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旅する目的は人それぞれ?!|おうちで「東海道五十三次」旅 #4 神奈川 

早朝に日本橋を出発した私。
鶴見からは再び海岸沿いを進み、川崎から2.5里、約10km。江戸から3つ目の宿場「神奈川」に到着です。


広重の「神奈川」は、「品川」同様、画面左手を占めている海にインパクトがあります。

歌川広重筆『東海道五拾三次』(東京国立博物館所蔵) 「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-47577)

この神奈川もまた、宿場であると共に港でした。
神奈川湊はなんと奈良時代からあるという、長い歴史を持つ港です。
 
神奈川湊には西日本や東北地方から、「廻船」と呼ばれる、港から港へ旅客や貨物を運んで回る弁財船などが来航し、さまざまな商品がもたらされました。
 
江戸時代、神奈川宿はこの神奈川湊と一体となり、海運と陸運の中継地として大いに栄えたのです。
ただし品川沖同様、この辺りも後に大規模に埋め立てられており、現在は海が随分と遠くになっています。
 
実は私、「神奈川」といえば浮かぶのは県名で、「神奈川」という地名、港があったことをまったく知りませんでした。この地名から来ていた県名だったんですね。

ところで、広重の「神奈川」には「台之景」という副題がついており、高台が描かれています。これは一体どこを描いたものなのでしょうか。
 
神奈川宿は江戸方面からだと、現在の京急神奈川新町駅のあたりから始まり、滝野川(現滝の川)にかかる滝の橋を中心に、東西の町から成り立っていました。
この滝の橋を渡って青木町を進み、青木橋を渡ると、やがて台地が現れます。
 
これが現在の神奈川区台町の「神奈川台」で、神奈川湊を見下ろす東海道でも屈指の景勝地として知られ、よく絵の題材にもなりました。
広重の「神奈川」も、左手が海であることから、江戸側からこの神奈川台に差し掛かる上り坂を描いています。


神奈川台には旅人だけでなく、物見遊山の客も多く訪れる為、街道脇には茶屋や料理屋が立ち並んでいました。

神奈川台

広重も描いているように、こうした店は二階建てになっていて、神奈川湊を見下ろせるように、二階に座敷や欄干のついた廊下などが作られていました。
 
広重の「神奈川」では、台の頂きにかけて茶屋の看板が並んでいますが、手前から3つ目の看板をよく見ると、「さくらや」と読むことが出来ます。
 
実はこの「さくらや」を前身とするお店がまだ同じ場所に残っていて、それが料理屋の「田中屋」さんです。
 
さくらやは幕末に買い取られ、旅籠料理屋「田中屋」となった後、明治になってあの坂本龍馬の妻、おりょうさんが住み込みで働いていたことでも知られています。
ちなみにおりょうさんをこの店に紹介したのは、勝海舟なんだそうです。


ということで、神奈川宿に到着した私はそのまま宿を進み、滝の橋を渡り、神奈川宿の京都側の出口近くにある神奈川台まで一気に進みました。

日本橋を出発以来、東海道はここまで比較的平坦でしたが、この神奈川台は高低差19メートルほどとやや急な坂です。
ここまで1日歩き通しの身には堪えます。

しかしさすがは有名な景勝地。上り坂を上がっていくと、神奈川湊が眼前に広がり、さらにその先の陸地まで見えます。

沖には品川と同じく、一本マストに横帆一枚の弁財船が見えます。
小舟もいくつか見えますが、一番手前の小舟は、手前の弁才船に向かっているようです。この弁才船の帆はまだ上がっていませんが、人や荷でも積み下ろししているのでしょうか。

神奈川もまた、幕府に新鮮な魚介を献上する「御菜八ヶ村」の1つであることから、他の小舟は漁をしているのかも知れません。

台を上る旅人たち

さて、私の前には白い衣を着て、編みかごを背負った親子と、その後ろに大きな荷物を背負った男性がいます。

江戸時代後期、庶民にまで旅が広まっていきましたが、ほとんどの人は寺社へお参りに行くことを目的にしており、寺社を歩いて巡る「巡礼」が広まっていきました。
巡礼では白い衣を着ることになっていたため、この親子は巡礼中のようです。

子供の方は着物の裾が見えますが、他の二人の男性のように股引ではないので、女の子でしょう。
当時は子供といえども、寺社参りや巡礼などに大人と共に行くのは珍しくないことだったのだとか。

この親子はどこの寺社をめぐるのでしょうか。女の子の方が私より健脚です。

一方、親子の後ろの旅人をよく見ると、何やら長方形で、足の付いた箱のようなものを背負っています。
この人は「六部」と呼ばれた人です。

六部とは、六十六部の略で、全国66か所ある国分寺に一部ずつ「法華経」というお経を奉納していくという巡礼をする人のことを指します。
 
彼らはイグサ製で、中央と周りを紺の木綿で包んだ六部笠と呼ばれるものをかぶり、背に阿弥陀如来像を納めた長方形の箱のようなもの、「厨子」を負っているのが外見の特徴でした。

六部は米や銭を乞いながら歩いたそうですが、現代では見かけたことがないので、私には何だか特殊な、変わった格好の人に映ります。

こうした六部や子ども連れの巡礼者は、私には見慣れない存在ですが、江戸時代の街道では珍しくなかったようです。


親子のさらに前方、坂の中ほどでは、二人の男性が茶屋の女性に声をかけられ、店に引き込まれそうになっています。

庶民の間に東海道ブームを引き起こした、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」というお話の中には、主人公の弥次さん、喜多さんが神奈川宿で茶屋女に引かれて店に入り、一杯ひっかけるというエピソードが出てくるのだとか。

どう見てもこの二人も弥次さん、喜多さんのように、強引な茶屋女に店まで引っ張っていかれそうですね。
そしてその先のさくらやの前にも、茶屋女が待ち構えています。

頂の先には、京都側から台を登ってきた旅人の姿も見えます。

さて、早朝に日本橋を出発した私ですが、ここ神奈川台まで来る間にすっかり夕方になってしましました。

通常、健脚な男性の旅人なら2つ先の戸塚宿まで、女性などでも次の保土ヶ谷宿まで1日で行ったそうですが、軟弱な現代人の私は、もう足も腰もガタガタなので、ここ神奈川で1日目を終えることにしました。

神奈川宿の旅籠(宿屋)は、滝の橋周辺に集まっているということなので、一旦そのあたりまで戻ります。

それでは、お休みなさい。

つづく


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