【小説】ステルス・ミッション 07
06
去年の秋。私たちは1年生だった。
新人戦の地区大会で、私は100メートル、200メートル共に優勝した。特に100メートル走ではギリギリ12秒台が出て、この地区の記録としては久しぶりに大幅に更新されたらしく、新聞の地域版にも写真入りで大きく取り上げられたりした。その時、役に立つ助言をくれたのは確かに新しく男子キャプテンになったばかりの2年生の松橋先輩だった。学校の仕事でロクに指導に来ない顧問の先生に代わって、私たち女子にもスタートの切り方や腕を振り方なんかを丁寧に教えてくれた。練習メニューも組んでくれたし連絡事項もマメに伝達する、頼りになる先輩だった。女子にも人気だった。そのことについては、私は今でも心から本当に感謝している。
ただ、だからと言って、それだけで好きになったりはしない。大会後にバスで市営グラウンドに戻ってミーティングを終えて解散した後、駐車場までの間にある屋根付きの東屋になぜか私だけ一人呼ばれて、おめでとうと言われ、ゲットした2つのメダルを触らせてくれと頼まれ、そこまでは先輩のおかげもあったし全然かまわなかったけれど、その後急に抱きつかれたのでビックリしてしまった。身体が硬直した。怖かった。そのタイミングで、好きだからつき合ってくれと言われても。今振り返っても、私は「そういう感じ」は全く出していなかったと思う。そういうつもりは全くなかった。
松橋先輩は、陸上部のキャプテンを務めているくらいだから足は速かったし、指導者としても優秀な人だったと思う。そして、イケメンだと言われていた。イケメンだと言われることを意識していた。そう言われることを喜んでいたし、だからそういうキャラに寄せようとしていた。だって、そういう話題になったわけでもないのに、突然、自分からよく主張してたから。
「俺、イケメンだって言われるんだよね」って。「接点ない女子からもよく告白されるんだよね」とか。冗談っぽくとかじゃなく、真顔で。あるいは、狙ったような照れ笑いで。狙ってる照れは照れじゃないし、そうなると言っていることも結局は自慢話に過ぎなくなってしまう。
きっと私は、そういう部分が苦手だったのだろう。「自分が気に入っている他人の評価」に合わせてさらに自己像を強化し、その評価をもっと多くの人たちに押しつけようとしたり、私のこともその「たくさんのファン」の一人に組み込もうとしたりする、インスタ写真さながらの、巧妙かつ強引な人物像の「加工」が。もっとも、当時はそんな感情をうまく言葉にはできなかったけれど……。
私は先輩を拒んだ。
反射的に、心も体もボクサーみたいにガードのスタイルを保ったまま、ひたすら「ごめんなさい」を繰り返した。何度伝えても、先輩は私の拒否を受け入れられないようだった。自分の台本通りに事が進まないことに心底驚いていた。え? どうして? と繰り返し訊き返す。私もうまく答えられない。やがて先輩はあきらめてハグを外すと、ガス欠の百円ライターみたいな鋭い舌打ちを一回して、「こんだけ教えてやったのになあ!」という捨て台詞を残して去っていった。そして翌日から、2年生の先輩女子部員全員が私を無視し始めたのだった。
それでも私は部活を辞めなかったし、休まなかった。同級生から少しずつ集めた情報によれば、松橋先輩が私に関して、相当「悪意のある噂」を流したせいらしい。あの煤けた舌打ちを聴いた時から、予想できた展開だった。私は改めて一連の出来事をたどり直し、考え抜いて、やはり自分の対応は間違っていないと思った。先輩の気持ちに気づかなかったことは申し訳ないと思う。めやぐだ、としか言えない。でも、だからと言って、無理強いされた恋愛をすることはできない。そこは私に選ぶ権利があるはずだ。好きになれなかったことについてまで反省する必要はない。そう思った。
やむを得ず、私は信頼できる1年生とのみ、練習を続けた。すると徐々に1年生たちも私との練習を拒否しだした。2年生の先輩方から圧力がかかったからだった。
私は一人で自主練をするようになった。顧問の先生に相談はしなかったし、たまに見物に来た時は何事もなかったように練習に加わり、それが「普段通り」である風を装った。先輩たちもその時ばかりは嘘みたいに普通に声をかけてきた。はんかくせえを通り越して、笑いをこらえるのに必死なくらいだった。
*はんかくせえ(はんかくさい):バカみたい。アホらしい。