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風呂に入るのがしんどいので外注してみた

風呂に入るのがしんどい。

なにがしんどいのかというと、ぜんぶしんどい。
浴室を掃除するのも、湯船にお湯を張るのも、服を脱ぐのも、体じゅう洗うのも、体を拭いて髪を乾かすのも、全部ぜんぶしんどい。

それら一連の行為を想像しただけで、浴室から足が遠のいてしまう。
そんなわけで、昨日も風呂に入ることができなかった。


風呂に入れないことの弊害

程度の差こそあれ、入浴が難しいというのは精神障害者にはよくあることらしい。

だからといって、精神障害者なら風呂に入らなくていいというわけではない。
わざわざ明文化するまでもないとは思うが、そう考える理由をふたつ記しておく。

①気力の低下
入浴しないと身体的な不快感があるだけでなく、気力も落ち込んでくる。
「体がべたべたして気持ち悪いから動きたくない」とか、「周りの人に臭うと思われるのが嫌だ」とか、そんな風に考えるだけで、もう何もしたくなくなる。
人によっては、入浴できないことがつらくて、”できない”自分を責めてしまうこともあるだろう。


②社会的威信の低下
このことを考える上で、19世紀のイギリスで書かれたアダムスミスの『諸国民の富』を引用したい。

「私が必需品というのは、ただ生活を維持するために必要不可欠な商品ばかりではなく、その国の習慣上、最下層の人々でさえ、それなしには信用のおける人として見苦しくなってしまうような、あらゆる商品をいう。例えば亜麻布のシャツは厳密にいえば生活必需品ではない。ギリシア人やローマ人は、亜麻布など全くまとわなくても、きわめて快適に生活していたと私は思う。ところが、現代となると、ヨーロッパの大部分をつうじて、信用のおけるほどの日雇い労働者なら、亜麻布のシャツを着ないで人前に出ることを恥じるであろう。」

要するに、ある人が社会的に信用のおける人であるかどうかという要件は、その人が所属する社会が決めるということである。

ここではギリシャ・ローマの古代世界と、スミスが生きた19世紀イギリス社会が対比されて描かれているが、現代日本においてはどうだろうか。

個人的には、現代日本で「入浴する」ということは、ここでいう「亜麻布のシャツ」にあたると思う。

ここでいう「社会」を「世間」と言い換えれば、もちろん「個人」として「亜麻布のシャツ」を着なくても気にしなかったり、あえて着ない人もいるだろう。
それは個人の信条などの問題であって、他人が勝手に価値判断してよいものではない。

しかし、どんなきれいごとを言っても、現代日本では清潔で″きちんとした”身なりをしていないと"人間"として扱ってもらいにくくなる。
良いたとえではないが、入浴の頻度が高くはない路上生活者の方と、スーツを着用してヘアセットもきちんと行ったサラリーマンの方とでは、周囲の人々に与える印象が違うだろう。

そう考えたとき、やはり(他人はどうあれ)自分は「亜麻布のシャツ」を着たいと思う。
社会的な信頼を得て社会参加をし、自信をもって自己実現をしたい。


そんなわけで、今日も遠き風呂場を見つめているのである。



ネットでは「どうしたらいいのか」が書いてない

では、どうしたら抑うつ状態の人間であっても入浴が可能になるのだろうか。

藁にもすがる気持ちでGoogleに「お風呂 入れない」と入力したところ、「風呂に入るのが面倒になってきたら、うつ病の傾向かも!?」みたいな記事ばかりヒットした。

なめとんのか。
こちとら元号変わる前から精神障害やっとんのじゃ。

これはダメだと「お風呂 どうしたら入れる」「お風呂 入りたくなる」といったワードで検索し直すと、入浴剤や音楽スピーカー、浴室の壁がプラネタリウムになるガジェットなどが、入浴のインセンティブとして紹介されていた。

ほんとに?
ほんとに、いい匂いがしたり、楽しい音楽が流れたり、浴室内が小さな宇宙になったくらいでしんどさ乗り越えられる?

こういうの。
めちゃくちゃキレイでちょっと欲しくなってしまったが、このガジェットが浴槽を洗ってくれたり髪を乾かしたりしてくれるわけではない。

そう、抑うつ時における浴室への足取りの重さは、「浴室に行くと楽しいことが待ってるよ!」というニンジンをぶら下げられたくらいではどうにもならないのである。
自分ではできない。ならば他人にやってもらおう。

私を風呂に連れてって。


美容室でシャンプーだけやってもらった

前置きがずいぶん長くなってしまったが、ここからが今回の本題である。

ということで、髪だけでもずいぶん違うだろうと思い、美容室でシャンプーだけやってもらってきた。

シャンプー単体では単価が安いしオーダーできないだろうと思い込んでいたのだが、OKらしい。

この記事でもそうだが、「美容室 シャンプーのみ」で検索すると、意外に美容室側には嫌がられていない模様。
(「床屋」「理容室」でも同様の記事がヒットしたので、似たような感じだと思われる)
ありがてぇ…ありがてぇ…。

美容室で予約をとる

そうとわかればさっそく予約だ。
もうこの時点で髪がベタベタすぎて気力も体力も奪われているため、なるべく早く施術できて最も自宅に近い美容室をホットペッパーで探す。

結果、自宅から徒歩5分の場所にある美容室で1時間後の予約がとれた。
価格はシャンプーとドライで¥3,300

上記のサイトには「大体シャンプーブローで1500~2000円前後です。」とあったので、場所とか時間をもうちょっと妥協すれば¥1,500〜2,000くらいでやってもらえそう。

でも無理。もう限界。
1秒でも早く頭皮の脂をこそげ落としたい。

外出の支度をする

さて、最も早く施術してもらえる美容室を予約できたとはいえ、家を出るまでには1時間近く余裕がある。

美容室ってこじゃれた店内にオシャレな店員さんとお客さんがいるイメージなので、予約の電話を入れる際には「持病があって数日入浴できてなくて…その関係で服装とかもすごいダサい感じなんですけど…」と予防線を張っておいた。

というわけで予防線も張ったし、美容室は家から徒歩5分だし、ギリギリまでだらだらして、なるべく外出着っぽい部屋着で出かけるか~などと思いスマホをいじって時間をつぶしていたところ…

「せっかくキレイにしてもらえるんだし、体だけでもシャワー浴びてキレイにしておいたら施術後全身キレイになるんじゃない?」
との天啓が。

そうしてあれだけ足が遠のいていた浴室に行き、シャワーを浴びて顔と体を洗った。

そうすると不思議なもので、
「せっかくお風呂に入ったんだし、部屋着をまた着なおすのも何だし、体力が許す限りでちゃんと身なりを整えたい」
という気持ちになり、数少ない洗い立ての衣服を身に着けた。

そんなわけで、あれだけ腰が重かった「風呂場に行く」「身なりを整える」という行為が、「美容室に行く」というトリガーでいともたやすく行えたのである。

えっもう、キレイにしてもらいに行く前にちょっとキレイになっちゃってんじゃん。
(※髪は数日洗っていないのでキレイではないです)


施術開始

 当然だけどめちゃくちゃ気持ちがいい。
予洗い→すすいで本洗い→すすいでコンディショナー→頭皮マッサージ→席に戻って肩のマッサージ

リラックスしすぎててほとんど寝ていたので、美容師さんが「お湯加減熱くないですか~?」などと聞いてくれても「ハァイ…」といった電池切れのおしゃべり人形みたいな返事しかできなかった。
初対面なのに気持ち悪い客ですみません…。

施術が終わると、リラックスして落ち着いた気持ちと、頭がキレイになった爽快感でいっぱいであった。

しかしここで予想外だった効果は、「キレイになった」という自信がついたことによって意欲が出てきたということだ。

これなら外を出ても恥ずかしくない。ちょっとした買い物なら行けそう。
なんだか体力もわいてきて、今なら溜まった家事もできそう。
そんな気持ちが湧いてきた。

高齢者入所施設のおばあちゃんにネイルとかお化粧してあげるとめっちゃ喜んで元気になる、みたいな感じだろうか。
全然違ったらごめんなさい。


まとめ

この経験からわかったことをまとめると、美容室で髪の毛を洗ってもらうということのメリットは以下の通りだ。

・当然髪がすっきりしてキレイになる
・いい匂いやマッサージでリラックスできる
◎「せっかくキレイにしてもらえるのだし」という意識がトリガーになって、頭髪以外の身なりにも気をつかうことができた
◎キレイになったことによって自信がつき、意欲が湧いてきた

個人的には後者の2つがポイントで、やはり清潔を保つということは単に衛生的な問題にとどまらず、人間の自信や意欲につながるものなのだなぁということを体感した。
この感動をうまく言語化できないのが非常に残念なので、機会があればぜひご自身で体験してみてほしい。


 ということで、これらのメリットと出費を天秤にかけつつ、美容室でシャンプーだけをしてもらうというのは選択肢としてかなりアリなんじゃないかと思った。

なお自分自身「いや外出どころか美容室に電話なんてする余裕ねーわ!!!!」みたいな体調のときもザラにあるので、そのような際の清拭方法については別記事で紹介したいと思う。


おしまい。


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【補足】

都市部では最近、定額制でシャンプーし放題の美容室もあるようだ。

お値段は月額¥16,000(税別)。

シャンプーし放題と聞くと魅力的だが、価格設定もコンセプトも明らかに我々はお呼びじゃない感じだ。
まぁこんなものもあるんだな、くらいに思っておこう。

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