なにかを間違えている
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このコック、よく唐辛子の量を間違える。
先日も間違えて、厨房どころか、外にまで催涙煙が立ち込めて毒ガス騒動が起こった。人気メニューなのに、なぜたびたび事件を起こすのかわからない。
いちど店長に聞いてみたが「ニガテだからワカラナイ」としか返ってこなかった。作るのが苦手なのか食べるのが苦手なのかわからない。
それでも、このマーボードーフが好きなのだ。花椒の香り、コクのあるタレ、たっぷり入ったひき肉、それがよくご飯に馴染む。
唐辛子の量はまちまちだ。ちょうどいいゾーンに入った時もあれば足りない時もある。そのギャンブル性が、また自分の足を運ばせる。
そして残念ながら今日は、厨房から怪しい煙が立ち込めている。
厨房にはそのコック以外は避難している。目がしみる。何度も咳の音が聞こえる。鍋を振るのと同じ間隔で。
数分後、マスクをしたコックが、赤い皿を運んでくる。湯気が立ち上っている。マスクを外すと、その湯気が粘膜を刺激する。覚悟していても、条件反射で激しく咳き込む。周囲の客が慌てて逃げていく。
息を止めて、赤い海から白い豆腐を掬う。
なるべく空気を含むように唇をすぼめて、豆腐を口に含む。一瞬の空白が生まれ、堰を切り、刺激と痛みと焦燥と感情と怒りとが一気に雪崩れ込む。
遠い。旨みまでひどく遠い。草を掻き分けていくと、遥か向こうに見える気がするが、そこにたどり着く前に味覚はズタズタにされている。それでも歩き続ける。汗が止まらない。咳も止まらない。
「ゴハン、オカワリする?」
「…おっ、おおもりでへ」
赤い豆腐を飯粒にまぶして、飲むようにして平らげていく。
熱い。よりによって炊き立てのご飯をよそってきた。
「ヨクたべるね」
気がつくと店内にもう客も店員もいない。休憩時間だ。コックは「休憩に入れない」と怒っているような顔をしている。
痛みは口内を超え、喉元にやってきた。鼻にもきた。脳にもきた。もう、そのあとの商談のことを忘れて、スプーンで地獄を汲んでは、胃に流し込む。
あまりの鼻水で呼吸が詰まり、口呼吸で溺れているような喘ぎ。舌を冷たい空気が通ると痛みが増す。鼻をかむ。血か唐辛子かが混ざって、ほんのりとオレンジ色だ。
気がつくと、皿の麻婆豆腐が増えている。
「あまったからあげるよ」
コックは無表情にこちらを眺めていた。
(この話はフィクションです)
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異化お題:「辛いものを食べた」
「辛い」という直接的な表現をせず、読むひとの理解をわざと遅らせる、牧乃さん主宰の『イカ(異化)』企画です。その過程でどんな表現が生まれるか、その種類や濃さを楽しみます。