ブルネロ・クチネリの経営にみる「豊かな資本主義」
(写真はソロメオ村の夜明け(出所:BRUNELLO CUCINELLI 提供)。この論考は、株式会社東レ経営研究所の発行する「経営センサー」2024年9月号への投稿記事に若干の加筆修正を加えたものです。)
1.21世紀の資本主義の課題~会社は必要悪か
著しい格差、社会の分断、地球環境の破壊が進む中、近年、資本主義に対する厳しい批判の声が高まっている。
実際、格差や気候変動の問題は極めて深刻である。21世紀のほぼ4分の1が終わった現在、この地球では1%の富裕層が世界の富の半分を所有し、30兆円の資産を持つ数名と1日わずか300円で暮らす8億人の貧困者が同じ時を過ごしている。テキサス州の1.5倍に相当する広さの森林が毎年自然災害や伐採によって失われ、生産量の4割に当たる25億トンの食糧が廃棄され、6割に当たる15億着の衣料品が地球上のどこかに捨てられている。
異常な状況を生み出したのは、自由な私益の追求を原動力とする資本主義と企業である。企業の社会的責任や環境重視を訴える声の背景には、こうした資本主義と企業活動に対する危機感がある。
しかし、SDGsやCSRが企業社会に幅広く浸透しているかと言えばそうではない。多くの経営者の本音は、次のようなものではないだろうか。
「ESGやCSRは危機対応のやむを得ないコストであって、望ましいのは制約のない経済活動だ」。
「資本主義の下では、株主利益の拡大以外に企業の目的はない」。
「環境や社会的責任は、企業の本来の目的と相反する」。
格差や環境への取り組みが大きく進まない理由は、この本音と建前の埋めがたいギャップにある。
グローバリゼーション、情報通信技術の発展、そして金融経済の広がりは、巨大な時価総額を誇る企業を次々と誕生させた。その一方で、企業が社会に与える影響はますます大きくなっているにもかかわらず、社会から尊敬される企業は極めて少ないのが現状である。こうした状況をもたらしたのは、資本主義と企業活動に対する世論と経営者の歪んだ認識である。
資本主義における企業の目的は株主利益の追求であり、環境や社会的責任はやむを得ず負担せざるを得ないコストであると考えるなら、それは企業が経済的豊かさを実現するための「必要悪」であることを意味する。自己利益の追求が企業活動の目的になれば、競争が人々の間の格差を広げ、社会を分断し、自然の資源を限りなく消費することになるからである。
しかし、考えてみよう。環境や社会的責任は企業にとって単なる避けられない義務ではなく、本来の目的そのものなのではないか。利益は目的ではなく、何かを達成するための手段なのではないか。資本の概念が変われば、資本主義と企業はもっと善良なものになるのではないか。
イタリアの高級アパレル企業ブルネロクチネリの経営から「豊かな資本主義」の可能性を考察する。
2.ブルネロクチネリの経営
ブルネロクチネリは、イタリア中部ウンブリア州に位置するソロメオ村を本拠地とする高級アパレルメーカーである。2023年度の売上は11億4千万ユーロ(日本円換算約1,800億円)、営業利益は1億9千万ユーロ(約300億円)、営業キャッシュフローは2億1千万ユーロ(約335億円)、純資産は4億5千万ユーロ(約730億円)と強固な収益力と財務基盤を有し、全世界に152店の店舗を展開している。
創業者のブルネロ・クチネリは、1953年に近隣の農家に生まれ、つつましくも温かい両親の愛情と同居する親戚との交流、四季の美しい自然に囲まれて成長した。
25歳の時に色鮮やかなカシミヤセーターを製造する小さな会社を立ち上げ、創業からまもなく妻の故郷のソロメオ村に拠点を移し、廃墟となっていた丘の上の古城を買い取って本社とする。
クチネリは、本業である衣料品の製造販売と並行して、ソロメオ村を豊かにするためのさまざまなプロジェクトを次々と推進していく。古城を修復し、朽ちた工場や倉庫を公園に変え、職人学校を作って若者に技術を習得させ、村人がオペラやコンサートを鑑賞できるテアトロ・クチネリという劇場を作り、荒れた土地をオリーブやブドウの畑に変えて美しい自然の景観を創り出し、高品質のオリーブ油やワインで村に雇用を創出していく。
クチネリは、事業で獲得した利益を、自らの掲げる「人間のための資本主義」の実現に向けて、人口わずか500名の小さな田舎の村に投資し続けている。
冒頭の引用は、2012年、ミラノ証券取引所に上場した際に、長年地震で崩れた教会の修復を依頼されていた司祭にクチネリが電話で伝えた言葉である。この言葉は、資本主義と企業の目的は何かを私たちに問い掛けている。
クチネリにとって、会社の目的は村人の生活と村の環境を豊かにすることである。そのために彼は仲間と働き、頑張って利益を上げ、稼いだ利益を目的の実現に向けて投資し続けているのである。彼の頭の中では、村と会社、村人と社員、村の環境と経済活動は一体となって調和している。会社と社会や自然との間には境界がなく、経営はあらゆる資本に対して責任を負っている。環境や社会への責任は、クチネリにとって避けられない義務ではなく、会社の目的そのものなのである。
「人間のための資本主義」という思想に共感する富裕層が世界中でクチネリの顧客となり、その製品を購入することで、顧客も「人間のための資本主義」の実現に参画している。企業と顧客との信頼関係が強固なブランドを築き上げ、そのブランドが強固な収益力と盤石な財務基盤を支えている。
3.資本とは何か~「生産の三要素」としての土地と労働
ブルネロクチネリは果たして特殊で例外的な会社なのだろうか。いや、そうではない。クチネリは、利益を株主の資本だけでなく、村や自然の資本にも投資しているのである。公園や劇場の整備、教会の修復、職人学校の運営は、クチネリにとって単なる寄付ではなく、投資なのである。村の人々、村の生活、そして村の自然環境を自社の資本として活用することで、資本の裾野を広げ、これが生産力を高め、強力な収益力を生み出している。ブルネロクチネリは、利益を目的ではなく、目的に近づくための手段とし、社会や自然への投資によってさらに強い資本を作り出しているのである。
経済学の基礎には、「土地」「労働」「資本」を「生産の三要素」とする考え方がある。最初にあるのは土地と労働であり、労働が土地の生産物を増やし、その増えた生産物が交換されて利潤を生み出す。そして、その利潤が資本となり蓄積され、経済が拡大していく。土地を提供するのは地球であり、労働を提供するのは働く人々である。
本来、地球も働く人々も資本の提供者であるはずなのに、会計上、資本とされるのは株主が提供する資金と物だけであり、土地は固定資産、労働は費用(製造原価か人件費)と見なされている。
会社法も同様に、株主だけを資本の提供者と定めている。唯一の資本家は株主であり、経営者の責任はその株主に利益を還元することだというのが、会社法と会計基準に基づく考え方である。結果として、経営者は配当を増やし株価を高めたか否かが評価の基準となる。
しかし、株主にも発行株式を引き受けた株主と、流通株式を市場で買った株主がおり、前者の資金は会社に入り資本金となるが、後者の資金は会社には入らず株主間で移転するだけである。発行株主と流通株主ではこのように会社との関係が大きく異なるにも拘らず、株主平等の原則によって両者は同様の権利を付与されている。この矛盾も別の重要な問題を提起するが、ここでは触れない。
4.「貧しい資本主義」と「豊かな資本主義」~会社と経営の担う役割
株主だけが資本の提供者であるという認識が「貧しい資本主義」を生み出し、富の集中や格差、環境危機を招いている。企業が必要悪と見なされるか、尊敬に値する存在となるかの違いは、この資本の範囲の捉え方にある。
「貧しい資本主義」では、資本とは物的資本と財務資本のみを指す。財務資本は平たく言えば「資金」であり、資本金の他に短期・長期の負債も含まれる。物的資本は生産設備や土地・建物などである。
「貧しい資本主義」の資本は単純である。不動産も株も国債も、生産設備も土地・建物も、ただ所有して誰かに使わせれば収益がもたらされる。資本の利益は、お金と物を提供した資本家に還元される。
「貧しい資本主義」に比べ、「豊かな資本主義」における資本はもっと多様で幅広い。多様な資本を組み合わせて生産を行うには、経営という仕事と会社という仕組みが必要である。
企業の生産活動には、少なくとも7つの資本が必要である。
一つ目と二つ目は、「貧しい資本主義」が資本と考える財務資本と物的資本である。
三つ目の資本は、最近よく言われる「人的資本」であり、四つ目は、技術やノウハウ、特許権や商標権などの「知的資本」、五つ目は、集団としての共感、協力、信頼、連帯、理念などの「組織資本」である。組織資本は「健全な組織の文化」と言っても良い。どちらも人的資本によって作り出される資本である。
六つ目は、法律、治安や教育などの行政サービス、水道、電力、道路などの生活のインフラ、地域社会とのつながりなどで、いわゆる「社会資本」、七つ目は、空気、光、水、土壌、動植物、生態系、天然資源、豊かな四季などの「自然資本」である。どちらも会社の外にある資本であり、企業が私的には所有できないが、どれを欠いても企業は生産活動を続けることはできない。人的資本も一企業の所有物ではなく、企業の枠を超えて存在する資本と言えるだろう。
会社は単に財務資本と物的資本だけではなく、こうした多様な資本を組み合わせて生産活動を行っているのである。それは決して所有していれば利益をもたらすバラバラで単純な資本ではなく、適切に組み合わされることによって重要な価値を生み出すのである。この仕事を担うのが経営(マネジメント)である。
資本が生み出す利益が資本の提供者に還元されるべきものなら、企業の利益は7つの資本の提供者に公正に分配されなければならない。株主だけでなく、地球も、社会も、働く人々も、皆、会社の活動に欠かせない資本を提供している「広義の資本家」なのである。
持続力のある豊かな世界は、多様な資本がバランスよく成長することによって形成されていく。一部の資本ばかりに利益の還元が偏れば、全体の調和は失われ、社会は醜く歪み、分断され、やがて衰退していく。これが現代の貧しい資本主義がもたらしている人間社会の深刻な問題なのである。
しかし、それは決して資本主義自体の問題ではない。資本主義を貧しくしているのは、市場の檻にとらわれて狭い資本しか見えなくなった人間の視点なのである。会社という仕組みと経営という仕事は、資本主義を豊かなものにするためにあるのである。
5.利益は目的か手段か
企業活動がもたらす利益は、株主にとっては目的であるが、会社にとっては手段である。現代の資本主義の大きなねじれはここにある。
利益は会社にとっては目指すべき世界を実現するためのものであり、利益はそれぞれの会社が考える良き未来のために投資されて初めて、意味のある、価値のあるものになる。それは、そもそも会社は人間の集まる「社会」であって、損得だけが判断の基準となる「市場」ではないということを意味している。
ブルネロクチネリは、人間の尊厳と豊かなソロメオ村という世界を実現するために利益を上げ、上げた利益を7つの資本にバランスよく還元しているのである。具体的に言えば、職人学校であり、教会であり、公園であり、劇場であり、図書館であり、ワイナリーであり、豊かな自然である。それらはクチネリ社の所有物ではなくても、クチネリ社の資本として同社の強固な収益を支えている。
製品が高額すぎて富裕者しか買えないという理由で、ブルネロクチネリの経営を否定する声を時々聞く。しかしクチネリ社にとって大事なのは、利益を上げることではなく、利益を「目指す社会」、つまり豊かなソロメオ村の生活とそこで暮らす人々の尊厳のために投資することなのである。
利益が目標になれば、企業は社会にとっては必要悪となり、自然にとっては絶対悪となる。しかし、頑張って稼いだ利益を良き未来の実現に向けて投資すれば、企業は社会から尊敬される存在になるのである。
アマゾンのジェフ・ベソスやリンクトインのリード・ホフマン、セールスフォースのマーク・ベニオフなど、名だたるIT企業家が「人間のための資本主義」を議論するために揃ってソロメオ村を訪問し、ブルネロ・クチネリがG20サミットに招待されて各国のリーダーを前に講演するなど、「豊かな資本主義」を模索する動きが世界中に広がりつつある。
富や格差による分断、深刻な地球環境など、現代社会の深刻な歪みを癒すには、「貧しい資本主義」から「豊かな資本主義」へと経営の視点を転換しなければならない。SDGsやESGを「やむ負えない義務」と考えるのではなく、企業活動の目的そのものと考える「豊かな資本主義」の視点に立つことが、現代の経営者に最も求められていることではないだろうか。