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【劇評348】篠井英介の富姫が『天守物語』をふたたび現代に召喚する。


初演からの歴史

 意欲的な快作を観た。

 篠井英介の富姫による鏡花の『天守物語』(構成・演出桂佑輔)である。今回は、『超攻撃型〝新派劇〟天守物語』と題している。あえて、〝新派劇〟と名乗ったのには、理由がある。この芝居は、長く舞台にのらず、読む戯曲(レーゼドラマ)と思われてきた。昭和二十六年になって、ようやく新派によって初演されたからだ。このとき、鏡花はこの世から去っていて、初演の舞台を観ていない。

 上演年表を辿ると、富姫を演じたのは、初演の花柳章太郎に続いて、六代目歌右衛門、二代目扇雀、文学座の杉村春子、そして昭和五十二年以降は、玉三郎の当り役となった感がある。

 例外的に、平成九年国立劇場で二代目八重子が上演しているが、玉三郎の舞台が焼きついているために、新派の女優が演じること自体が新鮮に見えた。富姫は、女方によって演じることに観客は慣れてきたのである。

 それは、鏡花の『天守物語』自体が、姫路城の天守閣を住み家とするあやかしの姫という設定はもとより、凝りに凝った狂言綺語によって成り立っているからだ。戯曲の幻想性が、女方の成り立ちにふさわしいと思われた。

歌舞伎と現代劇の女方


 今回は、これまでも継続的に富姫を演じてきた篠井英介が、歌舞伎の女方ではなく、現代劇の女方が演じることの可能性を追求した舞台となった。全体に感じるのは、篠井が持つ台詞の巧みさ、ダイナミックレンジの広さである。富姫はかぼそい姫ではないから、低音を使うことに抵抗はない。
 高音から低音までを幅広く駆使して、しかも、低音を響かせることによって、姫の世界観を現していた。なにかといえば切腹へ逃げようとする武士のありかた、主従が盲目的な上下関係にあることへの嫌悪が、低音の厚みによって強く伝わってきた。

 また、一方、超自然的な存在でありながら、美貌の図書之助(安里勇哉)へと傾いていき、恋愛へと溺れていくさまが、言葉のみならず、身体表現によって具現化されている。
 篠井の富姫のおもしろさは、身体によって物語る力にあるが、それは歌舞伎の女方の様式性ともまた異なっている。端正さを保ちつつも、現実の人間の感触が伝わってくるところに、篠井の藝の成熟がある。その達成があってこそ、準古典としての『天守物語』から一歩、二歩踏み出したのだと思う。

 文学座の杉村春子は、ちょっとした入れ事、ふつっとした小さな笑いやハンカチの使い方に人間の感触をこめる名人であった。私がとれまで観てきた富姫のなかで、篠井が意識しているのは、実は杉村ではないかと思う。

 演出の独自性


演出の桂佑輔は、現代演劇のイディオムを、鏡花の舞台に盛り込もうとする。私がおもしろく思ったのは、安里の図書之助がはじめに登場する場面で、あえて観客席に後ろを向けてその相貌を見せないところにある。最初の登場では、あくまで「すずしい言葉」の響きを聞かせる意図だろう。


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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。