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ミュージカル『刀剣乱舞』、7つの物語で3つの時代をたどる旅! 時代小説家の年末年始

 旅行も帰省もできない年末年始、ステイホームならではのやり方で楽しむことにした。そういうわけで、dアニメストアを利用開始。ミュージカル版の『刀剣乱舞』を視聴した。おもしろかった!

 考察とか解説とか、そういう大仰なことはできない。ただ、感じたことを書き残しておきたいと思った。それだけの文章だ。

 まず前提として、私は舞台鑑賞が好きだ。弟がアマチュア演劇をしていることもあり、現代演劇のストレートプレイや朗読劇を年に数回観に行っていた。

 2.5次元の舞台を視聴したのは『刀剣乱舞』が初めてだ。2020年春の自粛期間中に出会った。あのシーズン以来、2.5次元舞台もストレートプレイも配信で観るようになった。九州に居ながらにして東京の舞台のチケットを買い、配信とはいえ観劇できることは嬉しい。劇場の空気も吸いたいけれど。

 個人的な考えだが、ゲームや漫画の実写化は、映画よりも舞台のほうが相性がいい気がする。舞台という表現形態では、観客が想像力によって情景を思い描き、「ない」ものを「ある」とする演者との約束のもとに物語を進めていく。そうした約束ありきの本質が、2.5次元舞台に説得力を持たせるように思う。

 さて。本題に入る前に、軽く自己紹介。

 2020年5月下旬に一斉無料配信された舞台版『刀剣乱舞』シリーズを観たことがきっかけで、オンラインゲーム『刀剣乱舞』も始めました。『刀剣乱舞』の存在は(ミュージカルと舞台があることも)、地元・長崎県五島列島の友達を通して、もともと一応知っていました。

 私、馳月基矢は時代小説家です。ひょんな流れで時代小説家になり、デビュー作刊行当日に緊急事態宣言が出て都市部の大型書店が休業して苦境に陥るも、歴史時代作家協会より文庫書き下ろし新人賞をいただいたりと、予想外の驚きに事欠かない2020年を過ごしました。2021年1月、2作目刊行の日には1都3県に緊急事態宣言検討とのニュースが流れています。歓迎したくないタイプの驚きも多々あるとはいえ、心はまだ死なずに済みそうだ。

 関連記事は以下。『刀剣乱舞』の説明は今回省略するので、とうらぶ外からアクセスされたかたは「舞台『刀剣乱舞』シリーズ全作観た!」を参照のこと。

 ようやくここから本題。

 ミュージカル刀剣乱舞、長いので「刀ミュ」と略させていただくが、どこから観たらいいのかを小説家・猫屋ちゃきさんから指南していただいた。
(キャラクター文芸や恋愛小説で活躍中の猫屋さんが気になる審神者さんは即チェックを!)

 ということなので、アドバイスを参考に、物語時点の時系列順に見ていくことにした。音楽ライヴステージがメインの公演は、ひとまず刀ミュの彼らのひととなり(かたなとなり?)を知ってからで。

 ダンスを伴うポップス、と言ったらいいのか……そういう形態の音楽は詳しくないので、第2部のライヴステージのことはうまく表現できない。とはいえ音楽を聴くのは好きだから(学生時代はロックバンドを組んで歌っていました)、とても楽しいなあと感じております。ギターリフがカッコいい「刀剣乱舞」は好きだし、「獣」はすごく印象に残った。

 以下、物語部分である第1部のこと。この順番で視聴した。

[源平合戦クライマックス~鎌倉時代初期]
1. 阿津賀志山異聞2018 巴里
2. つはものどもがゆめのあと
3. 髭切膝丸 双騎出陣 2019 ~SOGA~
 ↓
[徳川家康とその息子たちの時代]
4. 三百年の子守唄
5. 葵咲本紀
 ↓
[新撰組の時代]
6. 幕末天狼傳
7. 結びの響、始まりの音

[源平合戦クライマックス~鎌倉時代初期]

 この時代の物語3本に共通して言えることは、「古典文学・芸能のオマージュ」だ。『阿津賀志山異聞』は『義経記』がベースになっており、『つはものどもがゆめのあと』は『平家物語』や歌舞伎『勧進帳』が挿入され、『双騎出陣~SOGA~』はその副題のとおり『曽我物語』そのものである。

 『阿津賀志山異聞』と『つはものどもがゆめのあと』の鍵となるのは、義経公の守り刀であった「伝説」から励起された今剣と、かつての主である武蔵坊弁慶の実在さえ不確かな岩融。刀剣に宿った物語が刀剣男士を形作るとはいえ、そもそも存在しない刀剣なのかもしれない、という説も採り得る今剣と岩融は、己の曖昧さに気付いてしまってもよいのだろうか。

 今の時代、ちょっと検索すれば、刀剣の簡単な来歴や古典文学・芸能のあらすじには簡単にアクセスできる。が、これらの情報をいかに使ってドラマにし、どんな切り口から物語るのか。そこを見るのがおもしろい。源義経にまつわる2作品は本当に見応えがあった。

 貴公子然とした姿で顕現した源氏の太刀、髭切と膝丸の兄弟が、劇中劇のような体裁で演じた『曽我物語』。日本三大仇討話の一つと数えられていたものの、近年では忘れ去られつつある『曽我物語』だが、歌舞伎の隈取メイクさえスタイリッシュに見せるアレンジはお見事だった。

 実は、この年末年始に刀ミュを観ると決めた直接のきっかけは、髭切と膝丸が演じる『曽我物語』を観てみたい、と好奇心がわいたためだ。小説投稿サイト「ノベルアップ+」では『刀剣乱舞』の二次創作が公式に認められており、そのタグを利用して私も書いているのだが、2020年12月半ばに完結させた長編『異聞忠臣蔵 忘れじの義剣』の調べ物中に箱根でいろいろリンクしたんだけど説明が面倒になってきたので省略。以下リンクを参照のこと。

 刀ミュの演目に登場した全員ぶん、あの刀はここが素敵だった、あの人はここが素晴らしかったと細かく書くには、私では素養が足りていないのが残念だ。

 例えば、三日月宗近と小狐丸が歌い舞う「向かう槌音」は能の『小鍛冶』のオマージュかな、と連想はできるものの、知識として『小鍛冶』の内容を知っていても、私は本物を鑑賞したことがない。教養も勉強も足らんなあと思った次第。
(興味のあるかたは、能と刀ミュが両方わかるかたのブログなどを探してみてください。きっとおもしろいです)

 岩融と武蔵坊弁慶がとてもよかったので、白いパーカーがほしくなった。紫と黒を差し色に、フードをかぶって、岩融ごっこをしたいと思う。

[徳川家康とその息子たちの時代]

 天文11年の三河岡崎城が時間遡行軍の襲撃を受け、赤ん坊の竹千代(後の徳川家康)を残して、松平家の家臣団が全滅。これでは歴史が改竄されてしまう。刀剣男士たちが選んだ道は、服部半蔵、鳥居元忠、酒井忠次、本多忠勝ら、家康に側近に扮して竹千代を育てること。

 この時代の2作品は、260年続く徳川幕府が築かれるさまを間近に描きながら、家族の物語でもあった。『三百年の子守唄』では家康と悲劇の長男坊・信康のドラマ、『葵咲本紀』では家康と彼の4人の息子たち、松平信康、結城秀康、永見貞愛、徳川秀忠のドラマが、21世紀を生きる我々の感性にもダイレクトに迫ってくる。

 おもしろい役割を演じたのは、千子村正。徳川に仇なす妖刀として知られる刀だ。刀剣男士としての彼は、登場シーンの歌「脱いで魅せまショウ」が素晴らしくて、ヴィジュアル系ロックバンドのボーカリストみたいで魅力的だった。

 すぐ「脱ぎまショウか?」と言い出す不思議で不気味なやつ、かと思いきや、妖刀である自分の来歴を気にして家康ファミリーの前から逃げまくる村正。何て素直ないい子なんだ。話が後年に進むと、ある理由から家康のことを「嫌いデス」と言い放つ、その感性の真っ当さがまたいい子。生まれ育ちがよすぎて、グレたふりをしてもグレきれないのかな、という印象だった。

 『三百年の子守唄』では、家康の赤ん坊時代から老いて死の床に就くまでの長い時間が描かれる。『葵咲本紀』は、『三百年の子守唄』で描かれなかったところを補う物語だ。

 家康の側近の面々を一応知っているほうが楽しめるかもしれない。また、家康の経歴をひととおり知っていると、「村正自身がその場面に立ち会っている」ことの残酷さに「うわ……」と声が出るシーンがある。私は声出ました。全部わかっていた石切丸も、もちろんつらかったろう。

 『葵咲本紀』には、明石国行と吾兵がそれぞれの言葉で「戦の本質」を語る場面がある。どちらの言葉も力があった。とても印象に残っている。

[新撰組の時代]

 好物は最後まで取っておくタイプです。

 時代小説家デビューのきっかけになった短編「いけず」は沖田総司の話で、2021年1月発売の『帝都の用心棒 血刀数珠丸』は冒頭から藤田五郎翁(=斎藤一)を登場させ、小説投稿サイトではダークファンタジーの新撰組小説を公開している程度には、私も「新撰組の人」なので。

 閑話休題。

 とにかく楽しみにしていた。期待どおりを超えて、本当に期待以上におもしろかった!

 『幕末天狼傳』は、新撰組結成以前から語り起こし、池田屋事件を経て、近藤勇の処刑まで、一般的によくイメージされる「京都の新撰組」が描かれる。沖田総司と近藤勇に焦点が当てられているが、彼らの刀であった刀剣男士たちがかつての主の死に向き合うとき、どんな葛藤を胸に抱くのか。

 新撰組の歴史ドラマとともに、真作の虎徹である蜂須賀虎徹と、贋作でありながら虎徹として日本一有名かもしれない長曽祢虎徹(近藤勇の愛刀)の「兄弟」のドラマがまた熱い。

 近藤勇と沖田総司亡き後、北へ北へと転戦する土方歳三たちを描く『結びの響、始まりの音』。刀の時代がもう終わろうとする頃の戦況では、刀剣男士たちはもちろん、時間遡行軍の奇怪な異能でさえ限界を見ているのだろう。両者があまりにも近付いてしまうシーンの危うさと悲しさは、戦というものの本質でもあるのかもしれない。

 坂本龍馬の佩刀だった陸奥守吉行と、近藤勇の愛刀として知られる長曽祢虎徹。いつしか腹を割るようになった2振を通して、龍馬と新撰組の「もしも」を思い描いてしまう。そうした想像を、歴史を変えることなく安全に楽しむことができるのは、幕末刀の男士たちのドラマを見る醍醐味の一つでもある、気がする。

 刀の時代最後の武士として死地に向かう土方歳三と、後に新政府に重用される榎本武揚。2人が交わす言葉、2人の対比的な在り方が素晴らしかった。どちらも魅力的であり、どちらにも義があって、どちらも悪ではない。嫌なやつのいない物語だ。安易な悪を描くよりずっと苦しいのに、あえてこういう描き方をする。誠実に作られた物語なんだと感じる。

 とにかく、とてもよかった。とてもよかった。大事なことなので2回言いました。とてもよかった。何回でもいいか。

刀ミュ本丸と刀ステ本丸の彼らの比較

 最初に言う。どっちも好きです。どっちも魅力的です。2つの本丸でそれぞれ雰囲気が違うなーと思ったので書いておきます。

 刀ミュ本丸の彼らは、ひたすら優しい。「誰かのために」が行動原理になるエピソードが多い。互いを思い合う今剣と岩融、自分だけで抱え込む三日月宗近、赤ん坊を育てると即決したみほとせチーム、「だから馴れ合いたくない」と言った大倶利伽羅、長曽祢虎徹を殴った蜂須賀虎徹……痛々しいほど、皆優しい。歴史上の人物たちもだ。家族の情や仲間への情がまっすぐに描かれている。

 刀ステのほうでは、剥き出しの意地をぶつけ合う場面、弱さを突き付けられてあがく場面が印象に残っている。酔わずにいられない不動行光、籠の中でもがく宗三左文字、喧嘩する歌仙兼定と大倶利伽羅、小田原で敗北撤退を経験する山姥切国広たち、引くに引けなくなってしまう山姥切長義。『悲伝』の三日月宗近と山姥切国広の戦いは、刀を交えることが対話であるかのようだった。

 カタルシスのあり方が、刀ミュは「相手を思いやることで強くなる」、刀ステは「強くなることで相手を思いやれるようになる」感じかなと、何となく思った。こういうのは、受け取り手である私自身の精神状態にも左右されるので、どこまで的確なのかはわかりかねます。

 書き留めておきたいことはそろそろ尽きたかな。また機会があれば観返したいし、音楽ライヴステージの公演も観たい。

 幕末ものを書きたいなーという望みも得たので、いつか商業出版でそれを叶えられるよう、修業しておこうと思う。

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毎週金曜12:00更新で「刀が語る時代小説」を公開しています。趣味です。


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馳月基矢
フリーランスの物書きです。いまだ修業中の身。レベルアップしながら末永く活動していきたいと考えています。皆さまのご支援とご声援を賜ることができれば幸いです。