「同一保持」前・中・後編(2022年12月10日)
ハルです
ハルネットの皆さん、こんにちは。
昨日メンターで、同一保持とこだわりはどう違うの?というような質問がやってきたのですね。
で、「同一保持」と「こだわり」の関係性をお知らせしたいなと思って、三部作(朝・昼・夜)に分けて書きました。
ハルネットの方にも読んでいただくと、役立つと思うので、それを転載します
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皆さん、こんにちは
同一保持を、検索すると、最初にこの二行が出てきます
同一性保持とは,自閉スペクトラム症患者に認められる特徴的な症候であり,ある特定の物や状況に対して異常な固執を示し,その状態を一定に保とうとする行動様式を示す.
自閉症と関わる人には、この意味がよくお分かりでしょう。
幼児期なんかだと、食べるものから、着るものまで、その状態を保とうとするので、同じものにしたがりますよね、これを「こだわり」と私たちはよく呼びます。
こだわりの強い子供なの。と
同一保持 自閉症 とかで検索するとたくさん出てきます
いろんなサイトを見てください。似たようなことが書いてあるでしょう
http://cpedd.nise.go.jp/faqs/faq_questions/view/5235/4b089f52396ce0f021f4a56b4e46d80c?frame_id=4975
https://cocoro-sodachi.clinic/asd.html
取り立てて特別な文言は、見られません。
> 「こだわり」という言葉でよく使われています。
> 同一保持とこだわりは同じ意味にと思って良いですか。
つまり「同一保持」という行動様式があるために、衣食住や暮らし方、方法、考え方に「こだわり」が生まれると考えたらいいのです。
でも、自閉症の場合の、「こだわり」は、私たちが、一般的に使っている「大人のこだわり」とか「仕事の方法にこだわりを持つ」「この料理、味付けに、こだわったのよ」といった表現のものとは、違うんですよね。
たいていが、「ネガティブ」なことへの執着という意味で使われます。
一般的に使うのは「ポジティブな」ことへの意識付けという感じですけどね。
でも、表裏一体だけどね。上記の「大人のこだわり」なども、「お父さんはいいけど、子供たちは困るわ」「こだわりすぎて、一般受けしない」「こだわるから時間かかりすぎ」とか、ひっくり返えることもありますからね。
じゃあ、その同一保持にどう付き合っていけばいいのですか?
そこですよ。知りたいのは?
だって、
「同一保持」は自閉症の人なら特別に強く持つ症状(特性)です。これは、なくならないのだもの。
というのも、この「同一保持」どこからきているかというと、自閉症の三つ組み(定義)である「想像力の偏り」からきています。「反復的な行動」と記されていると思います。
定型発達とはこの「想像力の部分で違い」があるのです。
自閉症のお子さんは、急な「変更」に対して強い抵抗があるでしょう。でも、定型発達のお子さんには、それがそんなにありません。「ああ、変わるの〜」って受け入れてくれる。
それは、脳みその中で「(同じ場所に来ても)違う活動かもしれない」「変更後は、@@になるだろう」など想像力が働くからです。でも、自閉症の人は、その部分が「障害されている」(違っている)のですね。
だから、定型発達のお子さんのように「(同じ場所に来たら)違う活動になるかも」「変更後にどうなる?」などを、想像してくれないのです
となると、「違う活動なんて聞いてないよ〜」「変更なんて意味フメ〜でやだ〜」ってことになって、パニックを起こすんですね。
そして、不安になると安定したいので、「同じ活動をしたがる」「いつもと同じものだ」と落ち着く「同一保持」という様式に収まっていくんです。
「想像力の偏り」が「同一保持」という行動様式を作っています。
でも、この「同一保持」でも、悪いことばかりでなく、その行動様式があるからこそ、
・ルールを守る
・毎日のルーティンが身につく
・仕事や作業は丁寧
・余暇や家事をきちんとこなす
・好きなことには造詣が深い
など、とても素敵な面があるわけです。この「同一保持」の特性を活かして、生活を組み立てると、彼らは快適にやっていけるでしょう。自閉症の成人さんで落ち着いてう暮らしておられるのは、こういう皆さんのことをさします。
多くの人が、この「同一保持」を悪者にするので、問題が起こっているのです。
でも、この「同一保持」をよい行動にするには、「みとおし」「えらぶ」「おはなし」の手立てがいるんです。
それはまた、続きに、書きます。朝はここまで
こういう「定義」から整理して、「特性」を理解し、その「仕組み」をわかると、自閉症支援は、そんなに難しくないんです。でも、皆さん「定義」「特性」「仕組み」を知らないまま「ふれあい」「関わり」「パッション」でなんとかしようとするので、難しい、できない、混乱するになっているのです
続く・・・
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ハルです
みなさん、こんにちは
私が、「同一保持」の仕組みに気がついたのは、幼稚園のときです。セミナーではよくするお話ししてますね。
ダダさんは、幼稚園の帰り、「ブランコ」をして「滑り台」をして、私の車に乗りました。
これが毎日。途中で止めると、パニックになるので、私はそのままいつもの通りにさせていました。パニックになられても面倒ですもの。
でも、あるとき、ダダさん「滑り台」から行ったんです。「え?」と思って、考えてみると「滑り台する?ぶらんこする?」と二択で私が聞いたからでした。
その小さな気づきから、家でも「プラレールする?トミカする?」と聞いてみたら、どちらも欲しがる。ジュースでやってみたら、好きなジュースを飲む。「ああ、この子、選んでない」ってわかったんです。
つまり、いつも「ブランコ」をして「滑り台」をするというルーティンのような行動は、「同一保持」だったんだ。自分たちが「今日はこれから遊ぼう」というようなものではなくて、「前したものを倣うという行動だったんだ」に気がつきました。
それは、私が「えらぶ」ということをしてこなかったからでした。だって、自閉症のダダさんは「同一保持」の行動様式があるので、「いつも同じもの」「いつも同じこと」をしていたから、「こだわりの多い子供」だったからです。それを止めるとパニックになるとなれば、尚更、同じことをしてもらうようになりました。
でも、それこそが「人権侵害」だったのです。
その気づきから、私はあらゆるものを「えらんでもらう」ようにしていきました。「どっち?」「どれ?」始めは二択から
最初は、いつも同じということもありましたが、「選んだことをやってみて結果を見て、次を選ぶ経験」を繰り返したり、なじみのあるものがない時には、違うもので二択とかもしていくと、「いつも同じもの」じゃなくなっていきました。
このあたりのことは『レイルマン2』のダダ君の選択的生活を読んでください。
https://www.amazon.co.jp/レイルマン2-自閉症文化の愉しみ方-奥平-綾子-ebook/dp/B08SR77Q15
この「選択活動」の繰り返しで、ダダさんは「前したものを倣う」ではなく、「その時フィットしたものを選ぶ」になっていきました。「こだわり」に激しく翻弄されることもなくなりました。
そのことによって気がついたのです。
あの「同一保持」による強固なこだわり・・「これじゃなきゃ」「それしか」「あればっかり」というのは、「選択活動」で、軽減するのだなと、言うことだと。
じゃあ、「これじゃなきゃ」「それしか」「あればっかり」という「こだわり満載」のお子さん・当事者さんは、その状態では「選択活動がない」「えらぶ経験がない」ということに導かれるわけです。
自閉症 こだわり なくす
などで検索すると、いろんなことが書いてありますが、あれらには、「選ぶ」がないので、いい加減な話だなと読み取れます。「じゃあ、どうするの?」がない典型です。
というのも、「選択活動」に着目したのは、20年前の私が日本で初めてだったから(20年前に導入された当時のTEACCHには、日ごろからの選択活動はありませんでした。「食べ物・飲み物」とか「行き先」とかだけでした)
*しかし上手に育てた親御さん、たとえば「明石洋子さん」などは、息子のテツユキさんに、「小さい頃からずっと選ばせていました」と言われていました。逆に言えば、選ばせない(当時はまだ、「させる」感覚)と、上手に育たないってことです。
私は、自分の経験から、そして、その後何千人と伝えてきたことからも、「選択活動」をすることで、いわゆる生活のあちこちにあると言われる「つまらないこだわり」は、軽減すると思っています(知っています)。
「こだわり」といっても
1.生活が窮屈になる「つまらないもの」
2,生活をスムーズにする「安定するもの」
3,生活を彩る「中身になるもの」
がありますよね。私は「こだわり」も分けて考えていますし、もう「1」のようなものは「単なる同一保持」ですから、なくして(軽減して)いけると話せますよ。
ダダさんを含む、ユーザーさんの多くの自閉症のお子さん・ご家族さんが、「同一保持」の特性はあっても、「つまらないこだわり」にまみれないのは、手立てのおかげですね。「えらぶ」をしてくるもの。
続く・・・
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ハルです
皆さん、気になるので最後まで、書いておこうと思います
日本にスケジュールが入ってきたのは、佐々木正美先生が、TEACCHプログラムを日本に紹介されたからです。
*佐々木正美「TEACCHモデルの紹介と実践 (療育論)」『日本教育心理学会総会発表論文集』第35号、日本教育心理学会、1993年10月8日
ダダさんは、1995年に「自閉症」と診断されました。そして、当時のことばの教室のSTさんから「自閉症はどうやら見せたほうがいいらしいのです」と言われたのです。
(これをずっとお話しするのは、特性に対応する「自閉症支援」は、もうその頃から「ある」ってことを言いたいから。なので、今更「してない」人は「黒電話」使ってるくらいの遅れ方だってことです)
つまり、それまでは、自閉症に視覚的支援をするということは言われていなかったのです。「聴覚的な情報より視覚的な情報の方がわかりやすい」なんて、誰も知らなかった。
おそらく「上手の育てた親御さんたち」は、それ以前に、見えるものを使ったり、肯定的な表現をしたりはされていたと思いますが、「専門的な支援法」として確立されたのは1993年に日本に入ってきて、それからじわじわ広まっていきました。
とはいえ、ずっと、佐々木正美先生には、ものすごいバッシングがあったそうですが
(そりゃそうでしょう、抱っこしたり、訓練したり、受容したり、威嚇したり、それまでの療育者が、やりたい放題してきたんだから。「本当のこと」が入ってきたら、おまんまの食い上げです。そこに大量の福祉のお金が降りていたのだから、そりゃ取られまいと反発しますよね。福祉は利権ですから)
「視覚的支援」や「スケジュール」が、どうして自閉症だけに広がったのかは、日本側の受け手が、自閉症の分野の専門家だったというだけです。
理由は、自閉症の特性で「同一保持」があり、それによって、変更が受け入れられず、パニックになる(行動障害を起こす)からでした。
今はどうかわかりませんが、当時「強度行動障害を起こす9割が、自閉症」と言われていました。
変更や前情報があっても、しかも視覚的に伝えることもせず、受信も発信も音声だけ、選ぶことも許されず、抱っこじゃの、受容じゃの、訓練なんてしたら、「同一保持でがんじがらめ」になるのは、今の皆さんには容易に想像できるのではないでしょうか?
知的障害だけ、あるいは、ダウン症という障害でも、変更があると、苦手にはされますが、自閉症のような「極端なことがない」のです。なんとなく、話し言葉で言いくるめることができる。でも、自閉症は、言いくるめることができない(どうやら見せた方がいいらしいと言われるくらい、聞き言葉のキャッチができないからです)。
なので、TEACCHのいう通り「視覚的に変更を(予定を)伝えると、それがないぞ。視覚的に構造化するとやってくれるぞ」ということに、支援者は気がつくんですね。それで、自閉症にはスケジュール、視覚的支援という風に広まってしまいました。
でも、「誰も、知的障害だけ・ダウン症には、視覚的支援はいらない」とは言ってないのです。「自閉症には視覚的支援」と言われるようになっただけなのです。
それで、ダウン症の分野では、あれば本人は楽になるし、必要な場面でも、「視覚的支援がされない」ということが起こってしまいました。
「ダウン症なら、視覚的支援、スケジュールは要りませんね」というようなことが実しやかに広がる。いわゆる都市伝説ですね。
(ダダさんの同級生のダウン症の女の子は、中学から養護学校へ行ったのですが、「ダウン症だから、入りませんね」とそれまで、小学校ではダダさんと同じようにスケジュールしてもらっていたのに、とられちゃったです。そして、指示待ちから、固まっていかれました)
その状況を、私は「20年のデフレ」と呼んでいます。
いまだにダウン症の分野では、視覚的支援を積極的には取り入れたることはないと聞きました。講師のご依頼があったのですが、「おめめどうさんを呼びたいけど、先輩がしてきてないから、そういうの知らないからと、言われて」ご破産になったこともあります。そこにも派閥や・学閥(あるいは関わる法人、親御さん)などもあり、若い人が知りたいと言っても、なかなかなんですよ。
それは、自閉症の分野でも同じですが。
話しを戻します。
「同一保持」の行動様式を示す自閉症は、知らされていなければ(同じだと思っていますので)、「変更」をとても苦手にしています。それで、パニックになったり、イライラする。その様子は、きっと皆さんもご経験があり、ご存知でしょう。今も、手立てをされていないお子さんは、皆、そんな感じですよね。
お父さんとスーパーに行って、「お菓子を買ってもらった」となると、次に同じ状況で、スーパーに行くと「前と同じようにお菓子を買うんだ」に脳みそはなっていて、「今日は買わないよ」と言われると、パニックになる。で、また、困ったお父さんが、買ってそれを収めると、「同一保持」が起こって、「父とスーパーでお菓子買うもの」になっていく、「いらなくても買うもの」になっていくんです。
そのようなことがあちこちに起こって「育てにくい」「困った子供」という風になっていきます。子供や当事者さんへの評価はどんどん下がっていく。
なので、することは、もうお分かりですよね
「スケジュールをしていく」「ルールの視覚化」です。もちろん、家には「カレンダー」。
スーパーに行く時のスケジュール、そして、買い物の時のルールがあれば、それを(今日お菓子ではなく、ジュースを買うなら、そのこと)を◯×で知らせておく。すると、本人も納得して、「こだわった行動」は減っていくでしょう。
そして、中編で書いたように、スーパーを選ぶ、いく人を選ぶ、買うものを選ぶ、ルートを選ぶなど、本人の選択活動が入れば入るほど、本人の活動になりますので、どんどん別のもの(場所・時間・人)にもなっていきますし、たとえ「求めていたジュースや品物」がなかった時も、納得がしやすくなるでしょう。
「同一保持」は、「スケジュール」や「手順」をすることで、確実に減っていきます。
手立てをしていないお子さんの親御さんは、「同一保持」に翻弄されるだけ(さぞ叱責の多い、苛立ちの多い暮らしでしょう)。SNSとかでしてない親御さんの発信を見て、「何の手立てもしないで、偉そーによく言うよ」って思っていますよ、私は。
また、もう、続けて書いてしまいますが。「おはなし」にあたる「理由」や「因果関係」や「誰かの希望」なども、音声の言語で言いっぱなしにするのではなく、見える形にして直接対峙で伝えることで、本人が納得できれば、意味なく強固な「こだわり」になることもありません。
これは、皆さんが、もう経験をされている通りのことです。
「変更は、前もって、見える形で、理由も添えて、直接対峙で伝えて、待つ」
これで、ほとんどうまくいきますよ。じゃないと、知的障害や自閉症の重い人が、コロナで10日間も自粛・隔離を快適に過ごすなんてできませんって。
(ダダさんは、ある有名な専門家さんから、「強度行動障害」になりやすいタイプと言われました。それは、わかるものとわからないものの差が極端にあるからです。だから、手立てをして、やっと何とかやれているのですよ)
こうして、手立てをしていくと「同一保持」で起こる「窮屈なこだわり」はほとんどなくなり、本人がスムーズに日常生活を送るため所作や、余暇や学習といった中身の充実にだけ、発揮されるようになるはずです。前編で書いた「2」「3」だけになるってこと。
手立てはもうずっと前からあるのに、どうして広まらなかったのか?それは、やっぱり、障害児者を1人の人間として見れない「人権侵害」と、自分が新しく変えることで責任をとりたくないという「前例主義」ですよ。
それから
TEACCHのスケジュールが「シナリオ」にとどまってしまったこと。カレンダーを重視しなかったこと。コミュニケーションが、受信に偏っていたこと(PECSの登場を待たねばいけませんでした)。選択活動が療育止まりで、人権的な意味合いまで行かなかったことなどが、広まらなかった原因でもあります。
今は、アメリカでも、AACと選択活動については、言われているそうです(4年前にその話をしたら、ノースキャロライナでトレーニングをしてきた人が言っておられました)。「理由も説明するようになったよ」と(当時はなかったのです)。
誠に残念でした。まさかこんな風になるとはと、落胆もしていますが、自分たちは、正解でした
おしまい