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Xジェンダー「らしさ」って?

パレットークさんのこちらの記事を読んで、Xジェンダーの自分も「らしさ」について考えてみようと思います。

↓こちらは気軽に読めるTwitterバージョン。

まず、当該記事/漫画の中でトランス女性の女性「らしさ」について言及されている観点は、大きくふたつあると思います。

ひとつは、個人の選択の結果としての「女性らしさ」

ふたつめは、社会の要請の結果としての「女性らしさ」

前者についてあえて言及することはないと思いますが、後者については漫画内のキャラクターである橘先生が「女性として生きたいと思ったら多かれ少なかれ『女性らしさ』を身にまとう必要があることも多い」として、それを「選ばざるをえない『らしさ』」であると表現しています。

自分の琴線に触れたのは、後者の「選ばざるをえない『らしさ』」というものでした。

それというのも、自分は「(周囲の人間や社会から)女性とも男性とも思われたくない」という性自認を持っているからです。



「男性」とも「女性」とも思われたくない"自分"の「選択」とは

自分が義務教育を受けていた時代には、「小学校高学年から中学生にかけて、心身ともに女の子は女性らしく、男の子は男性らしくなっていきます」というようなことが保健の教科書に書かれていました。
しかし自分が「女性とも男性とも思われたくない」と感じ始めたのは、まさしくその「心身ともに女の子は女性らしく、男の子は男性らしくなって」いく時期だったのです。

そんなわけで、思春期のころの自分は「女性とも男性とも思われないため」に、女性「らしい」とされるものも、男性「らしい」とされるものも忌避して生活していました。
そうすることで、自分は女性にも男性にもならなくてよいのだと、そして他人から女性とも男性とも扱われなくて済むのだと信じていたのです。

そのため、戸籍上の性別「らしい」とされているものを身にまとったりすることはもちろんしたくありませんでしたし、シスジェンダーであると思われないように振る舞うよう努めていました。
しかし、戸籍上の性別とは違う性別「らしい」とされている振る舞いをすることによって、戸籍上の性別と性自認が"逆"なんだと思われるのもなんだか癪でした。

性自認が「女性」であること、「男性」であること、シスジェンダーであること、それらが"悪い"ことだと思ったことは一度たりともありません。
しかし、「女性」である自分も、「男性」である自分も、シスジェンダーである自分も、それら全部、"自分"ではないと感じられていたのです。

自分が"自分"でなく、社会から"自分"として扱われない苦しみを、どのように表現したらよいのでしょうか。

「女性とも男性とも思われたくない」と躍起になっていた思春期の自分に、個人の選択として選んだ言動や服装がどのくらいあったのか、今となってもわかりません。
そのころの自分にとって、自分が"自分"として社会に存在するためには、漫画内の橘先生の発言の"逆"で「選ばざるをえない男性らしくなさ/女性らしくなさ」が必要だったのです。
(ややこしい言葉づかいで申し訳ありませんが…)



女性「らしい」とされるものも男性「らしい」とされるものも、「自分らしさ」の要素に過ぎないと気付く

そんなわけでとにかく息苦しい思春期を過ごしたわけなのですが、今ではそれほど「女性/男性らしくないようにしなきゃ!」という意識はありません。
それというのも、高校・大学と進学して様々な人と触れ合う中で、自然とその意識は重要ではないと感じられるようになったからです。

「様々な人」といっても、たとえばテレビに出るような有名人であるとか、とんでもない資産を持つお金持ちであるとか、なにか"特別"な人たちのことではありません。
彼らは自分の周囲にいた、"ふつう"の学生たちです。
また、自分に影響を与えた彼らの言動も、彼らにとっては"ふつう"のことだったのだと思います。

高校時代のクラスメイトの「男の子」は、冬になるとかわいらしい容器の、よい香りのするリップクリームとハンドクリームを塗っていました。
大学時代の同期の「女の子」は、一人称が「僕」で、ベリーショートの髪に刈上げを入れていました。
バイト先の先輩は、性自認は「男性」だと言っていましたが、いつも内股に座り、いわゆる「おばちゃん言葉」のような言葉をしばしば使っていました。

ある人の性自認なんてどんなに聞いても他人が理解できるものではなく、また誰でも性自認が揺らぐ可能性はあるため、彼らの性自認を正確に把握しているとはいえません。
そしてたとえに出した「リップクリーム」や「刈上げ」を「女性らしさ」「男性らしさ」として捉えていたのは自分の偏見なのでしょう。


とはいえ、彼らの言動は自分のそれらの偏見を打ち破り、「らしさ」への概念を変革してくれました。

彼らは自身の性別「らしさ」にとらわれることなく、自分が好ましく思うものを身にまとい、自分がしたいようにふるまっていたのです。
それは女性「らしく」あっても男性「らしく」あっても彼らは彼らである、ということを自分に強く印象付けました。

そして彼らが「そう」であるならば、自分だって「そう」なのではないかと思うようになりました。
つまり、ときに女性「らしく」、ときに男性「らしく」あっても自分は自分である、すべて自分の言動は「自分らしい」ものである、ということだと気付いたのです。


それらの経験を経て、今ではあまり服装や話し方、言動に性別「らしさ」という観点での注意は払っていません。
周囲の友人たちが自分の「女性とも男性とも思われたくない」という感情を尊重してくれていることも、それを可能たらしめている要因の一つだと思います。

そのような経験と環境で自信をつけた中で、自分のことを女性だと"間違われ"ても、男性だと"間違われ"ても、笑って話を合わせながらも心の中では「自分は"自分"」と胸を張れるようにもなりました。
昔の自分だったら泣いてしまうような状況でしたから、これは大きな成長だと思います。



当事者が変わるべきなのか?社会を変えるべきなのか?

それでも、今でも「さすが女性/男性だね」などと言われると、落ち込んだりイライラしてしまうことは多々あります。
このnoteだって、本当に女性/男性だと"間違われ"ても気にしない心を持っていたら、より幅広い表現ができていた思います。
(たとえば、一人称が「自分」なのはその最たる例です。)

ですから、「女性とも男性とも思われたくない」という感情は"自分"を強く持つことで和らいだとしても、おそらく一生消えることはないのでしょう。
そしてそれは、当事者が努力して消さなければならないものではないはずです。

自分が前項で述べていたことをトランス女性に置き換えてみると、橘先生が言っていた「選ばざるをえない『女性らしさ』」にトランス女性が適応しろ、と言っているようなものに思えます。

前項での自分の経験についての書き方は、あたかも「適応」を是としているようですが、パレットークさんが表現したかったのはそんなことではなかったはず。

そして自分がこの記事/漫画の中で琴線に触れたのも、個人の素質/適応だけではなく社会の(女性らしくあることで"女性"として"認め"られるという)要請という点にも着眼していたからこそなのです。
後者についてはこの漫画の中で、「今の社会が求めるもの」「既存のフォーマット」という言葉で表現されていたものであり、これこそが思春期の自分が抗っていたものでした。


おわりに

当該記事は以下の文章で締めくくられています。

私たちのアイデンティティは、私たちの自由でありながら、常に社会や周りの人々との影響関係の中にある。"自分らしさ"は「自分で決めつつ、決められている」という絶妙なバランスの中で、少しでも多くの人が心地よく自分らしさを表現できる、そんな世の中になってほしいと思います。

「私たちの自由」であるアイデンティティを確立するために抗い続けた思春期を経て、周囲の人間に影響され、受容されながら「既存のフォーマット」に「適応」してきた自分の人生は、この文章からはどう"評価"されるのでしょうか。

自分にはそれを知る由もありませんが、少なくとも自分は、この文章に実感を持って賛同できる生き方をしてきたと思っています。


この記事は「Xジェンダーの"自分"」として、パレットークさんの記事から思うことを書き連ねたものです。
しかしひとくちに「Xジェンダー」と言っても、それを自称する当事者が自分の性と生き方をどのように捉えるかは十人十色、百人百色、千人千色です。
ここに記した自分の生き方や考え方は、その十も百も千もあるうちのいちサンプルに過ぎません。

しかし自分がひとえに言いたいのは、生きていく中で「らしさ」があるのなら、何より信じるべきなのは「自分らしさ」でありたい、ということです。

男性「らしさ」/女性「らしさ」というものはきっと、形を変えて社会に残り続けるのではないかと思います。
それでも「自分らしさ」を胸の中にしっかり持っておけば、それらに振り回されることなく生きていけるのではないかと、そう信じています。



素敵な記事の感想に、未来への希望を添えて。


おしまい。



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【備考】
「女性」「男性」を並列して表記する順番は、五十音順で考えて「女性」を先に表記しています。
「女性」の方が優位であるとか、「男性」を下に見ているとかいう意図は全くないのでご了承のほどよろしくお願いします。




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