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オリンピックは平和な戦争
2024パリオリンピック、陸上競技 4x100mリレーの最終コーナー。
一つの画面に、各国が一斉に並んだ瞬間、私はふと思った。
なぜこんなにも大勢の人が
1秒でも早く、先に到達しようという行為をしているんだろうか?
狩猟や戦争に役立つものならわかるが、中には殺しの役に立たない競技すらある。
オリンピックの創始者はどう考えているのか?
古代オリンピックは一旦置いておき、近代オリンピックから調べてみた。
近代オリンピックの思想
近代オリンピックの創始者、フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵によって1896年第1回大会がアテネで開催された。
クーベルタンがオリンピックを始めようとした根本動機はスポーツを通じて人間を変革すること。
しかしクーベルタンが考えたオリンピックは、単なる「スポーツの祭典」ではなく、精神の発達を願う芸術祭も含めてのものだった。
クーベルタンの思想を受け継ぐ形で、時代と共に変更を加えられながらIOCによって定義づけられ、現代オリンピックの精神となっている。たとえば、「オリンピック憲章」の根本原則には次のように書かれている。
オリンピズムは人生哲学であり、肉体と意志と知性の資質を高めて融合させた、均衡のとれた総体としての人間を目指すものである。スポーツを文化や教育と融合させるオリンピズムが求めるものは、努力のうちに見出される喜び、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などに基づいた生き方の創造である。
オリンピズムの目標は、スポーツを人間の調和のとれた発達に役立てることにある。その目的は、人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある。
(2011年版オリンピック憲章、日本オリンピック委員会)
なるほど、人類が、より優れた方へ成長しようとする取り組みなのだろう。
人間の可能性を様々な形で明らかにしていく。
人のバランス感覚や繊細な足の使い方は、体操競技と、スケートボード、ブレイクダンスで明らかになっているが、どれも「人間にこんな事が出来るのか」という驚きを感じられる。
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個人レベルで「優れた人間でありたい」という感覚はだれしもが持ち得ている。これをオリンピックという、国別対抗の争いにすることで、自分たちの国が優れているという喜びそしてナショナリズムに繋がる。そしてお互いに「優れた人類」へ成長しようと切磋琢磨する。
優れた人類の定義は、形を変え「富を得て、豊かな暮らしが出来る国にしたい、利益を得たい」という発想にもなる。そこに武力を使えば、立派な戦争だ。
オリンピックには武力は無い。それでも世界中が「優れた人間になりたい」という願いのために戦い、争い、勝者と敗者を決める。
人は死なないが、これも立派な戦争だ。
戦地で戦う闘士達に、称賛と敬意を表する。
以下、引用