"与えること"ができない貧困の生活-フィリピンのスタディツアーで感じたこと-
「貧困は人を卑屈にするが、それは貧困生活が辛いからではなく、与える喜びが奪われるからである」エーリッヒ・フロム『愛するということ』P.44
この春、フィリピンのスラムを3箇所訪問した僕はこれを読んで激しく共感した。
フィリピンで主に貧困家庭の子供の教育支援を行うNPO法人アクセスが今年3月に開催した貧困のリアルを学ぶ「スタディツアー 」に僕はインターンという形で同行し、健康管理やその他諸々の業務を行った。
ツアーも残り半分に差し掛かった4日目。パーマネントと呼ばれる集合住宅に家庭訪問に向かう。この「家庭訪問」はこのツアーの目玉コンテンツであり、スラムに居住する人と話すことで貧困の実態を知ることができる。これは長年コミュニティに暮らす家庭に支援し続け、信頼を構築したアクセスだからできることだと思う。
パーマネントの外観は日本の団地の少し大きい版みたいな感じ。棟数も多く、ハロハロ(かき氷)やマンゴーを売るお店など多くの店が軒を連ねる、なにか活気を感じる地区である。
僕たちのチームはある棟の1階にする家庭にお邪魔した。通常の家庭訪問は家の中にお邪魔させて頂くことが多いが、今回は家の前の共同の廊下に椅子を並べて話を聞くことになった。
その理由は電気が前日から通っていないからであった。フィリピンの貧困家庭は電力会社と直接契約を結べない為、サブミーター契約という、他の直接契約者のメーターから電気を通すという方法と違法に電柱から電気を引っ張る方法の2通りが多いと言われている。(詳しい方正しいか教えてください。)
この家庭は後者の方法で電気を通しており、電力会社にそれがバレて、前日に電気を止められてしまったそうだ。
いつ復旧するかも分からない中で、正直その家庭のお母さんはかなり堪えていたと思う。『電気をはじめ、子供たちに十分なリソースを与えられていないことが悲しくて、申し訳ない。』『子供達には自分の様な思いをして欲しくない』と涙ながらに語っていた。
これらの言葉は貧困の現実、現状を1番表しているのではないかと感じ、ツアー終了後もずっと心に残っていた。
それで、最近読み始めたエーリッヒ・フロムの『愛するということ』に冒頭のような一文があったのである。
「貧困は人を卑屈にするが、それは貧困生活が辛いからではなく、与える喜びが奪われるからである」
「人間とは見返りを期待せず何かを与えることに喜びを感じる」とも述べられており、この部分には僕だけではなく皆も共感するのではないだろうか?
その様を人間の生きる意味であると前提とした時に、貧困というのはそれを妨げる。親としてお金が十分にないから服を、靴を、文房具を、買ってあげることができない。食べ物も十分に食べさせてあげることができない。物質的に何も与えることができないから、精神的な余裕もなくなっていく。生きる意味を自覚できない状態は人をどんどん卑屈にさせてしまうことに疑いはないだろう。
確かに貧困の生活自体はとても苦しいものである。フィリピンのスラムでは日本人が一食分に使うにも満たない額で1日を乗り切る人も少なくない。
しかし、それ以上にそこに自分の家族がいて、その人達に自分が物質的にも非物質的にも何も与えることができないという状態が貧困で暮らす中で1番辛いことであろう。特にフィリピン人は日本人と比べ、家族を大切にする傾向が強く、よりそこに苦痛を感じるのではないだろうか。
このスタディツアーでは人や食べ物、貧困に暮らす人々の笑顔などフィリピンの明るい部分も見ることができるが、同時にゴミを拾って、仕分けして生計を立てる人の様子や貧困家庭の現状など負と表現するのは違うのかもしれないが、そのような側面も見ることができる。
今回のnoteを読んで気になった人はぜひ一度アクセスのホームページから確認してみてほしい。↓
https://access-jp.org/studytour