猫とコーラ
猛烈に悲しくて虚しくて申し訳なくて気持ち悪い感じがする好きすぎて?どうしたらいいのかいっつも分からない、猫とコーラ🐈
私の中で、猫とコーラ、という言葉はどうしようもなく猛烈に後悔していることへの代名詞です。後悔とはまた毛色が違うかもしれませんが。大好きな事ですね、猫とコーラは。昔の自分メモですね、下記引用は。
螺旋階段の屋上、みんなに優しいは優しいじゃない、トマト、とまとかぶりつき、家の近くの池で私はカッパを見たこと、カッパ注意って書かれた看板あったこと、お母さんの寝顔を見て、お母さんの帰りだけを待つ生活を私は嫌いじゃなかったこと、私を見てるようで、みてなかったこと、私を通じて自分を見てたこと、無い物ねだりなこと、何回もおんなじところを咀嚼して私は私になったこと、みんなに優しいは優しいじゃなくて無関心なこと、
2回目の投稿です。noteに初投稿したのが5.1なのですが、その辺りは全く眠れず、累計で40時間ほど眠れない時間が続きました。いつも睡眠のとりすぎで後悔する日が続きますが、眠れない、というのもなんだか辛いですね。最初は眠りたくなくて、むしろ得した気分になっていたのですが、、、、
何事にも対極の事象があって、360度どの方向から眺めても、それらは全て愛しいものなんですね。昔の自分なら、自分と対極することは悪、自分が善だと思っていました。自分という存在が、法律だと勘違いしていた時期ですね。
今思えば、そんな歪曲している自分も、あったかい目線で眺めることができます。大人になることを極端に嫌っていましたが、そういった意味では、月日を重ねることって、悪い事ばかりではないんですね。
昔からそれなりに読書が大好きで、今回はこの言葉を引用します。(一部抜粋)
いやになるぐらい長く生きる。鳥子も、鳥子と別れたとして、そのあとにつきあうことになるだろう女たちも、みーんな年取って死んじゃってもまだ、俺は生きてるんだ、だれかを好きだった記憶もなくなるぐらい生きて、俺が死んでも気づくやつが一人もいないほどになったら、そのときやっと、俺は本当に自由になれるんじゃないかと思うんだ
三浦しをん/むかしのはなし
この、文章を読んだ時、確か18歳ぐらいだったんですが、もう五年前ですね、ここを何回も何回も繰り返し読んで泣いたことを覚えています。
私のためにこの文章は書かれたわけではないし、そんなわけはないのに、自分のために書かれた一文のような気がしました。安直ですが、やはりすごいですよね、小説家さんというのは。この一文も作品も私の記憶の一部を作っています。
世間はゴールデンウィークですね、全く暦の感覚がなくなってきましたが、この世界的状況環境、これらも私たちの記憶の一部となることを信じて。
今日はこの辺で、では、また。
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