#056「リリーのすべて」
関係がどんなものであっても、愛情の形は人それぞれで、その全てが誰とも理解し合えない奇妙なものであったりする。だから、その関係の中で成立していたらそれで充分幸せで、体裁を気にしたり、常識と照らし合わせて悩んだりする必要は無い。と、思っていた。
それから、誤解を恐れずに言えば性別というものは、生物的な外部的判断材料に過ぎず、それは肌の色と同じくらい取るに足らない事で、人格は無限にグラデーションであり得る。と、思っている。
だけど、だけど。
その考え自体が、ある基準の内側に収まっているマジョリティの中に配置されただけの自由で、本当に問題に直面している人の決定的な違和感を無視している。そして多分、正直に言えば、無視しているのでは無くて理解出来ないのだと思う。当事者以外の誰にも。
実際、映画の中で主人公は、夫であるとか友人であるとかを越えて、パートナーとして深く愛されていて、これ以上に何を望むのだろうかと思ってしまう。命をかけて、危険な手術を受けてまで。と、つい思ってしまう瞬間がある。
だけど、だけど。
一度だけの限られた人生で、私の全てを見せられない。むしろ、私自身が私を見ることなく人生を終えるなんて出来ない。と、思う。
いつでも私が私を見ている。人格と違う自分に気付いたら、きっと無視することなど出来ない。
自分の姿を偽ってどんなに愛されても、愛されているのが自分では無いことは、自分だけが知っている。
性別の問題だけでなく、全ての人が自分自身を見つけられたら良い。自分の中で自分とぶつからない、広々した気持ちで誰かの前に立てる瞬間があったら良いのに。