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短編小説「最後のセーブデータ」
田中智也は、毎日同じ時間に帰宅し、同じ道を歩き、同じコンビニでビールを買い、同じマンションの部屋に戻る。それはまるでプログラムされたルーティンのようだった。
ある日、玄関の前にそれはあった。古びたゲームボーイ。白かったであろうボディは薄い黄色に変色し、ボタンの表面は幾度となく触られた跡で艶めいている。智也は足を止め、それを拾い上げた。誰かの忘れ物だろうか? 記憶の底から幼い頃の感触が蘇る。小さな画面を見つめながら、家族の気配が遠くにあったあの頃の感覚。
部屋に入ると、智也はゲームボーイをテーブルの上に置いた。電源を入れてみたが、画面は薄く光るだけで何も表示されない。電池が切れているのか、壊れているのか。それ以上試すこともなく、彼はいつも通り冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに座りリモコンでテレビをつけた。そしていつも通り、ソファで夢の中へ……。
夜中、微かな音で目を覚ました。
“ピッ、ピッ。”
最初は外からの音だと思った。しかし耳を澄ますと、それは部屋の中から聞こえる。智也はソファから身体を起こし、音の出どころを探った。そしてそれが、テーブルの上のゲームボーイから発せられていることに気づいた
画面は暗いままだった。それでも、確かに音はそこから聞こえる。智也は手に取ってボタンを押してみた。反応はない。
その瞬間、胸の奥底に懐かしい感覚が広がる。あの頃、兄弟で遊んだ記憶が蘇る。どちらがより早くステージをクリアするかを競った夜。父が帰ってくる音を恐れながら、毛布の中で隠れてゲームを続けた朝。ゲームの中で作り上げたデータは、子供心にとって一つの世界だった。セーブデータが消える恐怖は、その世界が消え去ることを意味した。
翌日からも、夜になるとゲームボーイは音を鳴らし続けた。“ピッ、ピッ。”リズムは一定ではなく、まるで誰かがボタンを操作しているようだった。
智也は次第にそれを待つようになる。画面に何かが映るのではないか、音が何かを伝えようとしているのではないか。その期待感は、単調な日常に微かな変化を与えた。
そしてある夜、ついに画面に文字が浮かび上がった。
“最後のセーブデータを消しますか?”
智也は思わず息を呑んだ。
画面には二つの選択肢が表示されている。
“YES / NO”
彼はしばらく指を止めたまま考えた。このセーブデータが何を意味しているのかはわからない。それが自分の人生にどう影響を与えるのかも。ただ、このゲームボーイが現れてから、自分の中で何かが揺れていることだけは確かだった。
智也は深呼吸をし、親指をゆっくりと動かした。そして——“YES”を選んだ。瞬間、画面が真っ暗になり、音も消えた。部屋は静寂に包まれた。
翌朝、智也はいつもと同じ時間に目を覚ました。だが、何かが違う。空気が軽く感じられる。通勤電車の中で、彼は窓の外を眺めながら思った。“何が消えたのだろう?”
職場に着くと、智也はこれまで言えなかった意見を上司に伝えた。新しいプロジェクトにも自ら手を挙げた。周囲は驚きの目を向けたが、彼はただ微笑んだ。
その日の帰り道、部屋に戻った智也はゲームボーイを探した。だが、それはどこにもなかった。まるで最初から存在しなかったかのように。
智也は窓を開けて夜風を感じた。静寂の中で、違和感を感じ、ふと視線を下に向けるとベランダに古びたゲームギアが置いてあった……。
智也は思った。
「俺の家、HARD‐OFFだと思われているのかもしれない……」