#17 自己責任って…あれ?
今までずっと自分がうまく社会で生きていけないのは全部自分のせいだと思っていた。正確に言うと思い込まされていたのかもしれない。
上手く、賢く、スマートに、手際よくできないのは全部自分の実力不足だと思っていた。周りの人が原因だとしても結局は自分が選んでるし、自分の力があればそれすらも包み込んで成功の形にさせる。
実力があれば、挑戦をどんどんして、経験を積み、失敗しても力に変えてどんどん突き進んでいく。また逆も然り。
どんどん挑戦できる奴はどんどん失敗してどんどん強くなって行く。
資本主義は基本、競争して勝った奴が生き残る。環境に適応できない奴は淘汰されていく。
そんな風に考えていた。実際にこの考え方は結構当たってると思う。周りの人を見渡しても素直に失敗を受け入れることが出来る人は失敗から学んで、自分に還元していく。
だけど、俺は失敗したくなくて、分からないことが恥ずかしくてカッコつけたくてたまらない気持ちになることが多い。そしてそういった、斜に構えてハスってるやつが周りにいるとイライラしてくる。自分のそういうところが好きではないから余計に目につく。だからこんな性格だから成長スピードは遅いだろう。
「たくさん焦り〜少し稼ぎ〜俺らはゆっくり育つ盆栽〜」
「俺らは大器晩成、時が来たらカマせ〜」
と言った成長が遅いことを肯定してくれる歌詞に慰められなんとか生きている。
…いや違うな。ゆっくり育つ盆栽も大器晩成も失敗を積み重ねて行くからこそブレイクスルーするのだ。
だから嫌でもやって行くしかない。責任を背負うのは全部自分自身なんだから…
と、ついこないだまで自己責任論を自分の十字架にし、悲劇のヒロインを演じてきた。手負いのヒーローはカッコいいから。俺は社会で生きづらい人間なんだ。だからしょうがないんだって思い込んでた。
だけど、最近ふと思った。
ほんとに自分だけのせいなのか。実力不足が全部自分が悪いのか。全部自己責任なのか。自己責任と片付けて考えることをやめてないか。自己責任と片付けられるのが1番嫌いなのはずなのに自分がそうしてないか。
気になったので、少し調べてみた。
どうやら自己責任論が強くなったのは、色々な世間と経済の流れがあったが、2004年の小池都知事の発言によるものらしい。(たった一人の発言でそこまで大きく変わるとは思えないけど、そうだとしたらすごい。)
戦時中のイラクにボランティアをしていた日本人女性が武装勢力に拉致され、犯行グループが自衛隊の撤退を求めたが、日本政府は要求を拒否し、結局地元の宗教指導者の仲介で人質を解放した。これに対して、「無謀ではないか。一般的に危ないと言われている所にあえて行くのは、自分自身の責任の部分が多い」的な発言をしたらしい。
さらに小泉政権がアメリカの競争社会を日本に取り入れたらしい。(詳しくはわからないけど)
そうすることで、この時代、2000年代前半に義務教育を受けた世代は「人に迷惑をかけてはいけない」「周りの厄介者になってはいけない」と言った教育を受けた。気がする。いや振り返ってみても周りの人に迷惑をかけるなって何回言われたことか。厄介者としてどれだけ白い目で見られたことか。「勝ち組」「負け組」と言われるようになったのもこの時期みたいだ。そういえば、小学生の頃の自分が「俺、働けるならどんな仕事でもいいや」というセリフを良く覚えてる。時代背景なんて考えたことなかったけど、めちゃくちゃ影響を受けてたと思う、俺も、親も、先生も。
努力すれば、なんとかなる。
気合いでなんとかする。
人に迷惑をかけるくらいなら自分が我慢する。
助けを求めることは恥ずかしい。
困ってる人はその人の努力不足。
いつからだろう、こんなストロングスタイルな考え方になったのは。
いつからだろう、周りの人に迷惑がられないように気をつけるようになったのは。
いつからだろう、無理矢理折り合いをつけるようなったのは。
いつのまにか、全部自分が背負い込んでた。
異質な環境で、閉鎖空間にいる当人はやっぱりどうしても気付かないことが大いにある。
自己責任の部分は大きくある。でも、全てじゃない。
全てを自己責任にするには余りに辛すぎる。
だからと言って全部人のせいにするつもりもない。
知らないことはしょうがない。
できないことはたくさんあって当たり前。
でもそれがその人の全てを否定することとは違う。
できないこと、苦手なことをどう誠実に素直に受け入れるかだ。何度も言う、それだけが俺の価値じゃない。
でも思っちゃうんだよなー結局自分次第って。
そうか、自分次第だけど、全部自分のせいじゃないのか。
わかった。
「カマすとこカマす、任すとこ任す」
割とテキトーな段取りでいいのか。
俺らは変わり続けて行く多面体。
その物差しじゃ測れない、測らせる気もないぜ。