ファッションと音楽をめぐるぼんやりとした考察
こんにちは,音楽教育学者の長谷川です👓
いきなりなんですが,僕が洋服が好きだ。
「国立大学の教員という職業における一番の魅力はなんですか?」と聞かれたら,迷わず「好きな服を着て勤務できるところです!!!」と答える。
他人から見て「うっわ〜!おしゃれだね〜!」と言われるほどおしゃれではないけど,着たい服が全部洗濯中だった時は仕事に行くのを止めてやろうかと思うくらいには自分なりのこだわりがある。
オックスフォードシャツのガシっとしてながらも滑らかな手触り,腰回りゆったりのアンクル丈テーパードパンツのなんともかわいらしいシルエット,きれいめ黒パンツに白スニーカーを合わせた時の心地よいコントラスト,お気に入りの腕時計をつけている時の左手の鈍い重み。
こういう抽象的な感覚を身体的なフィードバックとともにひとつひとつ丁寧に確かめながら洋服を着るのがたまらなく好きだ。
ちなみにパンツはテーパードがかかっているもの(足首に向けてだんだん細くなっていく形)以外まじで一切履かない。ブーツカットのパンツを履くぐらいならズボンを履かずに大学に行ったほうがましだ。
昔はフォーマル寄りの服装が好きで,細めのジャケットとスキニーばっか合わせてた気がするけど,最近はゆったりした服が好きになってきた。一丁前にトレンドを意識しているのかもしれない。
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ファッションについて雑誌とかをみて勉強するタイプではないが,最近はMB(ファッションバイヤー,YouTuber,会社経営とかいろいろやっている)という人が好きすぎて,よく彼のYouTubeを見ている。
MB氏のチャンネルは「メンズファッションをロジカルに語る」という内容で,「フォーマルとカジュアルの要素を7:3ぐらいで合わせるとおしゃれに見えやすい」とか「洋服の三要素はデザイン・シルエット・素材(色)」とか,面白い言説がたくさん出てきて,洋服好きとしては見ててすごく楽しい。あと,苦労人でしかも起業家だから人生相談とかにのる動画もあるんだけど,回答がめちゃくちゃ丁寧でとにかくいい人すぎて泣ける。ほんと好き。絶対いい人。
で,MB氏の動画を見ていると,ふと考えさせられる言葉がいくつかできたんですよね。MB氏のファッション理論の中ではごく一般的な内容で引用元の動画を明示する意味もあまりないと思うので(毎日投稿されているので動画数はかなり多く,いろんなところでこの話をしている),簡略化してまとめてしまうと下記のようなものだったと思う。
これを聞いたときに,僕は西洋哲学の重要なトピックでもある「主観と客観」というテーマを想起しないわけにはいかなかった。
僕は毎朝「自分が着たいと思っている洋服」を選んで着ていると思い込んでいる。
でも,「自分が着たいと思っている洋服」を選んでいるつもりでも,選択する際の価値判断基準に「他人にどう見えるのか」という項目が含まれている可能性は結構ある。
また,「このシャツ最高に可愛いけど人と被りそうだな〜…買うの止めよ」ってなることもあると思うが,その洋服自体は気にいっているのに「周りとの差別化ができない」という理由で購入を諦めるのは他者の存在を意識した価値判断である。
つまり,洋服に関する「自分なりの好き」には,「他者目線」が侵食している可能性があるというわけだ。
これをより一般化すると,僕が主観だと思っている意識は僕だけが作っているのではなく,他人という客観や環境とともに作り上げられている,という話になる。主観と客観は世間が思うほど安易な二項対立ではないということだ。まぁ哲学やっている人からしたら常識的な話なんだろうけど,このことが感覚的に腑に落ちたのは,僕にとってはファッションというテーマだった。
ちなみに,クラシック音楽を演奏する場合,多くの場合ファッションと同様に他者目線を少なからず意識することになる。「オリジナリティ溢れる表現」を作っているようで,実は「他者からの評価の目」によって表現の方向性が規定されてしまうのである(超一流プレイヤーの演奏は主観と客観の境界線がまさに融解しているように見えるがそれはさておき)。
その理由は簡単で,このジャンルの中で歴史的文化的に築き上げられてきた「クラシック音楽としての美しさ(=オーセンティシティ)」が表現のあり方を強烈に規定しているからだ。音大のレッスンでモーツアルトをロマン派風に弾いたら先生に怒られるのは,「そのような演奏が絶対的に美しくないから」ではない。クラシック音楽界には「モーツアルトの演奏はこうあるべきだ」というオーセンティシティが存在しており,それを踏襲することが伝統芸能の継承者たるクラシック演奏家の役目だからである。
演奏家が「モーツアルトをロマン派風に弾きたい」と思い,それを聴いた一般聴衆が「素敵!」と思ったとしても,オーセンティシティを大切にする人々(クラシック音楽を正当に後世に継承したいと思う人々)はそのようなモーツアルト演奏のあり方を許さないのである。
洋服も,文字通り「西洋の服飾文化」なので,西洋人的な美の基準にそって作られる。つまり,頭が小さくて手足が長いのが良いスタイルであり,それを引き立たせるのが洋服ファッションのオーセンティシティだということだ。また袖についているボタンやポケットの位置にまで歴史的文化的な背景があり,これを踏襲していないデザインはチープに見える(らしい,MB氏いわく。ここ掘り下げて聞いてみたい)。これも洋服のオーセンティシティだろう。
当然ながら,和服文化における美のオーセンティシティは,洋服のそれとは異なる。平安時代に美しいとされた女性の顔と現代日本における「カワイイ」が全然違うのは,美の価値観は文化的で相対的なものである,という当たり前の事実を示しているが,その相対的に過ぎない価値観が絶対的なものとして我々の主観に侵食し,知らない間に価値判断に制約がかかっていることが多々ある。
近年整形をする人が増えたのは,SNSによって日本人女性の美意識が「画一化されたカワイイという美」の価値観に侵食されつつあるからだろう。
ちなみに僕は整形肯定派である。自己実現を目的に大金を払って痛い思いをするというとんでもない努力をした人に対して,外野のくせに「親からもらった体を大切にしろ!」とか訳のわからないことを言ってる人を見ると,僕は心底呆れてしまう。
彼らは,骨格に対して明らかに不自然な大きさの筋肉をまとったボディービルダーや,他人と殴り合いをするためにリングに上がるボクサーにも,「親からもらった体を大切にしないなんてけしからん!」と言うのだろうか?「整形した人」と「ボディービルダーやボクサー」両者の努力や身体的負担にどのような違いがあるのか簡潔に説明した上で,自分の主張の妥当性について深々と省察させる会を開催したいくらいだ。
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話を戻そう。
特定のジャンルの音楽(あるいは美の領域)にはオーセンティシティや他者からの評価の目が存在する。
ではフリーの即興演奏はどうだろう?
僕はフリーの即興演奏って「他者評価」から逃れることのできる数少ない表現行為だと思うんですよね。なぜなら,「フリーの即興演奏」というジャンルがあるわけではないので,そこには想定される美,すなわちオーセンティシティがない。「こうあるべき」が存在しないのである。
少なくとも僕が即興演奏をするとき,「お客さんのためにいい演奏しよう」とか一切考えてない。「うまい即興演奏家だと思われたい」とも思っていない。いや,正確には「うまいと思われたい,とか考えてるうちは本当の即興じゃない」と考ている(これは本来クラシックの演奏でも到達すべき境地だと思うが,難しい。オーセンティシティの存在を意識してしまうからね)。即座の直感で,非言語的な判断でやるのがフリーの即興演奏という営為だと僕は思う。
そして,学校教育が「西洋音楽の伝統的な継承者」の育成を目指していないのであれば,子ども達にはフリーの即興演奏こそを提供すべきなのでは?などと思いながら研究しているわけです。
で,さらに突き詰めて考えると,僕の「アンクル丈テーパードのパンツがたまらなく好き」っていうこの感覚も,どちらかというと即興演奏的な,即座の直感で非言語的な価値判断の帰結なんじゃないかなと。
僕のテーパード好きは「人にどう見られるか」とか「人と被るかもな〜」とかいう次元をちょっと超えている。異常な執着といってもいいくらいだ。この冬から寝巻きのパンツでさえもアンクル丈テーパードにした。冬なので足首はちょっと寒いんだけど,それでもアンクル丈テーパードじゃないと嫌なのである。
MB氏曰く,アンクル丈テーパードは胴長短足の日本人の体型をカバーする効果があるらしいのだが,僕は別にそれを知っててロジカルに意識してきたわけではない。つまり,僕はアンクル丈テーパードパンツの体型補正という「機能」や,開発されるに至った歴史的な「コンテクスト」について興味があるわけではない。純粋に,アンクル丈テーパードパンツ「そのもの」がなんか好きなのである。
履いている自分が好きだし,足首がスースーするあの感じも嫌いじゃないし,なんならハンガーに吊るされているのを見るのさえも好きだ。「かわいい〜」ってなる。テーパードパンツを履いている人とブーツカットを履いている人どちらかにご飯をおごるとしたら,「テーパードパンツを履いているから」という理由を言語化する前の段階で直感的に前者を選ぶ。そういうタイプの「好き」だ。
即興演奏は「テーパードパンツに対する異常な執着」よりももっと柔軟だけど,「理由は言語化できないしするつもりもないんだけどとにかく好きだから大切にしている」っていう感じは共通している。そして,こういう感覚を大切にしたり振り返ったりすることが,僕なりの「丁寧な暮らし」のような気がする。なんの話だこれ笑
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僕は西洋的なおしゃれの伝道師になりたいわけでもないし,西洋音楽を正当に継承したいわけでもない。
そんな僕にとって一番重要なのは,主観と客観の対立を超えて無垢な気持ちで対象に触れた時に生じる「なんか好き」という非言語的な感覚なのかな,などと学者らしくない考察をしてみたのでした。
今回はエッセイ風でした。最後まで読んでくださってありがとうございました!