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十人十色の旅人たちが集う渡し舟|おうちで「東海道五十三次」旅 #3 川崎

大森の間の宿を過ぎ、まっすぐ進むと、東海道は多摩川の岸辺へとたどり着きます。

品川を出てから歩き続けた私は、昼頃に多摩川岸に着きました。


江戸を出発以来、たくさんの橋を渡ってきたように、東海道には大小たくさんの川があり、これらの川には橋がかかっていることもあれば、渡し舟を使って、あるいは物品の運搬などを行う人に肩車をしてもらって渡る川もありました。
 
江戸近郊の大きな川である多摩川には、江戸初期までは橋が架かっていましたが、洪水でたびたび流されてしまった為、1688年に橋が流されて以降は、渡し舟という方法が採られていました。
 
江戸時代、川を渡ることは防衛上も重要であることから、幕府が定めた「定船場(じょうふなば)」という場所以外で川を渡ってはいけないことになっており、それが多摩川の江戸側では、現在の国道15号の六郷橋付近でした。

歌川広重筆『東海道五拾三次』(東京国立博物館所蔵) 「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-47577)

広重の「川崎」には「六郷渡舟」という副題が付いています。
 
品川からおよそ2.5里、約10km。
東海道の2つ目の宿場、川崎は多摩川を渡った対岸ですが、広重を始め、川崎宿を描いた絵では、よくこの六郷の渡舟が題材となっていました。

多摩川の向こう岸には川崎宿の家並みが、そして眼前右手には富士山がきれいに見えています。
出発の日本橋でも富士山を眺めましたが、江戸時代は今のように高い建物もないので、方角次第であちらこちらから富士山が楽しめるのがいいですね。

多摩川の場合、定船場である六郷の渡しには、水夫である水主(かこ)が24人、船は24艘あって、事務所にあたる川会所や水主小屋、高札場なども設けられていました。
 
また渡し賃は人が6文、荷物を乗せた馬「乗掛(のりかけ)」は15文、人を乗せる軽尻馬は10文と定められていましたが、武士と僧侶は無料の為、川を渡る大半の者は渡し賃を払わなかったのだそうです。


向こう岸に見える建物が川会所でしょう。川会所の外には、腰をかがめた人物が見えます。
よく見ると小刀を指しているようですが、渡し賃を払っているようですから、おそらく町人でしょう。

当時は町人も、旅の際には護身用として小刀を持っていました。

さて、今日は幸い天気も良いので、私ももうしばらく待てば渡れるでしょうが、大雨で川が増水したときには、「川留(かわどめ)」といって渡しが禁止されたため、天候によっては、旅人は手前の宿場で何日も足止めされることがありました。

ところで、当時は神社仏閣への参拝が旅の名目でしたが、女性でも途中駕籠などを使えば、日帰りで行けるスポットとして人気を博していたのが川崎大師です。
 
川崎宿は、そもそも東海道が整備された時点では宿場ではありませんでしたが、品川~神奈川間の距離が長いことからのちに宿場となり、川崎大師への分岐道があったため、その参拝客も含め、多くの人でにぎわいました。

確かに船を待つ客には、私以外にも女性の姿がちらほら見えます。
この人たちも川崎大師に行くのでしょうか。


多摩川と対岸

船を待つ間に川を眺めていると、左奥から、材木が筏に組まれ、それを筏士が操っています。

江戸という大都市が作られ、これがたびたび大火に見舞われた結果、江戸では常に木材への高い需要がありました。
そこで奥多摩(青梅)で伐採した木材を、江戸へと運ぶ為に行われていたのが多摩川の筏流しです。
 
上流で伐採された木材で筏を作り、筏士がこれを操りながらこのあたりまで川を下ってきます。
川崎の対岸、八幡塚村と現在の羽田に、複数の「筏宿」という木材の集散地があり、木材はここで川から陸にあげられると共に、「筏宿」が材木問屋と筏士の仲介を行っていました。

あの筏の木材も、ここで陸にあげられるのかもしれません。

今度は対岸で船を待つ人々に目をやると、町人なのか、武士なのか、笠をかぶって合羽を着た男性が二人立っています。

その横には俵を積んだ馬を連れた人がいます。当時はこのように馬を連れた人を「馬子(まご)」といいました。

その横には女性でしょうか、人の乗った駕籠とその後ろに駕籠かきと思われる人が見えます。

当時宿場や街道で、荷物の運搬や川渡し、駕籠かきなどに携わる人を「雲助(くもすけ)」と言い、彼らは通常、ふんどしひとつの身軽な格好をしていました。
対岸の馬子や駕籠かきもふんどしひとつです。

右端の上半身も脱いでしまっている男性が、もう一人の駕籠かきでしょうか。
やる気がないんだか、なんだかちょっとダレてますね、この駕籠かき。


多摩川を渡る船

そんなこんなで、先に出た船がまもなく対岸に着きそうです。
この船には7人の人物が乗っています。

船の前方には刀を差した男性と、キセルを持った女性、腰かけている女性の3人組がいます。

この男性はよく見ると羽織を着ているようですし、武士でしょう。
腰かけている女性は、後ろ姿ですが、大きな帯を締め、髪もきれいに結われており、とても街道を歩くような格好に見えません。

武家の女性か何かで、川崎大師に行く途中でしょうか。
とすると、隣のキセルを手にした女性は、お供かもしれません。

その後方には下を向いていて、笠で顔の見えない男性と、その前にかがんでいる鉢巻きをした男性がいます。

鉢巻きの男性はふんどし姿なので雲助でしょう。
笠で顔の見えない男性の草鞋でも直してやっているのでしょうか。

そして一番後ろの荷物を背負った町人と思しき男性は、船を降りる前に気持ちよさそうにキセルで一服しています。

そして前方の船頭さんは、足を踏ん張り、体をくの字にして船をこいでいます。

広重の「川崎」は、この船頭が実にダイナミックに描かれていて、絵に躍動感が生まれています。

さぁ、いよいよ私も船に乗る番です。
乗り物、それも今ではなかなか乗る機会もない渡し舟に乗るので、わくわくすると共に、ちょっと緊張しています。

六郷の渡し舟は、江戸を出発した旅人にとって、最初のアトラクション的なものだったのかもしれません。

稲むら

ところで、この想像旅(の設定)は初夏ですが、広重の「川崎」の画面右手、川岸の所に、いくつか三角のものがあります。
これは「稲むら」と言って、刈り取った稲を乾かすために集めたものです。

この「稲むら」が描かれていることから、この絵の季節は秋です。


さて、私も無事に多摩川を渡り終えましたが、ちょっと怖かったのか、船を降りたら足がガクガクしています。

日本橋を早朝に出発すると、川崎宿に着くのは丁度昼頃のため、江戸を出発した旅人の多くが、国道15号から少し西に入った、現在のいさご通りにあった川崎宿に立ち寄りました。

初めての渡し舟という大きなイベントを終え、私もすっかりお腹が空いてきましたので、ここでお昼としましょう。

つづく

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