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『資本主義の家の管理人』~市場化した社会を癒す希望のマネジメント はじめに

はじめに~『歴史の終わり』と市場の時代の始まり

「黒い猫でも白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ」

鄧小平 19780年代の中華人民共和国の最高指導者

ベルリンの壁が崩壊した1989年11月、まだ30代前半の商社マンだった私は、初めての海外赴任地である香港に降り立ちました。

当時まだ英国の植民地だった香港には、改革開放路線に転じた共産主義中国と西側諸国を結ぶ流通のハブとして、世界中のヒト、モノ、カネが集まっていました。

植民地香港は、自由貿易港として輸出入に関税がかからず、法人税や個人所得税なども極めて低く抑えられていました。自由な経済活動が奨励される一方で香港市民に参政権はなく、医療や教育などもお金があればハイレベルのサービスを享受できる一方、貧しい人々に提供される公共の福祉は限られていました。レッセ・フェール(自由放任主義)の市場原理が浸透した香港は、繁栄と貧困が凝縮された、まさに「資本主義の実験場」でした。

その年の6月4日には、北京で学生や市民が人民解放軍によって武力鎮圧される天安門事件が発生し、同じ日にポーランドでは共産圏初の自由選挙が行われて民主派の「連帯」が大勝し、イランではイスラム革命の指導者ホメイニ師が死亡するなど、歴史的な事件が同時に発生していました。世界は新しい時代の到来を予感する人々の不安とエネルギーでむせかえっていました。

その年の6月4日には、北京では学生や市民が人民解放軍によって武力鎮圧される天安門事件が発生していました。また同日、ポーランドでは共産圏初の自由選挙が行われ、民主派の「連帯」が大勝を収め、イランではイスラム革命の指導者ホメイニ師が死亡するなど、歴史的な出来事が相次ぎ、世界を揺るがしていました。世界は、新しい時代の到来を予感させる不安とエネルギーに満ちていました。

そしてベルリンの壁崩壊から2年後の1991年12月、ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊し、戦後40年間続いた東西冷戦がついに終結します。20世紀最後の10年を迎えて世界は大きく転換し始めたのです。

共産主義陣営の混迷を目の当たりにしたアメリカの政治学者フランシス・フクヤマは、1989年、専門誌にある論文を発表しました。ベルリンの壁崩壊の数カ月前に発表されたこの論文は、その後、世界中で大きな論争を巻き起こすことになります。

その中で彼は、「人類はイデオロギーを巡る闘争を繰り返してきたが、この戦いは自由と民主主義の勝利によって決着する。冷戦の終結によって世界は歴史の終わりに至るのだ」と主張しました。「リベラルな民主主義は自由を求める人間がたどり着いた歴史の進化の最終段階である」というのが彼の主張したことであり、この論文は3年後に『歴史の終わり』という本として出版され、世界的ベストセラーとなりました。

この主張はその後さまざまな批判や反論を浴びることになりますが、『歴史の終わり』が大ベストセラーとなったことからも、当時の世界が歴史の転換を目の当たりにして大きな高揚感に包まれていたことは明らかです。若い海外駐在員だった私も、改革開放に向かう中国と西側世界の接点として活気を呈する香港で、その高揚感を肌身に感じながら仕事をしていたことを今も鮮明に記憶しています。

ベルリンの壁の崩壊から35年。歴史はフクヤマの予想通りには進みませんでした。21世紀の4分の1が過ぎようとしている今、世界では政治・民族・宗教の対立が一層激化し、悲惨なテロや戦争が繰り返されています。成熟した民主主義国であったはずの欧米諸国でも深刻な社会の分断が進み、民主主義を否定する独裁者を多数の国民が支持する状況が生じています。冷戦の終結が世界を民主主義でひとつに包み込むことはなかったのです。

今振り返ると、その原因は、自由で民主的な世界の実現を私たちが市場の機能に過度に依存したことにあると思います。その結果、市場を通じて大きな富を得た人々と、そうでない人々との間で著しい富の偏在や所得格差が生まれ、人々をつなぎ合わせるために必要な共感や連帯、公正さへの信頼が毀損され、社会が大きく分断されてしまったのです。

自由と民主主義は人間の尊厳や平等を実現するための基本的な価値観であり、東西冷戦の終結が多くの人々に高揚感をもたらしたのも、この価値観への希望が背景にあったからです。しかし、私たちはその過程で、自由主義や民主主義が資本主義や市場経済の拡大によって自動的に実現されるという幻想を抱きすぎてしまったように思います。

これらの概念は、それぞれ異なる階層に属し、別個の役割を果たしています。自由主義は人権や個人の尊厳を支える思想であり、民主主義は国民が主権を持つ政治体制です。一方、資本主義は私有財産と競争に基づく経済体制であり、市場主義はその資本主義を支える仕組みとして価格形成や資源配分を効率的に行います。

自由主義・民主主義・資本主義・市場主義の異なる階層

しかし、冷戦後の社会では、自由や民主主義という基本的人権に関わる政治的・社会的価値が、市場経済の効率性や財産の自由の保護という資本主義の原理と混同された結果、経済的な成功が人間の自由や民主主義の実現と同一視される風潮が生まれました。このような混同が社会的な不平等を助長させ、人々を分断させ、民主主義を形骸化させる今日の社会の混乱につながっています。

こうした混乱を乗り越えるために、私たちは資本主義や市場経済の存在する階層を自由や民主主義の階層と明確に区別し、それぞれの役割を正しく理解する必要があります。自由主義や民主主義は資本主義の根幹である財産の自由を保護するものですが、資本主義は必ずしも自由や民主主義を実現するものではなく、ましてや市場原理という経済効率の追求によってもたらされるものでもありません。人間の尊厳や社会的正義を守るために、私たちは自由、民主主義、資本主義、市場主義が適用されるべき範囲を理解し、それぞれの階層が適切に機能する社会を目指していかなければなりません。

この違いを的確に理解していたのが、「社会主義市場経済」のキャッチフレーズを掲げて中国の改革開放を主導した鄧小平です。彼は政治的自由や民主主義を制限しつつ、資本主義の利用可能な部分を利用し、市場の機能を活用することで経済的豊かさの実現を目指しました。その後の中国経済の目覚ましい発展を見れば、市場の機能が理念や思想、政治体制に関わりく利用可能であることを喝破し、それを実際の政策に反映させた鄧小平は、ある意味で見事な為政者だったと言えるでしょう。

しかし、自由を永遠に経済体制の階層に留めておくことは果たして可能でしょうか。自由が基本的人権に関わるものである以上、いかに経済的豊かさを実現しても、それが政治的自由や民主主義の発展を伴わなければ、いずれ矛盾が露呈するのではないか。私はそう思います。

さて、市場経済の広がりは、過去30年間で世界のGDPを5倍、国際貿易額を4倍、株式市場の時価総額を10倍に成長させました。その結果、たとえばアップルやマイクロソフトのように、英国やフランスのGDPを超える株式時価総額を持つ企業が現れたり、日本のGDPの数倍規模の資金を運用する資産運用会社も誕生しています。かつて1日2ドル以下で暮らす世界の貧困層は19億人にのぼりましたが、現在はその半分以下の約8億人に減少しており、教育や医療へのアクセス改善を含め、最下層の人々の生活もマクロでみれば向上しています。市場経済が著しく世界経済の規模を拡大させたことは間違いありません。

その一方で、市場経済は社会に深刻な問題をもたらしています。

まず、著しい富の偏在があります。現在、世界の富の半分近くがわずか1%の人々によって所有され、下位の2分の1の人々の富はすべて合わせても全体の1%にすら届いていません。30兆円の資産を有する富裕者がいる一方で、数は減ったとはいえ、依然として8億人の人々が極貧状態で暮らしています。国家単位で見ても、アフリカの貧困国の1人当たりGDPは、最も裕福なアメリカの200分の1から250分の1しかありません。

所得の格差も驚くばかりです。1980年代には50倍程度だったアメリカ上場企業のCEOと一般社員の年収格差は、現在では300倍から400倍に広がっています。この現象は程度の差こそあれ、ほとんどすべての国や地域で見られます。

地球環境の悪化も深刻の度合いを増しています。毎年、テキサス州の1.5倍の規模の森林が消滅しており、数十万種の動植物が絶滅の危機に瀕しています。生産量の4割に当たる25億トンの食糧が消費されずに廃棄され、また生産量の6割に当たる15億着の衣料品が毎年地球のどこかで廃棄されています。さらに、CO2の排出による温暖化、水温の上昇や山火事の発生、生態系の変化や資源の枯渇などが問題となっています。地球環境と経済活動の均衡をどう回復するかは、21世紀の人類の重い課題です。

金融経済と実体経済の乖離も著しく進みました。課税回避のために巨額資金が地球上を移動し、実体なき金融の肥大化がリーマンショックのような経済危機を引き起こして社会を不安定化させています。

株価の重圧にさらされた企業の不正や不祥事、職場でのハラスメントや心の病の広がり。社会の歪みによって大きな影響を受けるのは、常に富や所得に恵まれない、立場の弱い人々です。

市場は、勝者と敗者の選別を繰り返し、1人の勝者とその他すべての敗者を生み出します。市場は、適切なコントロールがなければ、格差を限りなく拡大させ、社会の分断を加速させます。富者と貧者、CEOと一般社員、グローバル企業と地域社会、豊かな国と貧しい国。歴史や宗教、民族を巡る争いや資源の奪い合い。悲鳴を上げる地球とそれに目を瞑る市場の競争者。市場化する社会の先にあるのは、人々の憎しみと中傷、対立と分断、諦観と引きこもり、そして自然環境と生態系の破壊です。

こうした大きな社会の課題に対して、私たちには何ができるのでしょうか。あまりにも問題が大きすぎて、自分にできることなど何もない、私には関係ない。そんな無力感に襲われるかもしれません。

本書は、マネジメントという仕事を再定義することで、市場化した社会の課題に向き合おうとする試みです。社長であれ、部長であれ、担当者であれ、マネジメントの仕事の本質は変わりません。会社の経営も、部署の管理も、自分自身の仕事も、すべてマネジメントです。マネジメントとは、人と人、自分と自分以外のすべてのものとの間で最適な関係を創り出し、それを持続させる仕事だからです。ここで言う「自分以外のすべてのもの」とは、自分の周囲のあらゆるもの、自分を取り囲む世界そのものを指します。

マネジメントの本質を実践することで、小さな一人ひとりも世の中の大きな課題に影響を与えることができるのです。日本の人口の6割が会社で働いており、会社がどう行動するかで社会は変わります。そして会社を変えるのは、そこに働く一人ひとりです。

マネジメントは、命令や指示で集団を統制し、効率よく成果を上げる仕事ではありません。その理由は本書の中で詳しく述べますが、頭に入れておきたいのは、マネジメントが役割を果たすことによってのみ、市場は人間のために機能するということです。私たちはまだ、「失われたマネジメントの時代」を生きているのです。

資本とはさまざまな価値を生み出す元手であると考えれば、資本主義は決して否定される仕組みではありません。資本主義が批判されているのは、それが狭い資本しか見ていない「貧しい資本主義」だからです。

本書のタイトル『資本主義の家の管理人』は、会社を資本主義の家として管理する人びとを意味しています。預かった家を大切に管理し、未来に引き渡していく。手入れの行き届いた家が増えれば街は美しくなる。それは「誰かの大きな仕事」ではなく、「私の小さな仕事」なのです。

希望のマネジメントの世界にようこそ。


第0回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n2135af43a0e2

第1回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n8e979eadaa67

第2回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n8f95cf9bc1a6

第3回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n2a3a137d1c21

第4回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n7572daa30ace

第5回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/ne704b63e299f

第6回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/na6393c70621d

第7回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n7aa4ca92749b

第8回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/nef0347b24e22

第9回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/ne764e2cc8911

第10回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n4e07f238eb70

第11回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n2e6bbb59317a

第12回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n2a251683421a

第13回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n6eac39cf1260

第14回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n3c1226678b29

最終回 https://note.com/haruo_iwasaki826/n/n25d9bcfa154e


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