「おいしい」って何だろう
好きな食べ物は何かと問われて、答えに困る。どんな料理を食べたいかと訊かれて、何でもいいと返してしまう。そして呆れられる。もしくは怒られる。
「おいしい」って何だろう。
自分に食のこだわりがないことに気付いたのは、割と最近かもしれない。気付いたきっかけは、皆が「まずい」と言うものでも、平気で食べてしまうこと。腐ってないなら別にいいや、くらいの感覚。
味覚がないわけではない。味の違いはきちんとわかるし、自分で料理をするときの味付けもちゃんとしている(つもりだ)。味覚の許容範囲が残念なくらい広いだけだと思う。
残念ではあっても、これでいい。なぜこんなふうなのか、自分では把握できている。
大学在学中を中心とする数年間、摂食障害に陥っていた。そこから回復するための手立て、あるいは自己防衛手段として、食や味覚に対するこだわりを捨てた。だから私は今、普通に食べられる。
こんな私も「おいしい」と言うときがある。人と一緒に食事に行けば、料理を楽しむことができる。笑って食事ができる。
私にとっての「おいしい」は、そこにあるストーリーを包括している。
ストーリーはささいなものでいい。誰かとともに食卓を囲む情景とか、地域ならではの特産品や家庭料理だとか、さっき読んだ小説の中で主人公が舌つづみを打ったメニューだとか。
ささいなストーリーをスパイスにすることで、私はちゃんと「おいしい」と言うことができる。
それは幸せなこと、幸せな時間だ。体を保つための栄養補給だけではない、まともな意味の食事は、どんなメニューであっても「おいしい」。
だから、一緒に食べてくれる人へ。ありがとう。おかげで「おいしい」のです。
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私は過去に2度、「おいしい」をテーマにした小説賞で評価をいただいている。2017年の富士見L文庫の短編小説コンテストと、2019年の小学館日本おいしい小説大賞だ(いずれも氷月あや名義)。
「おいしい」がわからない人間がよくぞ、と思う。一方で、ストーリーがあって初めて「おいしい」と言えるという、この回りくどい性質のおかげだろう、とも思う。
直感的な「おいしい」ではなく、なぜそれが「おいしい」のかの後ろにあるストーリーを描いた。それが私の書き方だった。
富士見L文庫のほうは、新撰組の沖田総司と京都の町娘を描いた時代小説だ。
視点人物である町娘ではなく、町娘を手こずらせる沖田こそ、私自身の鏡像だろう。食べたがらないのだ。昔の自分である。これは「おいしい」のだと理解できるストーリーを得ることで、ようやく食べられるようになる。
沖田が食べない話は公開してあるので、もしよろしければお読みください。約5500字。サクッと読めるサイズです。
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今の気分は
BUMP OF CHICKEN「花の名」
花乃の名前はここから取った。