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未知の駅へ


失う日々

原理

 人間は主観の中において、ある日突然”できなくなった”を自覚する。
実際は予兆というかできなくなるまでの過程が日々の中にある。だがそれを拾うことはせずにできなくなったその日を迎えて心で嘆く。
 できなくなる過程とは大別して老いか病のどちらかか、両方であろう。外的要因、例えば法律で禁止されたためできなくなった場合の過程は政治だがこちらは一旦排除する。病で耐えられない、老いで見えなくなる、そもそもの体力が落ちていく、一人の人間ができていたことを失ったと自覚する日はこうした過程の蓄積から生じる日であり不条理でもなければ奇怪でもない。日常に殺されているだけだ。

恐怖

 自分の手から一つできることが失われた以上、次に何かできなくなる日まではそう遠くはない。早ければその日のうちに来る。こうなると日々が恐ろしく思えてくるようになり、何かをすることを恐るようになる。行えばできるかできないかが明確になる以上、できないという結果の影が見えたような気持ちになれば人間は何もせずあらゆる事を避けて日々をやり過ごそうとしていく。
 だが老いと病がこうした人間の心持ちに配慮することはなく、必要にかられて咄嗟にやろうとしたことができずに痛い思いをさせてくる。そしてまた思う、もう嫌だと。

悪あがき

主体的抵抗

 つまるところ、何もしなくても何もできなくなる。仏陀は生老病死を見ることで気がついたようだが筆者はヨッシーアイランドができなくなった辺りで恐ろしくなった。では失われていく日々の中で怯えて生きていくのかといえばどうもそれは性分に合わなかった。それに自分にはまだ衝動性があり、実行してみたいと思えば大体やるだけやる。
 自分ができることを手札にある一枚の札として、今何枚自分は手札があるだろうかと計算したところでその札は毎日少しずつダメになっていくことは避けられない。確実な抵抗手段はできなくなる速度より早くできる事を増やす、これくらいしかない。理論上の話でしかないと思えばそこまでだが衝動性に乗れば案外となんとかはなる。衝動性が無ければ何か動力源を代用してもいい。モテたいとかな。

ベタ踏め

 ブレーキを踏めば老いに負ける以上、アクセルというか思いつきフル実行のベタ踏みが活路になる。まず自分が既に持っている、または経験済みといえるような物事に縋りついても手札は増えないので増やすには初めてやることばかりになる。そして初めて開く門は往々にしてよくわからないが”わからない”とは増やせることだと思っていくしかない。ビビってブレーキを踏んだら死ぬ。
 わからない、納得できない、疲れた、まるで偏屈な年寄りの口癖だがそう思ったらならば偏屈な年寄りに近づいている。自らは既に何かワクワクできる若者ではないと自覚するには良い気の持ちようだ。だがこの気分を抱えたまま仕事でもない物事が長続きすることはまずない。人間はやりたくないになったらそれに反発する何かが無ければやらない。

諦めはブレーキではない

 極論だがこのゲームにおける負けは自主的に何もしなくなった時、つまりブレーキを踏んで止まった時だ。
だから諦めて今手をつけたものをさっぱり捨てて別のことをやってみる諦めは止まっていないので負けにはならない。ただ何かを始めた以上は既に何かを支払っているだろうし、スケジュールや人間関係が生じていることもある。諦めるとはこれらの全てを捨てることであるという事実はある。だが時間は有限であり、老いと病は常にアクセルベタ踏みだ。諦めてでも次の門を叩く諦めの悪さが無ければ追いつくこともできないし、まして追い抜くこともできない。何を言われようが老いるも病むも己の身と心である以上は誰に対しても悪いが行くと思っていくしかない。

取り返しがつかない

できることが増えた日

 あれやこれやと門を叩き開けてああだこうだと思いつつその先を行ったり行かなかったりを繰り返すうちに取り返しがつかないことが生じる。あまりに深く入り込んで引き返せない、言い方を変えれば身についてしまった状態だ。これはできることが増えた状態といえる。まさに新しい物事を身体化することに成功した。
 だがそこまでに至るまでの全ては取り返しがつかない。諦めがあったなら捨てたものを拾うことはまた多くのしんどい事をする必要がある。しんどい思いをしても捨てた何かがそこにまだ残っているとも限らない、消えてしまっていることの方が多いだろう。思い出せば執着することが人間の生態ならば生態として積極的に忘れていこう。生きるために忘却したことを責める人間がいたとしてもそれすらも忘れてしまえばいい。責めてくる何者かに対する道義的責任を果たしている暇は老いと病を追いかける日々にはない。

未知へ

 ここまでの話は全て体力勝負ができる状態ならばという条件付きの抵抗手段であり、体力勝負ができない、つまり既に老いや病を持つ人々はほぼできない手段だ。
 筆者も老いより病が増えている身であり、できないことが増える方が早い状態にいる。だがそれでも時間を逆進できない以上は退路らしい退路はない。どうにか心が折れないように活路を夢想することが多い。ただ夢想というのも中々どうしてまるで無意味ではなかった。人間は夢想の中からでももしやこれなら今の手持ちでもできるのではとやったことがない門を叩く算段と心持ちを作れる。
 きっと夢想すらやめてしまった時が停止した状態であり、その時が自分が持つ残りの全てを老いと病に差し出す瞬間なのだろう。なんとはなくその瞬間が無いと言い切れない感覚はある。きっと老いと病を抵抗する相手ではなく、老いと病から何かを得ようと夢想した時に全てを差し出してみるのだろう。
 最も未知なる門は老いと病の先にある。

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