鈴木治行・室内楽パノラマ 〜誤作動する記憶〜 2020年12月16日(水)、19:00開演 東京オペラシティリサイタルホール
意味不明なタイトルだなと思いましたか?そうですよね、特に副題とか。でもこれは目を引くために適当にキャッチーなタイトルをつけたわけではなく、割と僕の音楽の本質に関わる副題なのです。というわけで、何これどんなコンサートだろうと首を傾げるあなたの判断の一助に、プログラムの曲目解説を事前公開します。最終的には聴かないとわからないのは言うまでもないけれど。少しでも気になった方は、16日に東京オペラシティへGO! あるいは配信をどうぞ。インフォメーションは一番下にあります。
●Is This C’s Song?(2006) * 編曲作品 ヴァイオリン、チェロ、ピアノ
この作品は2006年、京都の元・立誠小学校で開かれた「チャップリン映画音楽コンサート」において初演された。原曲がチャップリンが自らの映画『伯爵夫人』のために作曲した楽曲『This Is My Song』であることがわかれば、「C」とは誰かはもう説明不要であろう。もともとはチャップリン音楽の編曲という話だったのだが、普通の編曲の範疇をだいぶ超えて自分自身の音楽になってしまった気がする。90年代頭に始まった「句読点」シリーズでは自然な流れの脱臼が意図されているが、脱臼が最大限に効果を発揮するためには、前提として持続的な流れが作られている必要がある。まず持続が強固にあるからこそ切断が活きてくる。その意味においては、既成の楽曲はそれ自体の流れを持っているのでこの意図の実現には向いているのである。こうした理由によって、既成楽曲を素材とする切断、脱臼の試みはこれまでときどき実践してきた。なお、この曲で用いられている切断の手管は調性の半音ずらしとテンポの唐突な変化だが、半音違いの調性というのは共通音が少ないので異世界に飛ぶ感触が強い上に、より半端な場所で切断されていることが余計脱臼感を強めている。調性的な素材を扱う時、このような半端な箇所での半音ずらしは90年代以来しばしば用いている手法である。
●浸透ー浮遊(1998)フルート、ギター、ピアノ、コントラバス、語り、環境音
90年代後半にある委嘱を受けたのだが、条件が「言葉がテーマであること」だった。10代の頃伝統的に歌詞のイメージに寄り添う音をつけた歌はいろいろ作っていたものの、それ以後言葉の問題は自分の中では長らくペンディングになっていたのが、この委嘱によってそれに改めて向き合わなければならなくなったのである。しかし伝統的に歌詞のイメージに音楽を寄り添わせる方向はやりたくなく、初めはどうしようと思ったが、窮地に追い込まれると何かしら搾りカスは出てくるもので、こうして生まれたのがこの『浸透ー浮遊』であった。同時にこの作品が「語りもの」シリーズ始まりのきっかけとなった。これは思うに、自分の中にそれまでに少しずつ溜まってきた映画の影響が熟し、時を得て表面に浮上したものだろう。特に、1990年前後に六本木シネ・ヴィヴァンで発見したマルグリット・デュラスの映画からの影響は色濃い。映画からの影響という点についていえば、それは実は「反復もの」も同じなのだが、「反復もの」の場合は編集という点に影響の比重がかかっている(実際、「反復もの」を作曲している時、フィルムを編集しているかのような錯覚に襲われることがある)。この『浸透ー浮遊』は、結果的に映画音楽というものへの一種の批評ともいえる。通常は映画の音楽はイメージ(映像)の背後にあってそのイメージに寄り添い、つまりイメージが前面、音楽が背景という位置にあるが、その固定された関係を言葉によって転倒させ、あるいはどちらが前面とも背景ともつかない曖昧な状態を作り出すこと。環境音は物語的なものを始動させるための舞台装置であり、その中で言葉が逸話的イメージを喚起し、あるいは音楽とイメージの関係性に揺さぶりをかける。なお、今回語りは作曲者自身が担当する。
●Elastic(2015) フルート、ヴァイオリン、アコーディオン
2015年、大阪のホリエアルテでの「Company Bene 大阪コレクション」にて初演され、今回が東京初演となる。この路線はまたこれまでの自分がやってきたこととはだいぶ方向が違っていて、何年間かは特に名前はついてなかったのだが、最近は「伸縮もの」と呼んでいる。このアイデアを最初に試みたのは2009年のピアノ曲『Scabrous』の2曲目で、この『Elastic』は3作目くらいだったと思う。しかし実は、最初のルーツは今回一つ前に演奏された『浸透ー浮遊』に既に出ていたことに後になって気がついた。「伸縮もの」はある意味これまでのどの路線よりも限定的で、システマティックでもある。どんな音楽でも、その音楽に合ったピントの合わせ方を取得しなければ面白さはわからないが、世の多くの音楽は、それが新曲であっても既にある聴取のどれかのパターンに当て嵌めれば聴くことができる。そうしたピントの合わせ方を更新したいというのが僕のおそらく生来の傾向としてあって、自分が惹かれる音楽と惹かれない音楽の違いはどこにあるのだろうと考えた時に、結局自分が惹かれる音楽というのはみな、何らかの形でそこに挑もうとしている音楽であるようだ。「伸縮もの」に話を戻すと、これは、一つの響きをひたすら聴き続けることで、その響きが次第に分解されてゆき、最初の響きが別々の響きの混合からなっていたということに、どこで気づくか、という音楽なのである。または、逆コースでバラバラの響きが一つになってゆく変化を見つめる。そこに正解はなく、どこで気づくかは人によって違うだろうし、それでいい。そこに耳の焦点を向けさせるために、多くの要素が削ぎ落とされている。これまでの僕の他の路線とは共通点はないようでいながら、こうした人間の知覚への関心という点ではやはりつながっているのかもしれない。
●Orbital(2005/2020改訂) クラリネット、チェロ、ピアノ
この作品は2005年に来日公演を行ったドイツのe-mexトリオによって初演され、むこうでも何度か演奏され、その後CD「比率」に収録された。ただその後、曲の中のある一部が次第に気になってきたので、今回の再演を機にそこだけ修正した。よってこれが改訂初演となる。とはいっても、変わったのは最後のページの一部だけである。この作品を聞くと、前にも出てきたパターンが繰り返し回帰してくることに気づくだろうが、この反復は、いわゆるミニマル・ミュージック的な反復とは性格をだいぶ異にするはずだ。僕は確かに初期のアメリカン・ミニマリズムには大きな影響を受けているが、人を陶酔へと誘う反復には批判的で、自分の音楽は陶酔ではなく覚醒へと向かうものでありたい。しかしそれは無味乾燥とか理知的という意味ではない。覚醒の先に初めて至る陶酔というものがあり得ることを、ゴダールやストローブは示したはずではないか。「反復もの」における僕の関心は時間構造にあり、そして時間構造を形作る重要な要素が記憶である。記憶は前に現れたものが再び現れた時に呼び起こされ、時間軸上に穿たれた2つの点と点は記憶の糸で結ばれる。いわばその糸を縦横に張り巡らせ、記憶の織物を作るのがここでの作曲ということになる。
●沈殿ー漂着(2003) フルート、ギター、語り、電子音
この作品は「語りもの」の4作目であり、2003年のTempusu Novum第14回演奏会で初演された。ちなみに「語りもの」はその後2007年に全作品演奏会が開かれ、翌年HeadzからCDリリースされ、その後もう一作が作られた(こちらもCDになっている)が、これで打ち止めではなくこれからも続く。さて、「語りもの」は最初の『浸透ー浮遊』以後一作ごとに少しずつ方向性が変わってきたが、この『沈殿ー漂着』では、前作で未知の可能性に気がついた「自己言及性」を全面的に前に押し出した。『浸透ー浮遊』の項で書いたような、イメージを背後で支える音楽、というあり方をどうやって逆転させるかという時に、言葉が音楽そのものに言及することで音楽にスポットを当てる(=前景化)ことができる。テキストは詩的な領域と自己言及の間をさまよい、揺れ動く。また、言葉によって喚起される音のイメージと現実の音とのアンサンブルの可能性はありやなしや。例えば、言葉として発する「ド」と現実に鳴っている「ミ」は聴く者の脳内に3度の協和音を形成するだろうか?作曲時は意識してはいなかったが、これは元を辿ると、松平頼暁の『ザ・シンフォニー』的な発想に近いかもしれない。人がある楽器の名前を耳にした時にその音色を想起するのなら、楽器名を連呼することによって想像内でのアンサンブルが可能になる。。。このテーマは『沈殿ー漂着』の主眼ではないが、この曲を作ることで喚起されたモチーフとして今後も何らかの形で作品に反映するであろう。
●Astorotsa(2001) ヴァイオリン、アコーディオン、コントラバス
この作品は、1990年に立ち上げた作曲家グループ、Tempus Novumの第12回演奏会において初演された。このコンサートのテーマは「編曲」であった。本来はアコーディオンではなくバンドネオンのトリオなのだが、このような音楽をお任せできるバンドネオン奏者に今のところ巡り合っていず、その代わりコンテンポラリーの領域で優れたアコーディオン奏者とは幸いにして巡り合えたので、今回はアコーディオン版でプログラムに加えることにした。バンドネオン版もいつの日か再演したいものである。一聴しておわかりのように、そして別に隠しておく必要もないのでここにも書くが、この作品の元になっているのはアストル・ピアソラの楽曲であり、タイトルはピアソラのファーストネームを鏡像にしたもの。既成曲が元になっているという意味では『Is This C’s Song?』とも似ているが、この作品は「句読点」ではないので方向性はだいぶ異なっている。ここでも同じパターンが回帰して記憶の織物を形作る。ピアソラは西洋音楽の収穫を伝統的なタンゴに反映させて全く新しい音楽を生み出したが、楽曲として見ると新古典的な音楽が、ピアソラ自身の手にかかると西洋音楽の軛を逃れ、躍動する生命力に満ちた音楽として立ち現れるのはいつ聴いても驚きだ。ここでは、コンピュータを通すことで演奏のリズム感の揺れをなるべく生け捕りにしながらそれをズタズタに引き裂いている。『Orbital』の項でも書いたように、記憶の中に穿たれた点と点が記憶の糸で結ばれてゆく。
●句読点 X(2015) クラリネット
「句読点」シリーズはこれまでのところ11曲存在している。このタイトルがつく作品はすべてソロ楽器のためのものだが、コンセプトは楽器編成を問わないのでソロではなくても可能で、そうしたソロではない「句読点」コンセプトの作品は「句読点」とは呼ばれない。今回のプログラムでいうと冒頭で演奏された『Is This C’s Song?』がそれにあたる。『Is This C’s Song?』とは違って、『句読点 X』には既成曲は使われていないので、自前で持続を作り出す必要がある。ある特徴を持ったテクスチュアが反復されるとそこに持続が生まれるが、生まれたところでそれを異物によって転倒させる。それはいわば唐突に打ち込まれた楔のようなものである。楔ははじめ異物として機能するが、繰り返されてゆくうちにその異物感は薄れ、それをも含み込んだ一つの持続として認識される。それをまた転倒させるために新たな異物が必要になってくる。こうして、粘菌がゆっくりと増殖して広がってゆくように、一つの塊の音グループとして知覚される範囲がたえず更新、拡張されながら音楽は進んでゆく。2015年、アイルランドのクラリネット奏者ポール・ロウの来日公演で初演された。
●Seagram(2020) フルート、クラリネット、ピアノ、アコーディオン、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス
今回の個展のための新作で、これまでの「伸縮もの」としては最も大きい7人編成。この作品のコンセプトについては『Elastic』の項を読んでいただくのがよいだろう。『Elastic』との一番の違いは編成の大小ではなく、『Elastic』に実は入っていた句読点的要素、つまり異物による脱臼的要素がこの作品にはないということだ。伸縮しながら重なったりずれたりを繰り返すメイン素材の他にも若干別の要素はあるが、それは異物としては扱われていない。つまり、これはほとんど一つのことだけをやっている音楽なのである。しかも各楽器は全くヴィルトゥオージティを発揮する余地もない。ただしゆったりした波のように寄せてくる高揚はあるかもしれないが、それがあるとしたらその高揚は厳密なシステムの運行から齎されるものであるはずだ。こうした「ワンネス」(Oneness)はアメリカのミニマルアート及び実験音楽の一つの特徴でもあり、ヨーロッパ的な価値観からはかなり遠いものではあるが、これでもいいのだということを、僕はジェームズ・テニーやアルヴィン・ルシエやトム・ジョンソンから学んだのだと思っている。ちなみにタイトルは20世紀のモダニズム建築家ミース・ファン・デル・ローエの代表作の一つ、マンハッタンにあるシーグラム・ビルから採られている。このビルに限らず、ミースの建築の均質で水平、垂直に広がってゆく構造体のあり方が、この音楽の様態と類似しているように感じられないだろうか。ミースの有名な言葉を2つ紹介してこの文章を締めくくろう。「より少ないことは、より豊かなことである」。「神は細部に宿る」。
チケットお取り扱い:東京オペラシティチケットセンター:電話番号03-5353-9999(月曜定休)
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電話予約 カンフェティチケットセンター フリーダイヤル:0120-240-540(平日10:00~18:00)
配信チケット
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チケット購入者はコンサート終了後、12月23日一杯まで一週間何度でも視聴可能です。
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