9/29 パレスチナ問題/アフガニスタン問題 /AppleがOpenAIへの投資取りやめ 日経新聞日曜版から
ヒズボラ指導者殺害
レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラ指導者ナスララを殺害
イスラエルとの全面衝突の懸念が高まった
パレスチナ国
東:ヨルダン川西岸地区
西:ガザ地区
1946年、イギリスの委任統治時代から当時の8%程度になった
今でもヨルダン川西岸地域ではイスラエルが入植活動を、ガザでは占領政策で面積がなお小さくなっている
1948年にイスラエルの建国宣言で元々いたパレスチナ国民は一気に難民に。
そもそも
聖書で「乳と蜜の流れる土地」(肥沃な大地)とたたえられ、十字軍やナポレオンの遠征など世界史の舞台にもなってきた パレスチナ。
16世紀以降この地はオスマントルコ帝国の一部として、アラビア語を共通言語とし、 イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存していました。 しかし19世紀、西欧帝国主義諸国が中東に進出し、オスマン帝国は崩壊の危機を迎えます。
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・オスマン帝国からの独立を目指すアラブ人の民族主義の動き
・ヨーロッパで差別や迫害を受けていたユダヤ人の間では、パレスチナに民族国家建設をめざす「ユダヤ人国家建設「シオニズム」
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19世紀末、ロシアでのユダヤ人の迫害を背景に、ユダヤ人のパレスチナ移住が盛んになりはじめ、 ユダヤ系資本によるパレスチナの土地の買い占めが始まりました。
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クソイギリスの三枚舌
1.第一次世界大戦中、イギリスは戦争資金を調達するためユダヤ人コミュニティに協力を仰ぎ、 「パレスチナにユダヤ国家建設を支持する」と表明した書簡を送りました(「バルフォア宣言」
2.同時に、オスマン帝国からの独立をめざすアラブ民族主義をも利用すべく、 メッカの太守フセインに対してイギリスへの協力の代わりに「アラブの独立支持を約束する」という書簡も送ります (「フセイン・マクマホン協定」)。
3.同盟国であるフランスとは、戦争終結後は分割するという協定(「サイクス・ピコ協定」)を秘密裏に結びます。
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戦争終結後
パレスチナとヨルダンはイギリス、レバノンとシリアはフランスの委任統治領になりました。 イギリスがアラブとユダヤ双方に対し相反する約束をしたことが、二つの民族主義の衝突の芽に
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1947年、国連はパレスチナの土地にアラブとユダヤの二つの国家を作るという「パレスチナ分割決議」を採択します。アラブは43%、ユダヤは57%の土地。不平等で対立激化
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アラブ・ユダヤ双方の武装対立と緊張関係のなか、1948年にユダヤ側はイスラエル建国を宣言しました。
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イスラエル建国宣言を受け、第一次中東戦争(1948年~1949年)が勃発します。 この戦争で70万人のパレスチナ人(パレスチナに住むアラブ系住民)が居住地を追われ、 ヨルダン川西岸地区やガザ地区、そしてヨルダン、シリア、レバノンなど近隣諸国に逃れました。
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1967年、イスラエルとアラブ連合(エジプト・シリア)の間で第三次中東戦争が勃発します。 この戦争で圧勝したイスラエルは、ヨルダン川西岸地区と東エルサレム、ガザ地区、 シナイ半島及びゴラン高原を軍事占領下に置きました。国連安全保理事会は決議242号を採択し、 イスラエル軍の西岸及びガザからの撤退を求めますが、イスラエルはこれに応じませんでした。
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1993年にノルウェーの仲介により、 イスラエルのラビン首相と PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長の間で
「西岸及びガザで5年間のパレスチナ暫定自治を 開始する」という暫定合意条約(オスロ合意)が米国で調印されます。
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1994年以降、ガザとヨルダン川西岸でパレスチナ自治が開始されました。 外国の援助による難民キャンプのインフラ整備も徐々に進み始めました。 しかし、細分化された「自治区」の多くは依然としてイスラエル軍の占領下にありました。 そして、自治政府の腐敗や非効率性がパレスチナ経済の発展を阻害しました。
ガザ地区はイスラエルによって建てられた壁やフェンスに囲われていて、15年以上にわたって、「封鎖状態」になっている
ガザ地区を納めているのはハマス
1987年に創設、正式名称は「イスラム抵抗運動」。2006年、議会にあたるパレスチナ立法評議会選挙で過半数の議席を獲得し、2007年6月にガザ地区の実効支配を始めた。軍事部門がイスラエルと武装闘争を続ける一方、慈善活動や教育支援も行っている
同時多発テロは
ソ連(ロシア)・アメリカ・イギリス
9.11事件を引き起こしたアルカイダ(元最高指導者はオサマ・ビン・ラディン)は、1989年に誕生した国際テロ集団。どんな組織なのか?
ソ連軍は1979年、アフガニスタンに侵攻する。ソ連軍の駆逐を目的とした「ジハード」(聖戦)に参加するため、アラブ諸国の若いムスリム(イスラム教徒)を中心とする義勇兵たちが、アフガニスタンや隣国パキスタンに向かった。
1989年にソ連軍がアフガンから撤退すると、対ソ連で戦った抵抗勢力の間で内乱が発生した。こうした中、一部のアラブ人義勇兵たちによって次のジハードを戦うための組織アルカイダが結成された。
アルカイダの幹部らにとって、戦場を失った義勇兵たちの処遇は喫緊の課題だった。1990年の湾岸危機で、米軍がメッカとメディナというイスラム教の2大聖地があるサウジアラビアに駐留したことは「異教徒の軍隊がイスラムの聖地を占領している」とみなされ、攻撃の対象とされた。
アルカイダの論理はエスカレートし、サウジアラビア駐留軍だけでなく、全てのアメリカ人を「標的」とするようになった。