『資本主義の家の管理人』~市場化した社会を癒す希望のマネジメント 第一章 見ることと考えること
第一章
見ることと考えること ~ガラスの窓が見える鳥
<本章の内容>
この章では、マネジメントの基本として「見ること」と「考えること」の重要性を強調しています。視点の違いが生む誤解や対立の解決策として、多面的な視点を持つことの必要性を説いています。
1.世界の解像度を上げる
マネジメントは、人と人、自分と「自分以外のすべてのもの」との間で最適な関係を創り出し続ける仕事です。自分以外のすべてのものとは、自分の周りのあらゆるもの、自分が存在する世界そのものを指します。
人間はこの世に生まれ落ちた瞬間から、五感を使って世界を感じ取ろうとします。窓から差し込む陽光、知らない大人たちの話し声、体を包むタオルの柔らかさ、横にいる母親のなぜか懐かしい匂いと温もり。少しして目が見えるようになると、世界はより具体的な姿を現します。
最初は近くにあるものを直接目で見て、触って把握することから始まり、言葉を覚えると直接見たり触ったりできない遠くのものや目に見えないものを言語を使って概念化し、他の人たちと情報を交換し合うことによって、私たちの世界はどんどん大きくなっていきます。家の中の数名の家族から始まる他者との関係は、成長とともに近所の大人や友達、学校の先生や同級生、会社の同僚や取引先、メディアやニュースに登場する直接会ったことのない人々や、書物を通じて巡り合う過去の人々へと広がっていき、同様に物や社会や自然との関係、過去や未来との関係もどんどん広がり、そうして私たちの世界像が形成されていきます。世界像とは、自分から見える他者や物や社会や自然の姿です。
固有の世界像は、固有の思考、感情、判断や行動を決定づけます。地球に住む80億人の人びとは、それぞれが自分を取り囲む他者、物、社会、自然と固有の関係を結んでおり、そこには80億個の世界像が存在します。私には私の見えている世界があり、AさんにはAさんの見えている世界があり、同じ人間が2人存在しないように、同じ世界像が2つ存在することもありません。
人間の認識の8割は視覚に依存していると言われており、世界像の形成に重要な役割を果たすのが見るという行為です。
次の図を見てください。左は丸、右は三角です。
丸と三角は当然違うものですが、同じものが、ある人には丸に見え、別の人には三角に見えるということは世の中のいたるところで起きている現象です。会社の中で起きている意見の相違や論争も、多くの場合、議論の対象がAさんには丸に見え、Bさんには三角に見えているからです。
この例では、左の丸は円すいを真上から見た形、右の三角は真横から見た形です。同じ円すいでも、見る角度によって違う形に見えるように、世界も視点を変えれば違う姿を現します。しかし、自分の視点と立ち位置を変えなければ丸と三角の論争は延々と続きます。丸にしか見えないのになぜあの人は三角だと主張するのか。不思議に思って真上から見ていたものを斜め上から見て「そうか、円すいだ!」と気づく。対象を多面的に見て立体的に捉える。それが「見る力」です。見る力を持つことによって、さまざまな対立や論争を調整し、解決や合意に近づけることができるのです。
次の写真は、魚眼レンズで捉えた景色です。魚には世界がこのように見えています。
水中で暮らす魚の眼は人間と水晶体の形が異なるため、人間には直線に見えるものが魚には湾曲して見えます。また、目の位置が顔の両側にある魚には、人間には見えない広い範囲が見えています。同じものを見ても人間と魚では見える形や範囲が異なります。
鳥はどうでしょう。鳥には紫外線が見えるので、鳥の目に映る世界は人間に見えている世界よりも紫色をしています。また、鳥は空を飛びながら敵から身を守り、昆虫などのエサを見つける必要があるので、鳥の目は動体視力に優れ、遠くにあるものや速く動くものを見ることができます。その逆に、飛んでいる鳥が時々ガラス窓に激突したりするのは、鳥には近くの静止物があまりよく見えないからです。
魚や鳥は、人間と目の構造が違うため、人間には直線に見えるものが曲線に見えたり、青く見えているものが紫色に見えたりしています。しかし、現実の世界は直線か曲線か、青なのか紫なのか。果たして真実はどちらでしょう。答えは「どちらも真実である」と言うしかありません。
人間と魚が言い争うことはなくても、人間と人間では、直線に見える人と曲線に見える人がいれば対立や論争が生じ、不信感が生まれます。古代ローマの将軍ユリウス・カエサルは、「人間なら誰も、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は自分が 見たいと思う現実しか見ていない」と言いました。人間は自分に見えている世界が真実で、自分には世界のすべてが見えていると思いがちですが、ほとんどの場合、自分に見えているものは全体の一部であり、一部の真実でしかありません。
全体像を手にするためにもうひとつ重要なのは、時間の概念です。今は丸に見えているが、10年前はどんな形に見えていたか。100年前にはどんな形をしていたか。さらに10年後にはどんな形に見え、100年後はどうだろうか。このように複数の時間軸から対象を眺めてみることで、さらに世界の解像度を高めることができます。見る力は、空間と時間を飛び越える力であるとも言うことができるかもしれません。
人間は見えている世界に基づいて判断し行動するので、世界像がぼやけていたり、部分でしかないものを全体だと思い込めば、行動を誤る可能性は高まります。マネジメントが見る力を養うことによって、世界の解像度を高めることによって、対立や混乱を調整する糸口を見出すことができるのです。
2.見えないものに思いを馳せる
私たちの視界には絶え間なく情報が入ってきますが、それらはただ見えているだけです。自分と対象の関係は、意思を持ってそれを見た時に初めて生まれます。意思を持って見ることによって世界は姿を現し、その人の世界像が形成されるのです。
何だろうと思う好奇心。それが世界との関係の始まりです。五感で対象を把握し、目に見えない遠くのものを言語で概念化して対象を拡大し、概念を他者と交換して対象の解像度を上げる。そして対象について判断し、どう行動するかを決める。最初に見る意思がなければ対象は見えて来ず、対象が見えなければ適切な判断はできません。見て判断する。そのプロセスの精度が低いと、それに続く行動は的外れなものにならざるを得ません。
この、「見る」から判断と行動に至るプロセスは次のようになっています。
見る力を高めるために大事なのは、自分には見えていないものがあることを意識することです。「群盲、像を撫でる」という中国の格言やカエサルの言葉の通り、人間には世界の一部しか見えていません。大事なのはむしろ、「見えているもの」よりはるかに多い「見えていないもの」の方なのです。見えていないものがたくさんあることを知っていれば、角度を変えて見てみたり、他者から見えているものを教えてもらったりして、より精度の高い世界像を手にすることができます。
それでも、見えない部分は必ず残ります。この見えない部分を埋め合わせるのが、人間の想像力と解釈力です。そして、この見えない部分の想像と解釈に、人間の自由と喜びがあるのです。もし、想像や解釈が禁じられたら人は自由を奪われたと感じ、誰もが同じ想像や解釈をしていたら世界は単調でつまらないものになるでしょう。自由も感動もない社会には発展も繁栄はありません。
見えないものを見ることの大切さを、以下の絵で考えてみましょう。
左の絵は丸い釣鐘の底に重い鉄球が静止している状態、右の絵は伏せた釣鐘の上に鉄球が静止している状態だと考えてください。この2つの絵は、私たちが世界をどう見ているかを考えるヒントを提供してくれます。
左の鉄球はずっしりと安定しています。外から強い力が加わって釣鐘が揺れても、鉄球はすぐに元の位置に収まります。一方、右の鉄球は不安定です。今はたまたま静止していますが、わずかに揺れただけで鉄球はたちまち転がり落ちてしまいます。
私たちは世界を安定したものだと見ているでしょうか。それとも不安定なものだと見ているでしょうか。
この問いの意味を新幹線の運行ダイヤに例えて考えてみましょう。
新幹線は通常、遅れなく分刻みのダイヤで運行されています。時間通り正確に発着するのが当然だと考えている人は、5分でもダイヤが乱れるとイライラするでしょう。その人の世界では、新幹線は遅れずに分刻みに発着するものであり、5分遅れればそれは異常事態なのです。
しかし、東京駅だけで毎日1,000本以上発着する新幹線が、あれだけの長い距離を1分の遅れもなく走り続けるのは、その方が異常事態ではないでしょうか。そうした奇跡のような状態が保たれているのは、数知れない鉄道関係者が見えないところで早朝から深夜まで働き、車両を整備し、線路や信号を点検し、車室を清掃し、過密ダイヤを守る努力を重ねているからです。もしその人々が働くことをやめたら、ダイヤは大きく乱れ、運行は停止します。
右の鉄球がかろうじて釣鐘の上にとどまっているのは、目に見えない力が鉄球を支えているからです。その力の均衡が崩れた時、鉄球は釣鐘の上から転がり落ち、元の位置に戻ることはありません。
世界は人々の見えない努力によって安定を保っているのです。こうした見えないところで社会を支えている人々をアンサング・ヒーローと言います。
会社は、目に見えるヒーローだけで動いているわけではありません。組織は、多くの人々の見えない努力や協力によって機能しています。こうした人々の存在に気づかずにマネジメントを行うと、組織は荒廃し、機能不全に陥ります。
冒頭の引用は、ゲーテの『ファウスト』の終幕近くに登場する望楼守の言葉です。望楼守は、高い塔の上から遠くの風景や出来事を見守る人のことです。この一節は、人間が世界像の形成を業として生きる存在であることを詩的に鮮やかに示しています。
人間は、見るために生まれ、見ることを定められ、この塔(自分の生きている場所)を持ち場として与えられ、そこから見える世界と自分を重ね合わせて生きているのです。
見る意思を持つこと、多面的・立体的に時間軸を持って見ること、見えないものがあると考えること、見えないものを想像し、解釈し、判断すること、そしてアンサング・ヒーローに思いを馳せること。
良き望楼守であることは、良きマネージャーになるために欠かせない要素なのです。
3.考えて自由になる
考えるとはどういうことか。その意味について考えてみましょう。
ナチスの迫害を逃れてアメリカに渡ったユダヤ人の政治哲学者、ハンナ・アーレントの著作に、考えることの重要性を示すエピソードがあります。
1963年に出版された『エルサレムのアイヒマン』は、ナチスの戦争犯罪人アドルフ・アイヒマンの裁判を取り上げています。この本でアーレントは、人間の自由と尊厳を奪う全体主義がいかにして生まれたかを分析し、考えることの重要性を訴えています。
アイヒマンは、第二次世界大戦中にナチスの親衛隊の中堅幹部として、ユダヤ人のホロコーストの計画を実行した人物です。アイヒマンは、強制収容所で数十万人もしくはそれ以上の、想像を絶する数のユダヤ人を殺害しました。アイヒマンの裁判を傍聴したアーレントは、彼の思考と行動を「悪の凡庸さ(Banality of Evil)」という有名な言葉で表現しました。
「世界最大の悪はごく平凡な人間が行う悪である。そこには動機も、信念も、邪心も、悪魔的な意図もない。その人間は人間であることを拒絶した者である。この現象を私は悪の凡庸さと呼ぶ」。
アーレントが衝撃を受けたのは、大勢の人間を殺害したアイヒマンが、動機も、信念も、邪心も、悪魔的な意図も持たない、ごく平凡な人物だったということでした。自分は組織の中間管理職であり、組織の目的を忠実に実行する義務を負っていた。他の誰かが当時の自分の立場にいたら、そしてその人物が自分と同じくらい優秀な管理職であるなら、同じことをしたはずだ。アイヒマンはそう言って、自分は無罪であると主張しました。
アーレントによれば、アイヒマンは思考することをやめた人間でした。彼は、裁判の中で難解なカントの著作を引用して自身の正当性を主張するほどの知識人でした。しかし彼は、人を殺すことの善悪すら判断できない人物だったのです。彼は自分自身で考えることを放棄し、ただ幹部の命令に従って次々と収容者を殺し続けたのでした。
しかし、もっと身近な状況に目を転じた時、私たちもアイヒマンと同じように考えることをやめてはいないでしょうか。SNSやメディアから流れてくる情報を、ただコピーアンドペイストしてそのまま誰かに流してはいないでしょうか。社長や部長が言っているから、ルールでこう決まっているからと、自分で判断せずに行動してはいないでしょうか。誰かが引いたレールの上をなぞり、常識や固定観念を機械的に受け入れてはいないでしょうか。思い当たる節はたくさんあるはずです。
与えられた情報に支配され、他者の意見を鵜呑みにするのは、他者の人生を生きるに等しく、そこには自己の自由はありません。情報や他者の意見に対し、それを正しいと思うか、間違っていると思うか、共感するか、反発するか。結果として同じ行動を採るにしても、それが自ら考えた結果の選択かそうでないかではまったく違います。
4.他者の存在が自らを自由にする
無人島にたった一人で暮らすロビンソン・クルーソーは、果たして自由でしょうか。
人間が自由を自覚するのは他者が存在するからです。他者とは、自分を取り巻く物であり、人であり、社会であり、自然です。自由は、束縛や制約が一切ない状態を言うのではなく、他者との関係において何が一番良いことかを自分自身が判断することです。仮に他者が存在しない状況があるとすれば、そこには束縛や制約もない代わりに自由もありません。
車と信号機の関係を例に考えてみましょう。
信号機は車の走行を制約します。勝手に好きなように走りたくても、信号が赤になれば停止して青になるのを待たなければなりません。しかし信号機がなければ、多くの車が交差点に殺到し、事故や渋滞が発生して目的地に到着することができなくなります。信号機の制約に従うことで、車は予定通り目的地に到着するという自由を手にするのです。
信号機は、会社に置き換えればルールや制度です。社員一人ひとりが自ら判断し、かつその判断が適切であるためには、信号機であるルールや制度が不可欠です。人数が少ないうちは、道路の状況を自分の目で確認し、曲がったり停止したりすることができます。しかし、社員が一定数を超えたら、事故や渋滞を防ぐために信号機が必要になります。信号機は、それぞれの車の走行の自由を守るためにあるのです。
車は信号を見て進んだり停止したり、車間距離に応じて速度を上げたり落としたり、バックミラーやサイドミラーで通行人や障害物を確認しながら進みます。運転手は最適なルートを選び、交通ルールを守り、周囲の状況に気を配りながら車を走らせます。一台一台の車は、予定通り目的地に到着するために、それらすべての判断を自ら行なっています。
このように、他者との関係においての最善を自ら選択することを、「大きな自由」と言います。これに対し、「小さな自由」とは、他者との関係に関わりなく、自らにとっての最善を追求する権利です。いずれも、人間が自由を感じるのは他者の存在があるからであり、完全に孤独な状態では人は自由を感じることはありません。他者に囲まれ、他者との関係を認識することによって、人は自由を手にするのです。
5.ルールの裏にある規範
集団にはルールがあります。国家には法律があり、会社には就業規則があり、学校には校則があります。集団に所属する者はルールを守る義務を負い、ルールを知りながらそれを守らない者は所定の罰則を受けます。
しかし、ルールは、時代や場所、社会の価値観の変化によって変わります。かつては当たり前だった奴隷の売買は禁じられ、カーストのような身分制度も廃止されました。アメリカでは銃の所有は個人の安全を守る権利とされていますが、日本では銃は危険な凶器として所有が禁じられています。昭和の時代には日常茶飯事だった上司や先輩の厳しい叱責は、令和の時代になりパワーハラスメントとして禁じられるようになりました。
ルールは社会とともに変化しますが、大事なのはその背後にある規範やコンセンサスは何かを考えることです。
刑法第199条に「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」という条文があります。この条文の背後には「人を殺してはならない」という社会のコンセンサスがあり、そのコンセンサスは「人命は尊い」という人類共通の規範によって形成されています。
パワーハラスメントを禁止する就業規則の背景にも、「パワーハラスメントは良くない行為である」という社会のコンセンサスがあり、それを形成するのは「人間はみな対等であり、人間の尊厳は守られなければならない」という規範です。
法律の条文は目に見えますが、社会のコンセンサスや普遍的な規範は目に見えません。この「見ようとしなければ見えないもの」を認識しようとするのが、考えるという行為です。
アイヒマンは、ユダヤ人の抹殺というヒトラーナチスの命令に従って行動しました。自分はルールに忠実な善良な人間である、ルールに忠実な人間が自分の立場にいれば、誰もが同じことをしたはずだ、従って自分は無罪である。彼は裁判でそのように主張しました。アーレントが厳しく糾弾したのは、ルールに従うのが正しいというアイヒマンの薄っぺらな思考回路であり、「人命は尊い」という普遍的な規範を考えない彼の人格だったのです。
「ルールに書いてない」、「ルールには違反していない」。
このような抗弁を私たちは日常しばしば耳にします。しかし、ルールに触れなければよいのだという考えは、アイヒマンの思考回路と変わるところはありません。
社会のありとあらゆることをルールに定めることはできません。人間の行為のすべてを逐一法律で規定することはできません。明確に書かれてはいないが領域について、社会のコンセンサスや普遍的な規範は何かを考えてその是非を判断する。それは人間の自由を担保する重要な行為なのです。
「最良の奴隷は自分を自由だと思っている」。
ゲーテは、考えることが人間の自由と尊厳の原点であることを、このように表現しています。
考えない方が楽かもしれませんが、それは自分の自由を放棄する行為でもあります。考える行為がなければ「大きな自由」に到達することはありません。マネジメントは、考える組織を作ることに大きな責任を負っているのです。
この章では、マネジメントの出発点として、「見ること」と「考えること」の重要性について考えてきました。
人は、自らが見ている世界に基づいて行動しますが、その世界像は個々に異なります。視点を変えたり、立体的に捉えたり、時間軸を加えることで、対象の理解が深まります。しかし、それでもなお、見えない部分が存在します。その見えない部分を補うのが、人間の想像力と解釈です。
この見えない部分の解釈にこそ、人間の自由があります。自由は他者の存在を前提とし、他者との関係において自らの判断で最善を選択することを指します。そして、自由であるためには、考えることが不可欠です。思考をしない集団、自由を放棄した集団は、決して強い集団にはなれません。
市場の決定に従うのではなく、それが良いことかどうかを人間が考えて判断する。良きマネジメントを実践するには、見ることと考えることが不可欠なのです。
★ 希望のマネジメント
第2条 「ガラスの窓を見る鳥になる、考えて自由になる」
<本章のまとめ>
マネジメントの出発点は、「見ること」と「考えること」である。
マネジメントは、人間と世界の関係を最適に整える仕事である。その中で、視覚が重要な役割を果たす。
世界像は人によって異なるが、視点を変えることで対立を調整できる。
見る力を高めるには、見えていないものを意識し、想像力で補完する必要がある。
自由は他者との関係に依存している。他者の存在が自由を自覚させる。
ルールの背後にある規範やコンセンサスを理解し、考えることが自由の本質である。