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文章を書いていると喉が渇く
私の文章の主成分は肉声である。
どういう意味かというと、文字どおりだ。声として出てくる言葉を文章に編んでいる。文章を語りながらワープロソフトに打ち込んでいる、というか。
なので、執筆中は常にぶつぶつ言っている。地の文もセリフも、全部ぶつぶつ言いながら書いている。たぶんそれなりに感情を込めて(表情が変わっている自覚もある)、ぶつぶつ演じている。
次の一文をどうしようか、と止まって、これだ、という書き出しを思い付くときは、けっこう大きな声が出る気がする。カフェやファミレスでの作業中にやらかしたことが何度もある(阿呆)
推敲するときには音読するとよい、というのはよく言われる話。もちろん推敲も校正も声に出して作業している。何度も音読しているので、書いた内容はけっこう覚えている。
いずれにせよ、執筆するときは発声している。ひたすら喉が渇く。最近暑くてますます喉が渇くなあと思った。
なお、自分以外の人が書いた文章を読むときはどうかというと、完全なる黙読である。書いた人の声や作中人物の声が聞こえることもなく、ただ静かに、文字だけの世界でものごとを把握し理解している。
◇
最近、俳優の梅津瑞樹さんのインタビューを読んでいて、共感する部分があった。
>いわゆるアート、自己表現というものと向き合っていくうえで、ひとつの選択肢として現在は演劇を選んでいるような感じですね。僕の中では演劇というものを自己表現の一環として捉えているんです。
(演劇以外の方法で自己表現をする梅津さんも見てみたい。文章とか。相当書けるでしょう、このかた)
俳優であるより先に、大前提として「表現者」である、という自己認識なのだと思う。
私もそういうタイプで、「表現をすること」がそもそも好きだ。文章、小説を書いているのは、それが自分にいちばん馴染む、いちばん好きな方法だから。
(子どものころに読書や書くことに出会った。それがそのまま今に至っている。もし子ども時代に劇団に入っていたら、私はそのまま俳優を目指したと思う)
「表現をすること」が好きなのだと気付いてから、小説を書くのが「演じている」感覚であることの意味がわかった。作中の世界を突き放して書いている、と言われることもあるが、突き放して構築するのはプロットの段階であって、いざ執筆に入ったら、やはり演じている。
文章の次に自分に馴染む表現方法は歌だと思うが、カラオケで歌っていても、歌詞に完全に同調して涙が出ることが割とある。ヒトカラに限る。
ちなみに、日常生活で泣くことはめったになくて、涙腺は全く以て緩くない。小説関連でひどい目にあったときも、泣くより怒り狂った。ひたすらキレた。自分ではない役に入り込んだときだけ、感情の起伏が大きく且つ健全になる気がする。
◇
今の気分は
YUI「LIFE」
こういうタイプの歌に、ものすごく同調してしまう。歌いながら泣く。
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![馳月基矢](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/21183872/profile_bc38ba674c010d07c7af3123eafab9c5.jpg?width=600&crop=1:1,smart)