五、へし切長谷部を見に行く(福岡県・福岡市博物館)
画像は全然関係ない野菜ジュース。
もらいものなのでしぶしぶ飲んだが、私は野菜生活の緑色のやつ以外飲めない。
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私は腐女子だ。
このnoteを読んでいる女子の方々(一人ぐらいいてくれ)には今更サラサラの情報である。だってそこ関連からしかリンクさせてないからだ。しかし万が一、どこかからフラッと来られた方がなんとなく200円を私に恵まれた場合、私がどういう人間かをご存知で無い可能性もある。このため書き記した。別に書かなくてもよかったな。よかったわ。
意味不明の腐女子宣言はさておき、へし切長谷部もまた、刀剣乱舞に実装されている刀である。元は織田信長が所有していたとされる大太刀であり、後に黒田家へ下賜され、その際打刀として大磨り上げが施された。……だったと思う。あれ? 信長のときに磨り上げしたんだっけ? やばい忘れた。ありえん。ショック。勉強しなおします。
推しの知識ぐらいちゃんと整えろという感じだ。歳を食ってくると物覚えが悪くなるうえに仕事の内容を頭に詰め込まなければならず、日々虚無というわけだ。わかるか? 労働は苦しみしか生まない。
多くの展示が期間限定、そのとき限りであることに対し、へし切長谷部は毎年みることができる。ただし、その期間は年明け一ヵ月に限られる(※二○一八年から少し状況が変わってきた)。
推しだから見たい?
正直に言う。
そういう理由ではなかった。
ここまでの刀剣鑑賞で、私は怖気づいていた。刀を見てもこれといって感想らしき感想が生まれて来ないことにプレッシャーを感じていた。ツイッターなんかで感想を検索すると皆大変に勉強熱心で、素晴らしい感想の数々を読むことができる(断じてdisではない)。やはりそういう人たちが見に行くべきもので、私が見に行ったところで全く無意味なのではないか、ただの格好つけではないのか、ぶってるだけの浅はかな人間なのでは、と思っていたのだ。自意識過剰すぎるが深刻な悩みだった。
ほな、なんで行っとるねん、というと、どうしても博物館を舞台とした二次創作が書きたかったからである。このへんは話が長くなるので割愛する。不安はあったが必要性もあったので、自分を殺す形となった。
辛気くさい話は一旦置いておく。
とはいうものの、乱藤四郎の項目でナニワ結晶体を自称した私が上記のような弱い動機ひとつでなぜ本当に福岡まで行ってしまったのか記憶にない。多分友人Bが行ってたからだと思う。一泊二日ぐらいで遠征していた。
そう、福岡県は大阪の人間でも行ける場所なのだ。しかし私は純度の高いナニワ結晶体のため、長時間県外に身をおくと爆発四散してしまう危険性があった。
なので、日帰りで行った。
記事を最初から読まれている方はさぞ「日帰り旅行記とかいって近畿圏の人間が近畿圏に出かけとるだけやないかい」とイライラされていたことだろう。ここからですよ(ネタバレ・福岡と水戸と東京しか行ってない)
計画決行を告白した際、友人Bに「なんで日帰り!?」と若干呆れられた(当たり前)のだが、行けるかなと思ったのだ。あと、これはそのとき言わなかったのだが、いや言ったかも、私は「お泊り」という行為が非常に苦手で(緊張するため)、これを回避するため日帰りを選んだのである。緊張しいの私はそれでも緊張しまくるので、自分にこう言い聞かせる。
これは日帰りなんだから、ただのお出かけよ。
ちょっと福岡に行って帰ってくるだけ。
朝に家を出て、夜にはもう家なのよ。
梅田に行くのと一緒よ。
あなたは福岡に日帰り旅行するんじゃない。
福岡市博物館に出かけてくるだけよ。
無理がある。無理があるとは思ったがチケットを買ったのでもう後に引けない。むかつき止めの薬を何度も確認しながら地獄のような日々を送った。チケットを買った日からふいに吐き気を感じるという生活に始まり、直近二週間になると体調を崩し始め、一週間を切った時点で何回か腹を下した。大体自分にとってしんどい予定が先に立つとその日まで明確に体調を崩す。世の中にはこういう人間もいる。貧弱な精神の具現化である。
遠征日は平日、経路は空。月間最安値の水曜日にジェットスターへ乗り込んだ。朝一番の関西国際空港、巨大な窓ガラス越しに見る飛行機のなめらかなボディに心拍数を抑えることができなかった。
(余談だが船・電車・飛行機だと飛行機が一番好きだ。一番オエッてならない。緊張するとすぐオエッとなってしおしおのしおになっちまう私にとって空路以外の選択はありえない)
搭乗受付がはじまり、飛行機に乗り込む。
ありがたいことに、私は子供の頃何度か飛行機に乗ったことがある。なので新幹線よりも飛行機という交通網のほうが身近なのだ。慣れ親しんだ風景にやや落ち着きを取り戻し着席する。じっと待ちつづけ、ようやく離陸となった。
飛行機が離陸する瞬間が好きだ。
とてもワクワク、ドキドキする。生きている中でこれほどエキサイティングな瞬間に遭遇することはなかなか難しいのではないだろうか? 離陸の直前、滑走路を走り振動する機体に乗り込んでいる自分は宇宙に飛び立つ飛行士だ。
着陸の瞬間もワクワクする。席を立ち空港に降り立つ私は長旅を終え帰還した戦士である。センサーのみが頼りの宇宙空間で数多の困難を乗り越え、ようやく故郷の惑星へ帰ってきたのだ。
洋画「アルマゲドン」の見すぎ。
福岡空港に降り立ちまず最初に行わなければいけないのが、食事である。朝五時に起きて眠りながら自宅を飛び出し眠りながら空港へ向かい眠りながら空を飛んだ私は当然食事を取っていない。そもそも私は朝食を取らないし、食事という行為そのものにさほど興味がない(中二病)。しかし今日は丸一日外出するのだ。およそ十六時間の間なにも口に入れないというのはさすがに難しく、絶対どこかでとんでもない目にあう。それを回避するために、食事を取る必要がある。人間はコストパフォーマンスが悪い。
食品が胃に入ればなんでもよかったので、空港内のレストランに入った。既に緊張しているのでメニューを選ぶのに大変困った(脂っこいものを食べてオエッとなるのが怖くて仕方なかった。こういった緊張でまたオエッとなってしまう。私の体内では負の連鎖が秒で形成されていく)。結局しぶしぶフレンチトーストを頼んだのだが、これが意外と美味しかった。バゲッ…ト…? を使ったタイプのフレンチトーストを食べたのが生まれて初めてだったのだ。自分で作るベッチャベチャのショッッッボいフレンチトーストとは全く違った。肉厚で、歯ごたえがあり、夢のように甘くあたたかい。
食事を終えた時点で達成感がかなり満たされてしまい、少しダラダラした。レストラン内は絶海に浮かぶ孤島のごとくぽつぽつとした客しかおらず、皆一様にスーツを着用していた。みんな、はたらいている……。私服のちゃらんぽらんは私だけであった。
博物館へ向かうためにはまず電車に乗らなければいけない。
空港に着陸した瞬間から寒いな寒いなと思っていたが、駅へ向かうため一旦外に出た瞬間、ダイキンエアコンの巨大な看板に目線が吸い寄せられてしまった。電光掲示板に気温が表示されている。現在の気温は二度。
二度!!!!!!!!!!!!!!!
九州は私を裏切った。
電車で博多まで向かう。交通ICカードがもたらした恩恵は大きい。私のような無知かつ無謀かつアホな人間でも、見ず知らずの土地で電車に乗ることが出来る。もしもイコカがなかったら私は駅の券売機前で泣いていたに違いない。私はこの青いカモノハシに忠誠を誓う(2018年、泣きながらピタパに乗り換えた。仕事を替え地下鉄に乗るようになった私はカモノハシの面影を胸に抱き狸と一緒に改札をくぐっている)。
博多からバスに乗り継ぎ、博物館まで一気に向かう。私はバスに対して大変な苦手意識を持っているのでうまく乗れるか不安だったのだが、なんか乗れた。
福岡・博多駅といえば一夜にして現れた巨大穴である。二○一六年十一月八日の朝、ツイッターを見て心底驚いた。あんなに大きな穴は漫画やアニメでしか見たことがなかったし、なるほど、本当にこういう穴が開くんだな、と思った。陥落してできた穴の断面図を見ているとそこに吸い込まれそうだった。死傷者が出なかったことが幸いだ。
さてバスを降り、博物館の前庭にたどり着く。私は今、本当に、福岡まで来てしまった。その事実がじわじわと身体に広がっていった。
福岡市博物館の前庭には浅くて広い噴水がある。何かに似ていると思っていたのだが、映画ドラえもん・のび太と鉄人兵団に出てくる巨大な湖と似ている。ドラえもんが湖にふしぎ道具「逆世界入り込みオイル」を垂らし、湖全体を逆世界への入り口に変化させるシーンがあるのだが、そのときの湖の描写と似ているのだ。いやでもどっちかっていうとお座敷釣り堀が脳内で関連づいてるのかもしれん。オイルを最初に垂らしたのはお座敷釣堀で、ドラえもんたちは序盤、お座敷釣り堀を経由して逆世界へ入り込んだ。お座敷釣り堀は長方形のうすっぺらなマットで、敷くとどこでも釣りができるポータブル釣り堀なのだ。なんか伝わってない気がする。感じてください。目を閉じて……。
福岡市博物館は大きかった。入り口がまずデカい。人間が空間をでかいと感じる要素のひとつというか条件に天井が高いというのがあるが、福岡市博物館は入り口からすでに高かった。自分の声が響くぐらい高い。声を出していないので実際は知らない。
入ってすぐ私を出迎えたのはでっかい階段だった。これ知ってる! お金持ちのお屋敷とかお城にあるやつ!
どこで入場料を支払うのか全くわからず、しばらく掲示物を見るふりをしながらキョドった。マジでどこに受付があるのか全くわからない。これか!? と近づいたらインフォメーションだった。正解は二階です。
入館料を支払う際、私という名のしがないオタクに洗礼が待っていた。
「刀をご覧になられますか?」
まさかこんなところで審神者をあぶりだす罠が待ち受けているとは思いもしなかったので完全に踏み絵を前に嘆く隠れキリシタンである。混雑時は刀を優先して観覧するルートとなるが、本日は空いているため通常ルートでご覧くださいませとのことだった。刀剣乱舞サービス開始後二度目でありながら混雑はなかなかのものだったらしく、柔軟な対応を見せる博物館に驚いた。刀剣乱舞は二○一五年一月十四日にサービスを開始したので、同月すでに一度、へし切長谷部は展示されているのだ。
福岡市博物館はとても面白かった。事前リサーチが甘かった故のラッキーなのだが、生まれて初めて見るナマの金印にメチャメチャテンションが上がってしまった。教科書でしか知ることのなかった存在をまさか自分の足で見に来ることになるとは思っていなかったし、そもそもここにあることすら知らなかった。本物の金印はとても小さく、可愛らしい。チロルチョコとおなじぐらいのサイズなのだ。こんなに小さなものが太古の昔、国交を結ぶ重要な役割を持っていたのだ。そのスケールの対比に圧倒されてしまった。この感情を学生の頃に覚えることができていたならば、私のテスト平均点はおよそ四十点ほど底上げされていただろう。
大阪歴史博物館と同じく、福岡市博物館も福岡の歴史をじっくりと学ぶことができる。全く知らない土地の歴史を辿りながら、そうか、日本国内はどこでも日本で、教科書に載っている歴史はそれをかいつまんだだけにすぎないのだ。日本全国には様々な人々が住まい、そこには人の数だけ記憶があり、記憶の奔流が歴史となるのだ、ということにようやく気づいた。アホなのでそんなこともわからなかったのだ。私は深く感動した。甕型の棺、貝面、黒田家の瓦、アロー号、様々な展示物が人の記録を残している。なんかもう胸いっぱいだった。だが旅の目的はその先にある。
今思い出したがここまで書いておきながらアロー号なんかは長谷部よりあとに見た気がする。まあいいか。修正すると文章のノリが悪くなる。
へし切長谷部の展示は二階の特別展示室で行われる。平日にもかかわらず、列が出来ていた。その列のほとんどは女性客であり、ほぼ審神者と思われた。
展示室が近付くにつれソワソワし、不安がまた押し寄せてきた。私は本当にちゃんと刀を見れるのだろうか。感想がひとつも浮かんでこなかったらどうしよう。私は刀に試されている。
展示室に足を踏み入れた瞬間、変な汗が出た。緊張がマックスだった。そんな私を迎え入れてくれたのが天下三名槍、日本号である。
日本号とは……とここで解説を入れてもいいのだがウィキペディア先生やグーグル先生の受け売りコーナーになること請け合いなので各自検索してほしい。ざっくり乱暴に言えば日本号はすんげえ槍で、めっちゃすげえから人間の位を与えられたという、もうめっちゃくちゃ偉~い槍である。地元福岡で愛される呑み取りの槍だ。もちろん刀剣乱舞にもキャラクターとして実装されている。刀剣乱舞実装刀としては大変ありがたい常設展示組だ。
本物の日本号は一昔前の女子高生が持つ携帯電話なみにキラキラしていた。
失礼にも程がある感想だがそう思ったので仕方ない。しかしキラキラしているものが女子高生の施したデコレーションではなく螺鈿細工であることはすぐに理解できた。琳派展で浴びるように見ていたし、それ以前から螺鈿細工は知識として元々知っていたのだ。ワッハッハ、私って賢いな~。
しかし、ここまで豪奢な螺鈿細工は日本号ぐらいなのではないかと思う。螺鈿細工といえば大体は装飾品とかにワンポイントとして使われがちだが(※そうでもない)、日本号は槍の柄全体に細工が施されている。それなのにクドくもなくケバくもなく、なんとも品のある螺鈿の並び。素晴らしい。
恐ろしいのはこの螺鈿細工を持ちながら実戦で使用されていたということだ(※多分。わからん。多分そう)あんたそんな、ウエディングドレスで銃撃戦の真っ只中に飛び込むなんてハリウッド映画でしかやらないよ。
戦場では日の光をあびさぞ美しく輝いたことだろう。空想の中でも美しいのだから実際はもっとすごかったに違いない。
日本号にはかなり見入ってしまった。というのも、大阪歴史博物館に収蔵されている日本号の写しは螺鈿細工までは写されていなかったのだ。なので日本号の展示を知ったとき、そしてゲームに実装されたときも、ああ、あれね、と比較的地味なほうの姿(すいません)を想像していた。まさかこんなにキラッキラでかわいい槍だとは思いもしなかった。天下三名槍に向かってかわいいもへったくれもあるかという感じだが、かわいいものはかわいいのでかわいい。
そして、日本号の隣に鎮座しているのが、旅の目的、へし切長谷部である。
長谷部は、ちっちゃかった。乱や秋田ほどではないが、えっ、ちっちゃ、と思った。思うに私は大体の刀を実際よりもかなりでかめに空想している。この旅の後にも何度か刀を見てようやく納得したのだが、そんなに長さがなくとも人間を殺すには十分なのだ。これは大阪歴史博物館で突然話しかけてきた宮本武蔵ファンのおっちゃん情報なので確実です(全然確実ではない)
私は長谷部を前に、やや焦った。「ちっちゃ」とかいう、全く身のない、もう全然これっぽっちも「よくない」感想を思い浮かべてしまったからだ。
このままではあかん。もっと他に、なんかあるやろ。念じながらよくよく刀身を見た。列が少しずつ動き、押し流される形で、長谷部を観察した。
そして列から放出されたとき、私の心も放出されてしまった。
へし切長谷部という刀が、よくわからなかったのだ。
よくわからないとはどういうこっちゃ、と思われるかもしれないが、私もよくわからなかったのでよくわからない。とにかく漠然と、「わからない」という感想が浮かんだ。意味不明、ということではない。長谷部を見てなにを感じればいいのか、なにを感じ取るべきだったのか、この場にいるみんながどういう感想をこの刀に抱いているのか、まったくわからなかった。
惨敗した。
私はへし切長谷部に負けた。