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「お盆」からの連想

私とR先生は、自由連想法という方法で毎回50分の面談を行う。父親の話、音楽の話、絵本の話、山の話、仕事の話、雑多に話す。

山の話というのは、私の生まれが東北なのでそもそも山がちであったし、特に幼少期に住んでいたのが山の中であったため、山というのは特別な感じがするということだ。それと、私が昔話・民話・伝説の類が好きなことから、山といえば何か神聖・得体のしれない存在がいる感じがする、という話だ。
R先生は「山というのはアナタにとってどういう存在ですか」と聞く。「怖いものですか」と。怖いには怖い。虫が大きくて刺されたら痛そうだし、気が立った野生の動物に出会ったら……。しかし、小さい頃の記憶で実際に虫に刺されて痛い思いをしたり野生動物に怖い思いをさせられたりしたという記憶はない。どちらかというと、家を出て畑の周りの林の中を歩き、落ちている栗を足でいじくって開いたり、木の根元をいじくって虫を脅かしていたりした。田んぼの周りは開けていて木の影が無く、暑いので行かない。運動が嫌いなのでさほど遠くにもいかなかった。

「怖いというのもありますが、どちらかというと、大きいって感じですね」と答えた。R先生は「そりゃあ山なんだから、当然大きいでしょう」などとは言わずうんうんと聞いているので、「ただ静かで、存在しているという感じですね」と付け加えた。R先生は「山は静かで、存在しているでしょうね。わざわざ当たり前のことを言いますね」とは言わず、「そうですか。アナタにとって、山というのは、お父さんに似ているように思いますが、どうですか」と言う。

たしかに父は静かで、私の話を聞いているのだか聞いていないのだかよくわからないところがあり、私が何をしていてもあまり気にしていないふうで、父自身の考えを話すことも少なく、行動の理由もよくわからないので、私には得体が知れない。R先生にもそのことは話してきたので、ある程度伝わっている。「似ていると思います。よく分からないところが似ています」。ここから先、父についての考察はいつも深まらない。父とは、私の意志でこの10年近く会っておらず、縁を切っている状態と言っていい。この状態で、いつか父への理解が深まることがあるのか?

山の家には、お盆になると遠くから親戚が来る。親戚のお兄ちゃんが私を軽トラに乗せて、一軒しかない小さなスーパーに買い物に行く。このお兄ちゃんが、小さい私に怖い話を教える。お盆の時期になると、「お盆には水に近づいたらダメ。海は絶対ダメ、川もダメ、プールもダメ。連れていかれちゃうんだよ」と言う。そうして暑い中、みんなで墓参りをする。手桶に水を汲んで運ぶ。ひしゃくで墓の頭から水をかける。お菓子をあげる(供える)。新聞紙に火をつける。線香にまとめて火をつける。2~3本の線香をあげる。
あとになって、お盆に水に近づいてはいけないのはなぜか、ということを調べたら色々な説があることが分かったが、子供のころはお盆の時期に水に入ったらどこかへ連れていかれてしまうのだと信じていた。私はわざわざ出かけて水に近づいたりしないから大丈夫、と思っていた。

今日は、「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 ~お化けたちはこうして生まれた~」の図録を繰り返し読んでいた。水木センセの絵が子供のころから好きな理由が自分では分かっていなかったのだが、急に気が付いたことがある。

水木センセの絵は、背景が非常に丁寧に書きこまれていて、黒い。その黒さが影のように見える。描かれている時間帯が昼であっても、非常に濃い影がある。図録に載っているもので言うと、「座敷童子」「疫病神」は屋内の絵で、暗い。(で、おそらく昼間だと思う。違っていたらスミマセン)子供のころ、土間のあるような古い家や、破れ屋のような建物に入ったときには、感覚的にはこのくらい暗かったように思うのだ。水木センセの絵は屋外でも影が濃い。特に「ヤマンボ」や「波小僧」。屋外の影の濃さは、山の中は木の陰でかなり暗いため、私自身が感じていた「暗さ」そのもののように思える。カラーで見ないと昼か夜かはっきりと分からないものも多いので、なんとも言えないが、明らかに夜とわかる場面の絵は、さきほど挙げた絵よりも、明らかにずっと暗く描かれていて、その暗さは影というより闇である。この暗さが、静かな感じや不気味な感じを出しているように思うし、私が感じていたことと結び付けることができたので、どんどん好きになった。こういう、「気持ち」や「雰囲気」を水木センセは絵にしているのかもしれない。(「気持ち」や「雰囲気」については展示や図録で京極夏彦氏の話を見てください)

図録

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