自問自答
前書き
自ら問い自ら答えることを世に「自問自答する」という。
これを詳細に述べれば何かしら疑問を得たり着目する過程において生じた「なぜか?」について内的に考えて内的に解答する行為といえる。
多かれ少なかれ誰しもが意識的にせよ無意識的にせよ自問自答を行う、この側面のみを切り取れば自問自答こそが人間らしさとも思える。ただこの行為そのものは特段珍しくもなく普遍的な、心の所作に近い行為であっても人間が行う行為である以上は同じ疑問や着目から生じた自問自答であっても人間ごとに差異があると思う。そして他人に限らず同じ人間、自己であっても自問自答の量や質は一定ではなく、変化を免れない行為であり、ともすれば内的であるが故に自身でもその変化に気づくことができない。本稿は自らの自問自答を意識的に作動させることが暇つぶしになった筆者が自身の自問自答に変化を認め、また自問自答にはどのような原則がありその原則に則ればどう変化させることが可能であるかを述べるものである。
手数が減った
隠居暮らしも早数年、徒歩圏内の移り変わりすら知らないことが増えた。しかし情報というものは窓からでも画面からでも入ってくるもので思うこともあれば疑問を抱くこともある。ただ呼吸のように情報を吸って解答を吐き出す日々の中に自分は隠居する前からずっといるように思う。しかし隠居する以前と以後では何かが異なると薄々は感じつつもそれが何かを見つけることもましてそれを言語化することもできなかった。調子が悪いからか、と目を向けなかったことも感じたものを具体的に捉える機会へ変換しなかった原因だとも今からはいえるだろう。
では何が異なるか。大別すれば外的な変化と内的な変化に分けられる。
外的な変化は隠居暮らしになったことで様々な刺激が減少することで間接的に自身が何かに対して疑問を抱いたり着目する機会が減少していた。つまり量的に隠居以前とは自問自答すること自体が減っていた。また内的には自身が持つ言葉の総量が現実に生じている諸問題や着目点に対して不足していた。どちらも平たく述べればインプットの減少から生じた問題ともいえるかも知れないが実態としては1.経験の減少と2.言葉の不足であり、繋がっている問題ではあるが別の問題である。
経験の減少
「犬も歩けば棒に当たる」という諺がある。本来の意味から外して解釈すれば行為には結果が伴うと読める。経験の減少、具体的には経験数の減少は結果の減少になり自身が得るすべてのものが減っていた。視覚的に把握できる減少物、例えば収入や予定などは減っていると自覚できるし、また疑問に思うこともなかった。しかし視覚では捉えられない、またはそもそも意識していなかった隠居前に得ていた様々な経験ないし刺激が減少していることはすぐに気が付くことができなかった。そして減少が積み重なってようやく自身の中で僅かな違和感になり、さらに積み上がりやっと意識を向けることができて外的な経験や刺激が振り込まれる自身の内的口座の通帳を見ることができた。
何も考えない、何もしない、何も意識しない、無為自然な状態は隠居後に増えた時間だったが常に脳を作動させていることが生活だった自身にとっては十分な異常事態といえる。これを自分は病のせいかその余波かと捉えていたが実態は経験の減少によって生じた時間であり、刺激を受ければこうした無為自然な時間から脳は脱して思考を続けるようになった。ただ病それ自体が消えたわけではないため刺激を受けることや思考を作動させ続けると当日か数日はずっと寝ている。
言葉の不足
人間は当人が覚えているにせよ忘れているにせよ現代では多くの言葉に直面する。それは日本語に限らず英語であったりロシア語であったり、アラビア語であったり、または何かの言語や文献から借用してきた言葉だったりもする。意識するしないに関わらず本を読めば本の言葉に触れ、映画を見れば役者の台詞に触れ、ゲームをしても多くの言葉によって構築された世界を歩くことになったりする。こうして生きる中で生きた分だけの言葉が人間の中へ蓄積されるが誰しもが同じだけの言葉を有するわけではない。言葉の数、語彙ともいうそれは人間一人がどう生きてきたか? を明瞭に表してしまう。前述の経験や刺激も言葉を増やす要因であるが視点を広げれば生きてきた、そして今現在に生きている環境で獲得できる言葉の総量は規定されてしまう。もし一つも言葉を有する情報媒体物が無く、会話する相手がいなければ人間は言葉を得ることができない。言葉が贈与物であり借用物であり、伝達物であるように言葉とは自身の内部ではなく外部ありきのものだ。他者との意思疎通に端を発したと考えられる言葉または言語の発達は現代においても客体ありきの原則を保持し続けており、自身のみではそれまでいくら言葉を貯蓄していようとも客体の減少や消滅を前にすればいずれは枯れる。
隠居暮らしにあって客体の消滅とまではいかずとも減少は著しいし、隠居暮らしが続けば続くほど手持ちの言葉に新しさはなく常の言葉を常のように使うようにしかなれなくなり、それが事物問題を言語化することを経る思考の限界を規定していく。仮に一瞬にして言葉を失えば何かしらの病気を疑うべきだが自身がある環境において言葉が減少していく現象そのものはなんら不自然はなく病でもない。だからこそ気が付くまでに時間を要してしまった。
機会の減少と言葉の不足による具体的な弊害
仮に言語能力に練度という尺度を導入するとして、どうすれば言語能力を鍛錬できるだろうか。本を読む、映像を見る、歌を聴く、これらは一見するとインプットに分類できるがここに「それでどう思ったか?」を付け加えると一方的な情報の流入ではなく自身が外部からの刺激を受けることで何かを思い言語化する過程になる。また他者との会話であれば言葉は相互通行になり自身完結せず動的状態になる。ただし前者であれ後者であれ人間は「わからない」にも直面する。読めない、聞き取れない、意味を知らない、要因は種々あるとして「わからない」に直面してしまうとどう言葉を使えば適切かすらわからないになり、言語化や思考にも動作不良が生じる原因にもなり得る。ただ単に「わからない」だけであれば調べるか聞き返すか、意味を問うかなどで十分に対処できる。このように言葉は双方向で使用されることによってこう使うのかこう使えるのかこういう言葉もあるのかと接して使った分だけ言語能力としての練度が上昇していく。そして機会の減少と言葉の不足にあって困難な問題は思ったこと、感じたこと、そうであろうものをなんと言えばいいのかわからない事態だ。
なぜか、なにかを問うにせよ言葉が必要である以上は問う言葉自体が無いとそもそもで問えなくなる。問えなくなれば真実を得ることもなければ新たに言葉を獲得することもなく、自身に内在する無知の領域が固着してしまう恐れもある。機会の減少で言葉の獲得量が減り、何かに直面した際に言葉の不足によって知の広がりを失う。このことは言葉によって客体を扱ったり自身を客体として他者と対面する人間にとって根源的な機能の虚弱性ともいえるだろう。そしてこの弊害は社会学や精神医学、幼児教育の分野において発育過程を対象として研究されていたりするがこの弊害自体は年齢を問わず生じる。現に齢三十を迎えて自身の周囲から刺激が減り言葉の不足に陥った筆者がいる。言語発育における問題として初等教育や家庭状況、成育歴といった未成年者を中心とした周囲環境の問題として扱われることが多い本件であるが実態は三十路のおっさんであっても無縁ではなく、むしろ予後を思えば喫緊の課題といえる。
言葉の不足による自問自答の限界
自問自答を分けると自問が先であり自答が後である。これを一つの原理原則、順序として言葉が不足した状態ではどのようなことが起きるか。
自問自答も言葉を使用する以上は情報量がある。例えば「aなのか?」「bである」といった端的な自問自答でも「cではなくaなのか?」と前に条件を設定した自問に対して自答は「cではなくbである」となり「なぜcではないのか?」と自問を連鎖させることができ自答を付け加えていける。言葉を使用することで言語能力の練度が上昇する以上は条件設定や限定化した自問を生じさせてより長く連鎖する自問自答を生成することが望ましい。またより厳密で正確な自答を得ようとするにしても漠然とした自問ではなく、より情報量が多い自問をすることが質が良い自答を得ることにも繋がる。
ただ情報量が多い自問を生成するには当然として自身が多くの情報量、言葉を有していなければならない。何かを自問しようとして有する言葉をすべて使用した場合、自問の情報量は自身が有する言葉の量に規定されて自問の限界になる。仮に限界まで言葉を使用した自問であっても手持ちの言葉が少なければ実態として情報量が少ない自問になり情報量が少ない自答が生成されてしまう。これはまさに思考の限界と言語の限界を関連付けた学者が指摘した通りの現象であろう。
思考の浅さ、浅慮短慮の原因は何か。それは言葉の不足による諸現象であり、自問自答の限界に思考が留められ現実を認知するに際しても現実に対する適切な言葉を使用できず代用した言葉か誤った言葉を使用した自問自答を行ってしまうことで現実からはかけ離れた認識や解釈を自身に生成してしまい、結果的に当人の観点から見れば自分の頭で考えた真実ではあるが言語が豊富な他者からすれば彼の真実は認識や解釈に著しい誤認や間違いを指摘できる内容であり「思考が浅い」「浅慮短慮」と解釈されてしまう。
あとがき
言葉の不足とは恐ろしい。日々新しい言葉が生成されて流通している中にあって言葉を多く持てる者と持てない者の格差も存在するだろう。つまり人間は言語を獲得したその日から言葉、言語という資本の多い少ないで様々な差異が生じていき、言葉自体が人間から人間へ移り変化する移動物であるがために相続もされるがために資本主義的な格差社会を言葉によって形成している。独占された生産手段を解放したところで言葉の獲得は連鎖的かつ多層的な過程を経る必要があるため万人が十分な言葉をすぐに獲得することはできない。加えて仮に全ての言語を使用した情報物が無料で全人類に解放されたとしても人間は情報物の中に一つでも「わかる」ものがある物しか読み取れないため階段の一段目が等しく分配されたとしても階段を上がる速度や二段目と三段目の高さは全員均等ということにはならないだろう。
筆者は自己の言葉が生成する思考の壁に衝突しても気が付くまでに時間を要していた。そして現実に対して自身が有する言葉が充足することはないであろうと予見もしている。この予見は悲観ではなく現実が言葉によって生成され続ける限り、言葉を使用するものの数だけ現実を構成する言葉があり、関係構造として自身が認識できるできないに関わらず現実とは自己が有する言葉の数対言葉を有するすべてとなっているからである。
最近は人間だけでは飽き足らずプログラムまで自然言語を出力する。どうやってこれに人体一つが間に合うことができるだろうか。