江戸を出発以来、たくさんの橋を渡ってきたように、東海道には大小たくさんの川があり、これらの川には橋がかかっていることもあれば、渡し舟を使って、あるいは物品の運搬などを行う人に肩車をしてもらって渡る川もありました。
江戸近郊の大きな川である多摩川には、江戸初期までは橋が架かっていましたが、洪水でたびたび流されてしまった為、1688年に橋が流されて以降は、渡し舟という方法が採られていました。
江戸時代、川を渡ることは防衛上も重要であることから、幕府が定めた「定船場(じょうふなば)」という場所以外で川を渡ってはいけないことになっており、それが多摩川の江戸側では、現在の国道15号の六郷橋付近でした。
広重の「川崎」には「六郷渡舟」という副題が付いています。
品川からおよそ2.5里、約10km。
東海道の2つ目の宿場、川崎は多摩川を渡った対岸ですが、広重を始め、川崎宿を描いた絵では、よくこの六郷の渡舟が題材となっていました。
多摩川の場合、定船場である六郷の渡しには、水夫である水主(かこ)が24人、船は24艘あって、事務所にあたる川会所や水主小屋、高札場なども設けられていました。
また渡し賃は人が6文、荷物を乗せた馬「乗掛(のりかけ)」は15文、人を乗せる軽尻馬は10文と定められていましたが、武士と僧侶は無料の為、川を渡る大半の者は渡し賃を払わなかったのだそうです。
ところで、当時は神社仏閣への参拝が旅の名目でしたが、女性でも途中駕籠などを使えば、日帰りで行けるスポットとして人気を博していたのが川崎大師です。
川崎宿は、そもそも東海道が整備された時点では宿場ではありませんでしたが、品川~神奈川間の距離が長いことからのちに宿場となり、川崎大師への分岐道があったため、その参拝客も含め、多くの人でにぎわいました。
江戸という大都市が作られ、これがたびたび大火に見舞われた結果、江戸では常に木材への高い需要がありました。
そこで奥多摩(青梅)で伐採した木材を、江戸へと運ぶ為に行われていたのが多摩川の筏流しです。
上流で伐採された木材で筏を作り、筏士がこれを操りながらこのあたりまで川を下ってきます。
川崎の対岸、八幡塚村と現在の羽田に、複数の「筏宿」という木材の集散地があり、木材はここで川から陸にあげられると共に、「筏宿」が材木問屋と筏士の仲介を行っていました。
広重の「川崎」は、この船頭が実にダイナミックに描かれていて、絵に躍動感が生まれています。
ところで、この想像旅(の設定)は初夏ですが、広重の「川崎」の画面右手、川岸の所に、いくつか三角のものがあります。
これは「稲むら」と言って、刈り取った稲を乾かすために集めたものです。
この「稲むら」が描かれていることから、この絵の季節は秋です。
つづく