息を吸う前の一片の名を

こんばんは。とけるちゃんです。

 一片とかいて「ひとひら」と読みます。いちまい、と似たような意味ですね。平らで薄いものを数えるならば、息を吸うと吐くの間隙かんげきもまた、そう数えるのが良い気がします。
 苦しさだけで塗り潰されない刹那であれば良いのにね。

 鶏肉なんかは一枚と数えるし、もし人間の手がそれ単体として流通したら枚と数えるのかも。薄い、というのはなんとなく平らで広いことも含まれてしまいそう。

 言葉というのは、得てしてそういうものでして。曖昧で、輪郭を決めたがるくせに、厳密に使うのは面倒だから結局ぼんやりしてくる。

最初は線をひたはずなのに、いつのまにかニュアンスの広がりを見せる。

 
 新しい言葉をつくる、ということは馬鹿にされがちです。若者言葉、とか最近流行りの、とかいう言葉はけしからんとされてしまう。
 そういうカッチリとした物言いを頭が固いと言い腐すには、随分と生きてしまった気がします。もう人生は半分かしら。

 言葉を記号と捉えるならばそうでしょう。記号の意味が急に変わったら困ります。でも、言葉は記号以外であってもよい。私は絵の具だと思っているから、こういう変な文章だって書いちゃう。

 線の内側を、外側を、私は自由に塗って良い。

 いわゆる文豪と呼ばれた人々の言葉遣いには、或いは英語を具に和訳したその感性には、ニュアンスを創ろうという試みがあったはずで。
 それを否定することは無かろうに、今それをやったらいけないのか、不思議ですね。

 これから時間を積み上げていけば、その軽薄さは薄れるでしょう。あるいは廃れ行くならば、誰かの郷愁を支えるでしょう。

 新しいものを反射的に馬鹿にして腐すのは、ゲップやオナラと一緒で。場に合わせて抑えるべき生理現象なんじゃないかなぁ。いやはや、尾籠な話で申し訳ない。
 長く生きると、こういうものに我慢が効かなくなってくる。湧き上がる感情をそのまま社会に許容してほしくて堪らない。

 私はそういう学部を選ばなかったけれど、人間のことを語りたいので最近は生物の勉強をしています。あと、占星術も哲学の一つとして、どんどん知っていきたい。(こういう勉強は何かにつけ西洋→東洋という順番になってしまいがちで、お恥ずかしい)
 勉強することでしか、自分の生物としてのだらしなさを抑制できない気がして、コツコツやっています。そうすることで、きっと他人に優しくできるはずだと思って。

 ここまで書いた普通のことを、立派だなぁと思っている人にだって、私はそうでしょうと胸を張れる。今はまだ。

 これが、私のひとひら。息をすっかり吐いたら、また吸って。それから、きっとやさしくいられるはず。次のひとひらでは、愛着を語れたらいいな。

言い忘れた。今回喋ったのは、私の傲慢プライドでした。

またね

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