのだろう。
言い換えれば、住民票の写しを発行してくれる区役所の人たちと同じだ。
そういう人達が居てくれるから、我々国民は日々安心して暮らせているのだ。
まぁ、機密管理という言葉が少し気にはなるが、結局のところ区役所も機密管理されている訳だし、きっとそう言った個人の情報を日々守るために尽力している部署なのだろう。
私はそう自分に言い聞かせ、私自身が無知であるという恥ずかしさや後ろめたさを口の中に溜まった唾液と共に力強く飲み込んだ。
そして、次に頷きながら「へぇ〜、そうなんですねぇ。」という当たり障りのない温めの返事をした。
それは雑誌の特集で見かけた「コンパで困った時のお返事ランキング」という記事にあったランキング上位のフレーズであった。
その後、私は国家機密管理局についてそれ以上詳しく聞くことはしないでおこうと思った。
田辺はアイスコーヒーを一口啜り、田辺の身の上話をかい摘みながら私に語って聞かせた。
つまりは自分が怪しい人間ではないという説明を始めたわけだが、私は静かにそれを聞きながら隙間を見つけては適当な相槌をうった。
田辺には今年大学生になる娘がいて、十三歳年下の奥さんとの三人暮らし、そして、月末には田辺自身が58歳の誕生日を迎えるのだと言う。
そんな田辺の趣味は競馬と植木の剪定であった。
「生き物はいいですよ、馬も植物も。毎日懸命に生きていますからね。それに触れているとね、何だか元気をもらえるんですよね。たまに植物が喋りかけて来たりしてね。いやいや、勿論、私の頭は正常ですよ。私の頭がおかしいわけではないんですがね。なんて言うのかなぁ、心の奥に植物の、生命の意識みたいなものが響いてくるって言うんですかね。」
「そうなんですねぇ。あ、でも、何となく分かります。」と私は答えた。
これまた「コンパで困った時のお返事ランキング」で上位につけた「あ、でも何となく分かるぅ。」を応用して対処したが、今のところ中々いい調子だ。
そんな見知らぬ中年男性のたわいもない身の上話は数分間続いたが、飽きもせず、それなりに楽しい時間であった。
そして、私の中にあった緊張の糸も気がつけば少しほぐれていた。
おそらく、田辺の自然体でゆったりとした口調と明るく朗らかな表情が相手の心をほぐすのだろうと思った。
田辺はふと思い出したかのように飲み忘れていたアイスコーヒーを二、三口ほどストローで啜り、結露が付着したグラスと短な指を紙ナプキンでさっと拭った。
少し遅れて私もコーヒーカップに指をかけ一口啜ったが、やはり少し冷めていた。
冷めてしまったコーヒーはやはり酸味が増していたが、これはこれで私好みの味でもあったため良しとした。
その後、田辺は私に声をかけた経緯を説明した。
「以前に一度。あ、以前にといっても数週間前になりますがね。このお店でお見かけしたことがありましてね。」
確かに田辺が言う通り、私は以前にもこの喫茶店へ来たことがあった。
ただ、田辺の顔は全く覚えてはいなかった。
田辺はこの喫茶店の近くに勤め先の事務所があり、週数回ほど通っている常連客とのことであった。
また、競馬好きな店主とも馬の話を良くするのだと言う。
店主と知り合いということであれば怪しい人ではなさそうだなと思い、私の田辺に対するぼやっとした不信感は随分と晴れた。
「それで、ここだけの話なんですがね。国家機密管理局として一つ、お願いしたいことがありまして。勿論、報酬は管理局の方でそれなりにお支払致します。どうでしょうか?」
それは通称「ザル屋」と呼ばれる国家の任務なのだと言う。
「ざ…ザル?」
私の驚いた表情に思わず田辺もつられて驚いていた。
「え?あ、はい。そうです、ザル屋ですが?」
田辺は「ザル屋」という馴染みのない言葉を誰もが知っているような口ぶりで言った。
田辺の小さな瞳には驚いている私の表情がしっかりと映っていた。
「これは私の直感なんですがね。初めてお見かけした時からあなたなら適任だと私は思っていたんですよ。」
「ざ…ザル屋がですか?」
私は眉間の筋肉を目一杯使って眉と眉の間に深い溝を拵え、そこで「ザル屋」についてしばらく考えていたが良く分らなかった。
しかし、田辺の小さな瞳はぶれることなくただ真っ直ぐで、その雰囲気からは誰かを騙そうだとかの悪意の様なものは全く感じられなかった。
「はぁ…ザル屋ですか。」
そして、私はコーヒーカップの持ち手を右の親指と中指でつまんだまま暫く固まっていた。
すでに冷めてしまったコーヒーは先ほどよりも深い黒色をしていた。
その水面には小さな波が漂っており、揺らめきながらカップの端の方へと拡がってはぶつかってを繰り返していた。
今、私は仕事帰りに立ち寄った喫茶店で田辺 守という見知らぬ男と出会い、そして、国家機密管理局の極秘任務である通称「ザル屋」という任務を依頼されている。
私の頭の中にその「ザル屋」という言葉がしつこいほどにリフレインされ少し気持ち悪くなった。
私は返す言葉も見当たらない為、「とりあえず大体は理解した」と言わんばかりの頷きをゆっくりとして見せた。
勿論、私は何一つ「ザル屋」を理解してはいなかった。
その後、二人の間にしばらく沈黙が流れた。
その間、田辺は自身の後退した額に次から次へと浮かび上がってくる油分を含んだ薄白い汗を、チェック柄のグレーのハンカチーフで「まぁまぁ。」となだめるように拭った。
そして、田辺は結露が付着したいかにも冷たそうなアイスコーヒーをストローで二口ほど吸い込んだ。
田辺のポッコリとした鼻の穴からは遠慮なく「ふんー」と少し長めの鼻息が吹き出て、アイスコーヒーが田辺の喉元を通過したことが向かいに座っている私にも分かった。
そして、私はとりあえず頷くことにした。
正直、それはぎこちない笑みであったと思うが、まずは何よりも頷くことにした。
そして、それを「分かりました。」という言葉の代わりとした。
「ただねぇ…。」
田辺はやや間をあけて、元々の細い目を更に細く潰しながらこちらへと顔を少し近づけてボソボソと話を続けた。
「まぁ。ただ、ザル屋は一応、国家機密ですから。国家機密である以上はここだけの話にして頂きたいんですよ。」
私の両脇は国家機密という言葉に対して敏感な反応を示し、脇から肋骨の辺りにかけてツーっとした汗が滴り落ちたのを私は確認した。
「しっかし、今日は暑い日ですなぁ。まだ5月だと言うのにねぇ。」
拭っても拭っても湧き出てくる田辺の額の汗によってグレーのハンカチーフには世界地図のような染みが出来ていた。
「急なお話なので、妻と相談させて下さい。」などと言う言葉が一瞬脳裏に浮かんだが、国家機密という明らかに内緒にしなければならないフレーズに対しての返答が「妻へ相談」はおかしいだろうと思い、流石にそれは言えなかった。
ふと、私はテーブルの上に置かれたままだった御通しのお水を目の前へと引き寄せ、近くにあったグラニュー糖を入れた。
頭が疲れている気がした為、甘いものをと思いグラニュー糖を三杯入れた。
普段はそんなことはしないのだが、今の私にはおそらくこのグラニュー糖が必要なのだ。
御通しのお水には細かく砕かれた氷が幾つも沈んでいて、時間の経過と共に丸みを帯びた氷と氷との隙間を小さじ三杯分のグラニュー糖がすり抜け、それは各所へと散らばって行った。
私はそれらの澱みを安易にかき混ぜはせずにグラスの底に何秒間で到着するかを密かに数えていた。
少しするとグラニュー糖がグラスの底へと到達し、私は銀のスプーンでグルグルと掻き回して砂糖水と化した御通しのお水を一気に飲み干した。
「それ、レモン入れたりすると美味しいですよね。」と田辺は言った。
甘ったるくて目と喉の奥が歪んだ気がしたが私は軽く咳き込んだ程度で済んで無事であった。
そして、私は気を取り直し、ザル屋についてもう一歩踏み込んだ質問を田辺にしてみようと思った。
「ちなみに。ザルって言うと、あのザルでしょうか?お米砥いだり、茹でた麺をあげて湯を切ったりする。」
我が家には炊飯器はなくお米は日頃から鍋炊きで、勿論、私が炊く係りだ。
お米を砥ぎ、洗ってザルで水を切る。
小一時間ほど冷蔵庫で寝かしてから鍋に入れ、水と調理酒を小さじ一杯分くらい入れる。
そして、中火よりやや強めで炊く。
お米2合に対して水は450mlくらいか。
お米は炊飯器で炊くよりも鍋炊きの方が美味しいし、私の炊くお米は美味しいと私の妻も褒めてくれるほどである。
「そうですねぇ…ザルっていうのは色々なパターンがありましてねぇ。」
「ぱ…パターンですか?」
田辺から出た回答は私の期待を見事に裏切り、私の頭の中は誰かがサーモンでも燻しているんじゃないかと思うほど更にモクモクとなった。
そうだ、そもそも「ザル屋とは何なのか」という根本的な疑問を今は敢えて持たないでおこう、と私は決めた。
そうでもしないと私の中に湧き立つこの違和感はいつまでも解消しない気がしたからだ。
もしかしたら、私の先入観がいけないのではないか。
柔軟にイメージを広げて行けば、きっと何か糸口が得られるのではないか。
そう考えた私は田辺との会話の中でザル屋の正体とは一体何なのかを汲み取ろうと努めてはみたのだが、やはり未だに出口が見えないままであった。
しかし、良く良く考えたら「ザル」と言うフレーズは私にとってもさほど遠い存在ではない。
毎日米砥ぎする立場上、ザルは身近なものであることは確かなのだから、田辺の言うその「ザル屋」もきっと理解することが出来るのではないか、と思うようにした。
「私は毎日お米を洗って砥いではいますが、ザル屋のザルって言うのは、つまりは一般的なザルってことで間違いないですか?」と私は極力、真面目なトーンで田辺に質問をした。
「そうですね。ある意味ではそのザルになりますかね。勿論、ザル屋というのは、何て言うんだろうなぁ。その仰っているザルだけではないんですがね。一概にザルと言っても、いわゆる幅と言いますか。そうそう、幅ですかね。ええ、幅があるんですよ。」
「は、幅…ですか?ザルに幅、ですか?」
「まぁそこまで悩むことじゃないですよ。そんな気難しい話でもないですし。つまりは、餅は餅屋、ザルはザル屋ですからね。」
「はぁ…餅屋と、ザル屋…ですね。そして先ほど仰ったパターンと、幅…ですか。」
やはり、田辺の回答は全くもって理解し難いものであった。
突然、私の頭の中でグシャグシャっとした不快な音がした。
今、私の脳内ではサーモンと共に燻された「ザル屋」と書かれた無数の紙キレが彼方此方へと飛び交い、そしてぶつかり合い、グシャグシャと音を立てて擦れ合っていた。
そして、その嫌な音は暫く鳴り止むことはなかった。
「はぁ…そうですか。」
「また詳細については説明しますが、あなたなら大丈夫でしょう。私が推薦しておきますので。」
「す…推薦ですか?」
「あ。あと、こう見えても私ね、そこそこの立場の人間ですから。ふふふ、ご安心を。」
田辺は口元に手を添えてわざとらしく小声でそう話し、何やら満足そうに頷いた。
その和やかな笑みからは、やはり嘘偽りはなく、ましてや人を騙すような悪意も勿論、感じられなかった。
しかし、結局のところ「ザル屋」とは何なのか、どんな任務なのか。
その正体は何一つとして分からず終いである。
私はこれ以上質問しても拉致があかないと判断し「ザル屋」については詳しくは聞かず、共通の趣味である競馬の話をしてお茶を濁し、適当な頃合いで帰ろうと思った。
「まぁね。今回のG1は特に難しいと思いますよ。色々な角度から予想を立てていかないと、これは難しいところですねぇ。」と田辺は言った。
ちなみに週末のレースは1600mのG1であった。
逃げる馬が最後に残ってしまうんじゃないかと私の予想を田辺に話した。
「ダイワマイル産駒がね、マイルに強いって言われているけどね。ディープトーキング産駒も実はこれまたマイルに強い。結局はフタを開けてみて、結果的にどっちにも転ぶわけじゃないですか。馬券なんて買わないと当たらないものですしね、買っても当たらないこともあるわけで。つまり、今の時点では誰も何にも分からないわけですよ。」
と田辺は少し熱く語り始めた。
その後、呼吸を整える為にグラスの底に僅かに留まっているアイスコーヒーの薄まった残りをズズズっと啜った。
「逃げる馬が残る、結局はそれですよね。勿論、人生も同じでね。そう、そういうもんなんですよ。」
話を満足げに締めくくったを田辺はふいに明後日の方向をひとり見つめ、そしてゆっくりと頷いた。
何やらご満悦であることは私にも直ぐに分かった。
田辺はしばらく無言でグラスの中に沈んでいる氷をストローで転がしながら再びゆっくりと頷いた。
店内に流れていたマーヴィン・ゲイの「What’s Going on!」がタイミングよくフェイドアウトし、カウンター席に座っている客が銀のスプーンをカップの中で遠慮がちに回している音や、ソーサーの上にコーヒーカップをゆっくりと置く音などが辺りに響いていた。
しばらくして、店主が次なるレコードに針を落とし、ザラザラとしたノイズが聞こえた。
そして、レコードの溝を針が撫でるように進み、暫くすると少し温めのジャズのトリオの曲がじわっと流れた。
数小節ほど聴き流したところで私はそのギターの音がバーニー・ケッセルであることに気がついた。
そして、私は懐かしさが溢れ出すその音に対して出来る限り耳を傾け、音の粒を丁寧に拾った。
学生時代に友達とふらっと立ち寄った屋根裏部屋のような喫茶店での記憶が蘇ってきた。
その喫茶店は天井がかなり低く、屈みながら入店する変わったお店であった。
モダンなソファーに座りながら濃いめのコーヒーを啜り、お洒落なケーキをほうばるのがその当時の僕らからしたら粋であった。
そんな屋根裏喫茶でさり気なく流れていたのがこのケッセルの曲であった。
そして、この店の名物でもある「あんかけスパゲティー」の黒胡椒が粗挽きで、それが前歯に挟まったのを併せて思い出した。
ちなみにその「あんかけスパゲティー」自体はスパイシーで美味しかった。
田辺はふと何かに気がついた様子で身につけていた腕時計をじーっと見ていた。
「ぼちぼち、時間ですかね。私はこれで。申し訳ないが、お先に失礼します。お話出来て楽しかったです。ありがとうございます。」
とりあえずは無難にやり過ごせたのかな、とホッとした私は、辺りに浮かんでいるであろう空気を鼻から大きく吸い込み、再び同じ鼻の穴から勢いよく外へと放出した。
そして、テーブルの上に降り立った私の鼻息は田辺の手元に置いてあったアイスコーヒーの伝票を少し浮つかせるほどに威勢の良い鼻息であった。
ただし、私は慢性的な鼻炎で日常的に左の鼻の穴の通りが悪いため、右の鼻の穴から噴き出した鼻息のみでその伝票を浮かせるといった偉業をこの日、成し遂げたことになる。
そして、ヒラヒラと浮ついていた伝票がテーブルの上で落ち着きを取り戻した頃、田辺は私に言った。
「じゃあ、そういうことで。ザル屋の件はまた近く連絡しますので。」
田辺は確かにそう言った。
そして、静かな笑みをその場に残して田辺は喫茶店を後にした。
そうだ、ザル屋だ。
あぁしまった、ザル屋だった。
私はザル屋の件は了承していないはずなのに、このままでは後日、田辺から連絡が入ってしまう。
どうしたものか。
しばらくの間、私はテーブルの上に置かれた「国家機密管理局 田辺 守」と書かれた名刺を眺めていた。
「いやいや、これは参ったなぁ。」
しかしながら、こればかりは現時点でどうにかなるものでもないわけだし、今日のところは諦めるしかないなと思った。
よし、とりあえず連絡が来たら直ぐにお断りしよう、そう決めた。
その理由は明白だ。
何故ならば、私にはザルを使ってお米を砥ぐこと以外にそもそも出来ることはないからだ。
また連絡をするとのことであれば、その時にでもキッチリお断りすれば良いだろうと思った。
了承していないのは事実だし、契約書すらサインもしていないわけだし、田辺も私を咎めることは流石にしないだろう。
そう私は自分に言い聞かせた。
そして、店内には薄っすらとだが相変わらずバーニー・ケッセル・トリオの演奏が流れていた。
ケッセルのギターの丸みや、バンドとしてのグルーヴ感はいつの時代に聴いても素晴らしいものであった。
その音楽に耳を傾けて懐かしんでいると店内にはケッセルのギターとは別にカタカタ、カタカタといった音が響いていることに私は気がついた。
おそらく、この店の窓ガラスに少し強目の初夏の風がぶつかっている音であろうと直ぐに分かった。
その後、私が腰掛けている古い革張りのソファーとお尻との間に少し汗ばんでいるような湿り気を感じ、私は季節の移り変わりをお尻の皮膚で察した。
しかしながら、土曜の出勤は久々であったが普段よりも少し早く退社も出来きたし、お陰で近所の喫茶店で一服してから帰るという流れも新たに生まれ、それはそれで良かったのかもと思った。
このように偶然が織り成すちょっとした贅沢な時間を楽しめるようになったのもきっと、これまでの私がそれなりに積み重ねたものがあったからなのだろう。
歳を重ねるということは悲観的なことばかりではないんだなと思った。
店の窓から見える夕暮れ時の青梅街道は休日ともあってか、長く伸びる人影の数もいつもに比べてまばらだった。
ただ、西の空は昨日よりもほんの少しだけ明るい気がした。
私の目の前にはつい数分前に田辺 守が飲み終えたばかりのアイスコーヒーのグラスがあって、ビルの頭上に浮かんでいる黄金色の雲間からこぼれる光の粒たちがグラスの縁に反射し、少しだけ眩しかった。
水滴がびっしりと付着したグラスの中には溶け切らず残っている小さな氷たちと、そこに躊躇なく突き刺さる白いストローがあった。
そのストローの飲み口には少し噛まれた跡があり「中年になってもストローの口って何故か噛みたくなるんだよな。」とふいに思った。
そして、そのグラスの向こう側には田辺が支払い忘れたであろうアイスコーヒーの伝票があり、かまって欲しそうな上目使いで静かに私を見ていた。
私は仕方なく田辺のアイスコーヒーの伝票と自分が注文したホットコーヒーの伝票を持ってレジへと向かった。
「ありがとうございます。領収書は必要ですか?」
喫茶店の店主は至って普通の人だった。
ようやく現実に戻って来れたような気がして少しだけホッとした。
バーニー・ケッセルについては特に触れず、私は領収書は必要ないと答えて会計を済ませた。
私は店の入り口付近に飾られた古めのシャンデリアが間もなく灯るであろうその少し前に喫茶店を後にした。
2.宿敵ゲンキ
人には誰しも言えない秘密があり、勿論、私にも言えない秘密がある。
それは私が「ザル屋」であるということだ。
この件は国家機密管理局・田辺 守から依頼を受けた極秘任務であるため、私の家族である妻やトイプードルのゲンキにも言えない秘密なのである。
ただ、私はこのザル屋の任務内容を一切聞かされていないし、ザル屋というものが一体何であるのかすら知らない。
そもそも、この任務を受諾した覚えもない。
そして、肝心の田辺はまた連絡すると言ったきり1週間が経過したものの、あれから一切音沙汰は無い。
喫茶店で競馬の予想をしていたところを国家機密管理局の田辺 守という男に声をかけられ、そのザル屋とかいう任務を一方的に命じられたわけだが、これから私はどうしたらいいのか。
私はザル屋の任務を辞退するため、田辺から貰った名刺にあった連絡先へ何度も電話をかけたが、いずれもコール音のみで繋がらなかった。
その後も時間をおいて何度かかけてみたが、やはり誰も電話に出なかった。
ちなみに先週の競馬のレースは見事に惨敗であった。
熱弁を奮った田辺の推し馬は18頭中、12着で全く当てにならなかった。
レースはまさかの逃げ馬が2着に残ってしまい、私が推していた穴馬は4着止まりになった。
「あ〜スマイルマキ…残るな!...残るなよ!あ!残っちゃったよ…そこで頑張っちゃったかぁ…はぁ、もぅ。」と思わず声を出して私は項垂れた。
これは言い訳になってしまうが、その逃げ勝って2着入賞を果たした牝馬はレース前日の夜中まで私の予想5頭の中に入っていた馬だったのだ。
レース当日に魔がさしてしまい、直前で予想を入れ替えてしまったのが私の運の尽きであった。
1着、3着、4着の馬を私は買っていたため、スマイルマキを抑えで選んでいれば三連複で328.7倍であった。
そのせいもあってか、レースが終わってからのここ数日、後悔という重荷を背負ったまま、ため息ばかりついて日々流されるようにして過ごしていた。
しかしながら、まさかの1着馬は16番人気のモモヒキという馬であった。
これは私の見立ての通りで、競馬新聞の予想屋たちはこの馬を一切マークしておらず、お陰で少しだけ自分のことを誇らしく思えた。
とは言え、結果が全てである。
そして、馬券が当たるも当たらぬも、その全てを持ってして競馬なのだ。
そして、今週も競走馬たちは私たち競馬ファンの熱い声援を待っているのだ。
ちなみに、今週もG1レースがある。
外れ馬券を見つめ、落ち込んでいる私のことなど馬たちは待ってくれやしないだろう。
そして、週末の大レースに向けて、すでに競走馬たちの中間追い切りは始まっている。
いつまでも項垂れてはいられない、そして、振り返ってばかりいては本当の明日は来ないのだ。
私は気分を立て直し「よし、今度こそは。」と競馬新聞を片手に赤ペンを握り、自宅のリビングでひとり予想を立てていた。
今週のレースも全18頭が出場する。
場所は東京、芝1600mのG1、夢の大舞台である。
私はいつもの赤ペンのキャップを外し、お目当の馬の過去レースの3ハロンの最速タイムにマーキングをした。
また、競馬新聞をペラペラとめくり、馬についての記事という記事に目を通した。
どんな小さな記事でも見逃さない、良く知らないご当地アイドルの予想の記事にだって目を配らせた。
そして一頻り読み終えた頃、少し部屋に風を入れようと窓を開け、赤ペンをコーヒーカップに持ち替えてベランダへと向かった。
その向こう側に広がる街の景色を眺めながら、私は平日の朝の空気を味わった。
今週も土曜日に出勤があるため、水曜日である今日が私のお休みの日であった。
眼下に広がる街のある路地の一角から一人、また一人と人々が現れた。
それはなんだか重たい服を着て歩いているような雰囲気で、人々は淡々と流れるように通り過ぎていった。
そして、他の誰かからすれば普段の私もきっとそう見えているんだろうなと思った。
私はコーヒーの香りをベランダの先に少しばかり残し、そして窓を閉めた。
しばらくすると、スタスタスタ…という足音がのんびりと近づいて来ているのが分かった。
「もうそんな時間か。」と思いソファーに座って、すぐに体勢を整えた。
何故ならば、その足音の主がトイプードルのゲンキであることを私は知っていたからだ。
そして、ゲンキが行う次なる行動を私は熟知している。
それは私の右足の小指に噛み付くことである。
今までの私であれば「しめしめ、返り討ちにしてくれるわ!」と思うところではあるが、最近は返り討ちにせず、わざと私の小指を噛ませていた。
ちなみに、ゲンキという犬は妻が結婚前から飼っていたペットのことである。
私と妻が結婚してかれこれ8年が経つが、ゲンキは未だに私のことを認めてはいない。
私の顔を見る度に、ゲンキは決まって一直線に私の足元へ駆け寄って来るのだ。
そして、必ず私の右足の小指を目掛けて威勢良く噛みついてくる。
結婚してからほぼ毎日、私はゲンキに小指を噛まれているし、今では日々の挨拶のようになっている。
私はこれまでの経験からその日のゲンキの体調やご機嫌の良し悪しも分かるようになった。
それはゲンキが駆け寄って来る際、フローリングを掻く爪の音と奴の息づかいで判断出来た。
ちなみに今近寄って来ているゲンキの足音や息づかいから彼の状態を私なりに考察すると、今日のゲンキは寝起きの割には機嫌が良いが、体調は少し悪いといった雰囲気であった。
私は私なりにゲンキのことを理解しているつもりだし、勿論家族としても、そして宿敵としても認めている。
名は体を表すとは正にその通りで、妻が付けたその名の通りゲンキは元気に育った。
そして、その名の通りに元気いっぱいに私を襲ってくるわけだから、それは私からすれば本当に迷惑な話である。
私が彼に出会った当初は噛まれると私の皮膚に軽く穴があき、私のグレーの靴下に血が滲んだことも度々あった。
しかし、私も負けてはいない。
一日中履き潰した私の靴下は発汗と体臭という強力なアビリティを発動し、ゲンキの濡れた鼻頭に痛恨の一発をお見舞いすることもしばしばあった。
お見舞いされた直後のゲンキにはいつものような元気はなく、その時ばかりは両者痛み分けであった。
ゲンキとの闘いの勝率としては、季節にもよるが毎年暑い時期には私の靴下が優勢、そしてゲンキの嗅覚は劣勢となるパターンが多い。
先週までは肌寒い日が続いていたが、今週からは気温も上がって私のモチベーションもシメシメと徐々に上がって来ている。
昨年の秋口から続いていた長期アウェイ戦もようやく終わると思うとホッとする。
しかしながら、やはり8年も毎日一緒に居ると元気なゲンキも歳をとったのか、私の右足の小指を噛む力も緩やかなものとなってきた。
最近、私がゲンキを返り討ちにしない理由は勿論それである。
私は心配になり、念のため妻にも最近のゲンキの噛み具合について報告した。
「それはそうよ。生きているってことは、つまりはそういうことなのよ。」
「まぁ…そうだよな。」
勿論、私も分かってはいるのだ。
それと同じように、私の心に貼りつくこのモヤつきが消えることはないということも分かってはいた。
私は毎日ゲンキに噛みつかれながらも、そんなゲンキの温もりを肌で感じていた。
私はゲンキと過ごす日々が既にもう折り返していて、終わりへと向かって時間が流れているということを認めたくはないのだ。
しかし、それを受け入れるしかないんだよな、とも思っている。
それは同時に私自身も歳をとったということを認めるという、ある種の覚悟でもあった。
そして、私の目の前に当たり前のように存在しているものは、決して当たり前な存在ではないということも学んだ。
どうしようもない事ではあるが、時間の経過というものは人の目を、心を、また全ての感覚を徐々に鈍らせていく。
昨日見た景色と同じ景色はそこには存在しないし、今日見る景色というものは全く別のものなのである。
私のこれまでの人生とは、細く長く緩やかに吹いている風の中で、古びゆく外壁を毎日ただ眺めているだけに過ぎなかった。
勿論、それはこれから先も続くのだろう。
それは分かってはいることなのだが、今の私にはそれを上手く処理出来ない。
ゲンキの元気がない姿を目の当たりにすると、何だか胸が熱くなって、その後には冷たい風が吹いて、どうしても私は寂しくなるのだ。
だからこそ、妻が私に言った「生きているってことは、つまりはそういう事なのよ。」という何気ない言葉の意味を私は改めて考えてみた。
私の中に膨らむ寂しさは妻の言う「そういう事」の一つであり、「そういう事」の集合体こそが我々が生きているという証明なのだと思った。
そして、この掴むことすら出来ない、いわゆる「運命」と呼ばれる漠然とした霧のようのな言葉も「そういう事」の一つなのだろうと思った。
リビングのローテーブルに置かれたコーヒーカップの内側に複数の泡が浮かんでいる。
正に今、その泡は私以外の誰にも気づかれずに、そっと破れて目の前から消えてしまった。
そして、その泡はコーヒーカップが僅かにでも揺れると一粒、また更に一粒と音も立てずに孤独の彼方へと消えてゆくのだ。
先ほど、いつものように私の右足の小指に甘噛みをカマしたゲンキに、「やりやがったな、このやろー。」と私は笑顔で吠えて、ゲンキの濡れた鼻先を指でつまんでやった。
ゲンキは唸り、再度私の足の小指を目掛けて噛みつき、小さなパーマ頭を軽く左右に振りながらも、なんだかんだ彼は楽しげであった。
そして、ゲンキはいつもよりも少し早目にその甘噛みをやめて、その場に仰向けになり両手両足を天井へ向けて伸ばした。
このポーズをする時は決まって私にお腹の辺りを撫でて欲しいというメッセージであった。
私がゲンキのお腹の辺りを優しく撫でてやるとゲンキは気持ち良さそうに目を薄っすらと細め、舌を伸ばして無抵抗となった。
そして、私はそんなゲンキに私がザル屋である事を打ち明けた。
勿論、ゲンキは何のことやらといった表情をし、また目を細めて舌を伸ばした。
「お前には関係ないよな、全くもって何のことだよって話だよな。」
私は上下に動くゲンキのお腹を撫でながら妻の言っていた「そういう事なのよ。」というを言葉を口に出し、ゲンキに語って聞かせた。
そして、撫でるほどに伝わってくるゲンキの体温から、私はゲンキという存在をこの手のひらで感じていた。
3.喫茶イージー・ライク
「よう、ケンちゃん。外、暑いねぇ。」
ケンちゃんと呼ばれる縁の黒いメガネをかけたその男はカウンターの向こうでグラスに細かな氷を入れ、そこへアイスコーヒーを注いでいた。
ケンちゃんは短髪で顎に髭をたくわえており、頬から口元にかけて真っ直ぐにのびる深めのシワがあった。
「田辺さん、いつものアイスコーヒーで良いですよね?」
ケンちゃんは口元へとのびるシワを緩やかに曲げ、穏やかな口調で田辺にそう言った。
ケンちゃんと呼ばれるその男は喫茶イージー・ライクの店主で、常連客でもある田辺 守とは20年くらいの付き合いであった。
ケンちゃんはカウンターに座った田辺にやや低めのトーンで「お疲れ様です。」と声をかけ、手馴れた手つきで布のコースターを敷いてそこへアイスコーヒーを置き、その隣に細めのストローを添えた。
「景気はどうでしょうね。いつ潰れてもおかしくないですよとか毎度しつこくボヤきつつも、なんだかんだで来月で21年目ですよ。そんなこと言っておいて、明日閉店しているかも知れないですけどね。」
銀のスプーンを拭きながらそう話すケンちゃんの頬には薄っすらと小さな笑くぼが咲いていた。
「またまたぁ。私はそのボヤキをかれこれ20年は聞いてますからね、騙されないですよ。はっはっは。」
田辺はアイスコーヒーを一口飲み、前歯でストローの先を少しだけ噛んだ。
アスファルトを照らし損ねた太陽の光が店の入り口の窓から射し込み、その熱により入り口付近の空気は燻されていた。
カウンター内に立っているケンちゃんのその位置からも空気中に滞留している細かな埃の輪郭がはっきりと目視で確認出来た。
「外、なんだか暑そうですね。」
「暑いってもんじゃないですよ。いやぁ、本当、こればっかりは参りますねぇ。昼時はまだマシだったけど、太陽が傾き始める今ぐらいが間違いなく一番暑いね。」
田辺はストローでグラスの中の氷を掻き回しながら、どうにもならない外気の暑さに対して嘆いた。
そして、自身の額に浮かび上がる汗に気がつき、背広のポケットからハンカチーフ取り出しパタパタと押し当てて品良くそれを拭った。
ケンちゃんは田辺の手元に御通しのお水と小皿に盛った数枚の輪切りレモンを置いた。
「お、いつもありがとう。」
田辺はカウンターテーブルに置かれているグラニュー糖を水の入ったグラスに小さじ三杯ほど入れ、輪切りレモンをグラスの中へと放り込んだ。
ケンちゃんが差し出した銀のスプーンでレモンを軽く潰しグルグルとかき混ぜ、そしてグイッと飲み干した。
その甘い酸っぱいレモン水が田辺の喉元を通り過ぎたのが分かるほどに平日の午後の店内は静かであった。
「ふー。スッキリしたな、ありがとね。あぁ、そう言えば。例の件、ケンちゃんも聞いてます?」
田辺はカウンターの向こうでグラスを磨くケンちゃんに話しかけた。
ケンちゃんはグラスを磨きつつ、他のお客さんにさり気なく目を配らせながら田辺に近寄り、ゆっくりと言葉を選びながら慎重に答えた。
田辺はケンちゃんの返事に大きく頷きながら、またアイスコーヒーを啜り、時折ストローを軽く噛んだりした。
「そっか。やはりそうでしたか。ウンウン、予想通りにいい感じですね。A子もそれで問題ないってことだね。わかりました、じゃあそうしましょうかね。」
「ただ、まぁ本人がどうしたいかなんですよね。私の時もそうでしたが、こればっかりは強要はやはり出来ない問題なのかなと。」
ケンちゃんは田辺の返事に対してそう言葉を付け足し、田辺も同じように考えているといったような頷きをして見せた。
「予定だと、おそらくは…今日、明日でしょうかね。」
「そうですね。オッケーです、わかりましたよ。」と田辺は理解した様子で再びアイスコーヒーを一口啜り、そして、やはりストローを軽く噛んだ。
「あ、そうだそうだ、ケンちゃんね。話は変わりますけどね、明日のレース。やっぱりダイワマイル系か、ディープトーキング系かねぇ。」
田辺は3番人気の馬を軸にした三連単を考えているとケンちゃんに話した。
ケンちゃんは眉間にシワを寄せて厳しい表情を見せ、銀のスプーンとそれを拭いていた布巾をテーブルに置き、田辺に答えた。
「いや。私は今回はモモヒキを軸に考えていますよ。馬連のみでいきます。」
田辺は驚きの表情を見せ、咥えていたストローをゆっくりと離した。
元々、小さな瞳をしていた田辺の目は更に小さくなったように見えた。
そして、一度だけ瞬きをしたがその後はしばらく固まったままだった。
カウンターの奥に置かれた木製のスピーカーからトッド・ラングレンが孤独を呟くように唄っていた。
「いやぁー…そうきましたか。なるほどねぇ、そっちの流れですか。それもまた一興、ですね。」と田辺は何かしら納得した様子で静止していた会話を再開した。
「そう、確かに田辺さんもお察しの通り、モモヒキは過去の重賞レースでの結果は残せていません。」
「いや、そうだよね。うんうん。」
「ただ前々走のオープンレースでの優勝。3コーナーからの上がりスピードは目を見張るものでしてね。そして、前走の4着。この4着は2着3着との差がハナ差なんですよ。」
田辺はケンちゃんの話を聞きながら細かく頷いた。
そして、田辺の小さな目はそのうち目玉を吸い込まれてしまうのではないかと思うくらいにまで大きくなった。
「今回のレース。ポイントは過去の重賞レース1600mで1着を取ったことがある馬、ではないんです。田辺さん、これ、落とし穴ですよ。」
「ほほぉ…なるほど、そういうことかぁ。」と田辺は腕を組んで鼻息をふんふんと飛ばしたため、田辺の目の前に置かれた伝票がその鼻息で少し左手に動いた。
ケンちゃんは基本、どんな時でも和かな表情をしており、それ以外の表情を普段は見せることがない人であるが、今回ばかりは少し興奮気味に小鼻を膨らませていた。
「となると…今回のレース、ハネるね。オッズがハネるね。」
田辺は興奮を隠しきれず、言葉の中にその高揚感が混じってしまった。
それにケンちゃんも気がついたが、ケンちゃん自身も興奮していたため「こればかりは、もう仕方がないですよね。」と返した。
「となると、三連単で…あっ、ハネたね。ケンちゃん、大変だ、これ。ハネたね、これ。」
二人の中年男性は、先ほどまでの気だるく息苦しい外気の暑さすら忘れてしまったかのように競馬トークに花を咲かせた。
それは店先に射し込む太陽よりも熱く、真っ赤な花であった。
また、静けさに包まれた土曜の街を間も無く覆うであろう黄昏がすぐそこまでと迫っていた。
そして、喫茶イージー・ライクの入り口の扉がゆっくりとカランカランという音を立てて開いた。
「いやいや今回はハネたね、ケンちゃん。」としつこく話す田辺を「いらっしゃいませ。」という言葉で都合良くかわしたケンちゃんは、通常業務へと戻っていった。
4.焼きそばを待つ間
「君に教えてもらった喫茶店、雰囲気良い店だったね。先週行ってきたよ。」
「あら、そう。良かったわ。」
と妻は言った。
私はダイニングテーブルで昼食が出来るのを待っていた。
キッチンに立つ妻はネイビーの前掛けを腰に巻き、食材を切りながら私のたわいもない言葉に返事をした。
「お昼、焼きそばでいいわよね。すぐ出来るから。」
「うん、ありがとう。」
木製で円形のまな板の上には半分になった人参があり、もう半分の方を薄く切っている音がした。
私の座っているこの席からも人参は目視でき鮮度が良さそうな色味であった。
そして、私のお腹はグルグルと音を鳴らし、食べる準備は万端であった。
ただ、それとは別に私の頭の中には「ザル屋」という言葉がシャボン玉のようにフワフワといつまでも消えずに漂っていた。
私のこれまでの人生は「平凡な人生」とは言い難いものであった。
何故ならば、世間で言う「平凡な人生」というものがもし私の目の前にあったとしたら、私はそれを15メートルくらい後ろから眺めながら、のんびりとついて行くような人間だからだ。
コーヒーカップを片手にのんびりと、そして、マイペースに。
私のこれまでは、まさにそういった人生であった。
先を行く皆んながそこの角を右に曲がればしばらくの間、私は独りぼっちになれた。
ただ、不思議なことにその時が一番心が落ち着いたし、それは子供の頃からずっとそうだった。
私の幼少期は落ち着きがなく余所見ばかりしていたからか、人の何倍もつまずいていた。
今でこそまだマシになったものの、あの頃は4、5メートル進めば必ずと言っていいほど一度はつまずいた。
歩行する際に右足を前に出そうとすると、足元に石一つ無い平らな道でも何故かつまずいてしまうこともあった。
そして、しまいには右足の次は左足という当たり前の動作すら分からなくなった。
私の歩んで来た人生は日々つまずきの連続であった。
もしかしたら私の歩く姿というやつは誰かの目には「いつでもスキップしている陽気な人」と映っていたのかも知れない。
自分で言うのもアレだが、私という人間は何だかとってもおめでたい奴なんだなと思った。
そして、4歳年上の妻と老犬ゲンキとの小さな家での小さな暮らしは私の究極の幸せであり、我が人生という空間が仮にあるとすればそこは既に幸せという微粒子で豊かに溢れており、何一つとしてそれ以外に欲するものはなかった。
そんな私が、まさか国の極秘任務を背負わされるような日が来るだなんて思ってもいなかった。
こればかりはのんびり屋の私も流石に戸惑っているし、一日も早くお断りをしたいところではあるが、未だに担当者の田辺 守と連絡が取れないでいる。
そして、そもそも「ザル屋」とは何のことなのだろうか。
その疑問は日を追うごとに私の中でふつふつと沸き立って、いよいよネットでも調べ始めてしまった。
しかし、「ザル屋」と検索してもどこかの飲食店や雑貨屋などしかヒットしなかった。
国家機密管理局というキーワードで検索しても国家機密を扱う部署だからか「該当なし」となってしまうのだ。
田辺 守と検索すると全国の田辺 守が何人かヒットするも画像を見ても全員別人であった。
私は「ザル屋」に関わることをネットで検索し始めた時点で、少しマズイ気がして何だか落ち着かなかった。
何故ならば、それは私が徐々に「ザル屋」という言葉の持つエネルギーに引き寄せられているような気がしたからだ。
しかし、「担当者との連絡が取れない」「私は承諾していない」この二点がはっきりとしているのだから、それは私が首を突っ込んでどうこうせずに放棄すれば問題ない話である。
勿論、それで良いのだと私も頭では分かっているのだが何かが引っかかって、私は腑に落ちないでいるのだ。
そして、「ザル屋」について検索を始めてしまったということは、あからさまに怪しげな開かずの部屋の前に立ち、その部屋のドアノブを握ってしまったのと同じことなのではないのか、とも思うのだ。
おそらくだが、これ以上先へと私が踏み込んでしまうのは何かしらマズい気がする。
つまり、ドアノブを時計回りに少しでも回してしまうと、もう戻っては来れないわけだ。
今、私はこのウズウズとした妙な胸騒ぎを患いながらも「私には何も関係ないことだ。」と自分に強く言い聞かせ、淡々と日常を送るようにしている。
しかし、今思えば私の日常というのものは常に変化しているものであることも確かである。
つまりは、日々私は昨日までとは異なる日常の中に身を置いて生きている、ということだ。
私は一体何を恐れているのだろうか、むしろ時の流れというのは大体がそんなものではないか。
老いたゲンキの元気がない姿も、平日の朝の街を行く気怠さを纏った人々も、それをベランダから眺めながら飲む水曜日のコーヒーとその辺りを漂うブラックの香りも、全てが時間という軸の上で常に動いているものなのだ。
向かう先に何があるのかは決して重要ではないし、行き先や向かう理由はそれぞれに色々とあって良い。
そして、その一粒一粒を全て包み込んだものを人生という言葉で一括りにしているだけではないかと私は思った。
一粒一粒を包み込むと言えば、私の大好物のお萩が正にそれにあたると思う。
蒸した餅米を練ってその周囲を覆う優しい甘さの粒あん、これぞ正に我が人生である。
悶々としている「ザル屋」に乗っかるも良し、何事もなければそれはそれで良し、お断りするならそれで良し。
どちらへ向かおうとも結局それぞれが一粒の餅米に過ぎないのだ。
むしろ、大事なことは粒あんで包むか、こしあんで包むのか、そっちの方が重要である。
そして、私は粒あん派だ。
「もうすぐ出来るわよ。目玉焼き、いる?」
妻の一声で私の脳内は「ザル屋」から「我が家のダイニング」へと戻され、正直少しホッとした。
「目玉焼き、絶対にいる。」と私は力強く妻に伝えた。
そして、妻は「はいはい。」とあっさりとしたいつも通りの返事をし、ジューシーな音と香りが私の鼻先まで到達した。
間もなく好物でもある焼きそばが登場する、そう思うと腹の虫も少し安心したのかグーとひと言だけ鳴いて姿を消した。
ただ、私の中に立ち込めている霧のようなものは、焼きそばの香りをもってしても消えなかった。
それは多分、両手で力一杯仰いだところで晴れるものでもないのだろうと私は思った。
もし抗うことで起こり得る変化があるとすれば、私の息が上がってむせ返り、翌々日に筋肉痛に襲われ起き上がれなくなる、ということぐらいである。
私の人生にこのモヤっとした霧を発生させたのは、おそらく田辺 守である。
そして、私にとって「変化」とは怖いものなのだと改めて思った。
あの日、競馬予想中の私に近寄って来たことから既にことは始まっていたような気がする。
いや、もしかしたらあの日の休日出勤のシフトが決まった時点から始まっていたのかも知れない。
いずれにせよ、私はこの後に訪れるであろう何かしらの現実と今後、向き合っていかなければならないのであろう。
ただ、これまでもきっと同じような状況は大なり小なり何かしらあっただろうし、おそらくその時は無意識に上手くやり過ごせていたのだろう。
では、今回はどうしたものか。
「ザル屋」という任務をするということは、今ある暮らしが大きく揺らいで消滅する可能性もあるのだ。
一応、私の心へ問いて見たが「それは嫌だ。」という答えが即答で返って来た。
「ザル屋」というよく分からない存在によってこの幸せな小さな暮らしが乱されるのは、やはりたまらない。
「出来たわよ。あなた、取りに来て。座ってないで手伝って。」
いつもの妻の声がして、私はゲンキと一緒に妻の元へと向かい、2人前の焼きそばと2つの目玉焼きが盛り付けされた美濃焼の大皿を手に持ちテーブルへと戻った。
ソースの香ばしい匂いが私の鼻の前に漂いながら「こちらへどうぞ。」と食卓へと誘導しているようだった。
「あと。あなた、いつもの取り皿持って来てくれる?」
わかった、と言って私は食器棚の2段目の引き出しから小皿を2枚取り出してテーブルへ並べた。
「お待たせしました、どうぞ召し上がれ。」
そして、ゲンキは私の右足の小指に再び噛み付いて来たが「はいはい。」と心で思いながら、彼を無視して焼きそばをほうばった。
目玉焼きを崩し、ソースの絡んだ麺とキャベツを黄身に絡めて頂いた。
いつもの焼きそばを食しながら、私は「ザル屋」という言葉が私の暮らしの中から消えるその日まで誰にも言わないようにしようと決めた。
私は妻へ焼きそばを食べ終えたら近所にある和菓子屋へお萩を買いに行ってくると伝えた。
「私、粒あんがいいわ。」と妻は答えた。
5.妻は知っている
「トマトのパスタでいいのよね。」
そう言って妻は私に背を向け、台所で夕食の支度を始めた。
フライパンにエクストラバージン・オリーブオイルを回すように垂らし、静かにガスコンロに火を付けた。
私はしばらく黙って小柄な妻のその後ろ姿を見つめていた。
外の夕陽が妻の背中に乗っかり、そして間も無く沈もうとしていた。
妻が右手に持つ木ベラがフライパンの上でリズミカルにビートを刻み、その後に続けと言わんばかりにジューシーな音と香ばしい匂いが部屋中に散った。
熱せられたエクストラバージン・オリーブオイルの中でスペイン産のガーリックスライスと赤唐辛子の輪切りが熱せられ、その音からオイルに二つの香りが見事に染み込んでいるのが私には分かった。
ちなみに、赤唐辛子は妻が虫除けのためにベランダのプランターで育てたものだ。
このようにそれらは時々、我が家の食卓に並ぶことがある。
その他にもバジル、大葉、そしてラベンダーといった植物たちが日当たりの良い我が家のベランダでスクスクと育っている。
ちなみに、今日は我々夫婦の結婚記念日であった。
8年目ともなると、特にこれといってどこかのレストランでフレンチだとかそういうアレは私の中にも妻の中にもなかった。
ただ、一応お祝いであるため私の好きなものを妻が作ってくれるとのことで、私はトマトのパスタをリクエストした。
妻の作るトマトのパスタは中々のもので、本場のイタリア料理の味がするのだ。
私の妻は学生時代にイタリア料理店で配膳のバイトをしていたらしい。
そして、妻曰く、その時に賄いで食べていたトマトのパスタの味を思い出し、自分の出来る範囲で再現しているらしい。
その店のシェフは日本育ちでイタリア人の母と日本人の父を持ち、本場イタリアへ渡ってイタリア料理の修行をしたと言う訳ではなく、どうやらイタリア人の母親が育ったイタリアの実家の家庭料理なのだと言う。
しかし、そのパスタはシンプルな味付けで実に美味しく、これまでも妻に何度もリクエストをして作って貰っている一品である。
味付けは塩と黒胡椒、オリーブオイル、ガーリックに赤唐辛子、そしてイタリアントマトを木ベラで炒め、最後にバジルを添える、といったシンプルなもの。
また、妻の茹でるパスタの硬さもこれでもかと言わんばかりに丁度良く、シンプルなトマトのソースと良く合うのだ。
「パスタは茹で時間が命なのよ。」と以前も説明を受けたことがあったが米の炊き方しか知らない私には到底出来そうにない難易度の高い内容であった。
しばらくして私は突然、妻に呼ばれた。
「あなた、ちょっと来て。もうすぐ出来るから、手伝って。」と妻は私に声をかけた。
そして、シンクの下の引き出しから湯切り用のザルを取るように言われた。
ポコポコと湯立つ鍋の中では今にものぼせてしまいそうなスパゲッティーニが早く取り上げて欲しそうに波打っていた。
「そうね、あと…30よ。30数えたら湯切りして。」と妻は私にそう言いながら湯立つ鍋の中をじーっと真剣に見つめていた。
「ぼ、僕がやるのかい?」
「だって、あなた。ザル屋なんでしょ。早く数えてよ。」
「え?」
妻は私には一切目を向けず、湯立つ鍋の中をじーっと見つめたまま、そう返事をした。
「ザル屋」という言葉が妻の口から飛び出して来たことに私は動揺し、次の瞬間に口の中に大量の生唾が溜まっていたことに気がついた。
私は思わずそれを飲み込み、ゴクリという音がその場に響いた。
「ジュウイチ…ジュウニ…ジュウサン…」
私は時折、横目で妻の表情を確認しながら秒数を数えていたが妻のその視線は一切の緩みもなく、ただ真っ直ぐに鍋の中へと注がれていた。
私は熱湯の中で畝るスパゲッティーニに目線を移し、とりあえず私の感覚で秒数を数えながらスパゲッティーニが仕上がるのを待った。
秒数を刻む私の声音と湯立つ鍋の音が天井や白色の壁に反響し、少しずつ陰り出した台所ではそれがより目立って聞こえた。
グツグツとしか言わない鍋の前で、何故かカウントダウンをさせられている私のすぐ左隣には熱心な視線を鍋へと注ぐ妻の眼差しがあった。
その熱い眼差しにより鍋の中の温度は更に上がっているような気がした。
「ニジュウ…ニジュイチ…」
そして、妻の口から飛び出した「ザル屋」と言う言葉に混乱している私はとりあえず、自分の気持ちをどうにか落ち着かせる為にもパスタの茹で時間の残りの秒数を隣に立つ妻へ伝え続けた。
「あ。ザル屋!ほら!今よ!」
私はこの後に予定していた残りの9秒弱をコンロの前に置き去りにし、手持ちのザルを使って手際よく湯を切ってみせた。
スパゲッティーニに纏わりつく湯に溶けた小麦粉のヌルッとした茹で汁がステンレスのシンクに跳ね返り、その水蒸気が顔の周りを取り囲み、立ち込めるそれが一瞬のうちに私のメガネを曇らせた。
シンクが熱を帯び、ポンという音が静けさの中で弾んだ。
ふと足元を見たら私の知らない間にゲンキが転がっていた。
彼はその音に驚いて起き上がり、そして、瞬時に私の右足の小指をためらう事なく噛んだ。
「あいたー!」
不意を突かれた私は思わず声を上げてしまった。
そして、なんだかんだで湯切りを無事に完了した私は妻にスパゲッティーニが入ったザルを渡した。
スパゲッティーニのその肌は艶やかでベストな湯で加減であり、また自分で言うのもなんだが、正にベストな湯切り加減であった。
既に用意されていたイタリアントマトのソースがフライパンの中でスパゲッティーニが来るのを今や遅しと待っていた。
「ザル屋さん、初任務完了ね。そして、お疲れ様。さぁ、急いで頂くわよ。」
妻は出来上がったトマトのパスタを美濃焼の大皿へとお洒落に盛り付け、ラストはバジルの葉を上から散らした。
そして、妻はそれをテーブルへと運び、フォークとスプーンを並べながら私に声を掛けた。
「あなた、いつもの取り皿持って来てくれる?」
「あぁ…そうか。うん、わかった。すぐやるよ。」
いつもの妻のそのフレーズを聞いて、私の心は少し落ち着きを取り戻した。
おそらく妻は「ザル屋」について何か知っているのだろうと思ったが、私はそれについて問い詰めるようなことはしないでおこうと思った。
食器棚の引き出しから取り出した2枚のいつもの小皿を手に私は妻の待つテーブルへと向かおうとしたが、私が繰り出そうとしたその右足の一歩は今までに無いくらいに何故か重たかった。
そして、私の右足の小指にはやはりゲンキが元気に噛みついていて、器用にぶら下がっていた。
私はそんなゲンキを強引に引き摺りながら、スパゲッティーニと妻の待つ食卓へと向かって再び、歩き始めたのだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?