『資本主義の家の管理人』~市場化した社会を癒す希望のマネジメント 第十章 コッホの雪片と最初の正三角形
第十章 コッホの雪片と最初の正三角形 ~個人と世界の美しい関係
<本章の内容>
この章では、個人と世界の関係を探求し、コッホの雪片という数学的な比喩を用いて、その複雑性と美しさを描写しています。個人の役割とその影響力について深く掘り下げています。
地球が誕生したのは約46億年前です。太陽の周りにできたガスと塵の円盤の中で、微小な粒子が衝突し、大きな塊である微惑星となりました。この微惑星がさらに衝突と融合を繰り返しながら成長し、原始惑星が形成されたと言われています。地球はその原始惑星の一つでした。
地球から火星までの距離は、一番接近する時期で約5,500万kmあります。これは地球の直径の約4,300倍に相当し、光の速さに換算すると0.00004光年です。現在観測されている宇宙の広さは、地球を中心に半径約465億光年と言われています。
人類の先祖であるホモ・サピエンスがアフリカに誕生したのは約30万年前です。記録に残る人類の歴史が始まったのは約5,000年前、古代メソポタミアでシュメール人が楔形文字を使い始めた頃です。人類の誕生から現在までの時間は地球の歴史の1,500分の1、歴史が記録され始めてから現在までの時間はホモ・サピエンスの誕生から現在までの60分の1、そして1人の人間の一生はさらにその50分の1です。
地球の歴史も、宇宙の大きさも、人類の歴史も、小さな1人の人間の想像をはるかに超える時間と空間の広がりを持っています。
地球には80億人近い人間が暮らしており、私たちはその内の1人でしかありません。
そんな小さな存在でしかない自分が、この世に生まれ、生きていくことに、いったい何の意味があるのだろう。若い頃、そんな思いに囚われて悩み苦しんだ人もいるでしょう。
子どもから大人になり、社会に出て働くようになると、さまざまなルールや決め事に従わなければならなくなります。予算に縛られたり、納得できない指示や命令に従わなければならないこともあるでしょう。そんな時、何もできない小さな自分に対するやり場のない無力感に陥るかもしれません。地球環境が危機に瀕しようが、戦争で何千人の命が奪われようが、30兆円もの個人資産を有する富裕者と1日わずか2ドルで暮らす8億人の貧困者がいようが、会社ぐるみで不正が行なわれていようが、自分にできることなど何もない。それは偽らざる気持ちかもしれません。
しかし、人間はたった1人で生きているわけではありません。野生動物の中には、トラのように群れを成さずに生きる動物もいますが、人間は社会があって初めて生きていくことができます。集団で暮らし、役割を分担し、互いに協力することで、人間は他の動物には達成できない偉業を積み重ねてきました。人間を人間たらしめるのは社会を作る力であり、連携して何かを成し遂げる力です。そして、どんな大きな集団も、それを構成するのは1人の人間です。地球が小さな塵からできたように、社会も個人が起点であり、個人なくして社会は成立しません。
人間の一生は、ホモ・サピエンスの登場から現在までの時間のわずか3,000分の1に過ぎませんが、人類の歴史はその3,000分の1が一つひとつ積み重なってできています。今この瞬間も地球上には80億人の人が暮らしており、自分はその内の1人にしか過ぎませんが、その3,000分の1や80億分の1がなければ、人類の歴史も人間の社会も存在しません。一人ひとりはとても小さな存在ですが、その小さな存在が大きな世界を成立させているのであって、その逆ではありません。
私たちは、さまざまな社会の課題を自分の手には負えない大きな問題と捉えがちです。会社を変えたくても自分には何もできないと感じることも多いでしょう。しかし、大きな変化は、それを構成する小さな一つひとつの要素から生まれるのです。むしろ、大きな変化は小さな変化からしか生まれないという方が正しいかもしれません。ベルリンの壁の崩壊という歴史上の大事件も、1人の超人が壁を乗り越えたからではなく、東ベルリンに住む130万人の一人ひとりが自分の環境を変えたいと思って行動したから起きたのです。その行動は、「もっと自由に暮らしたい」と思う日常の小さな出来事の積み重ねによって起きたに違いありません。
「第六章 組織を動かす2つの力」の中で、組織の構成要件は、「目的」「要素」「つながり」であると言いました。「目的」は集団として何を目指し、何を達成するか、「要素」は構成員の数や能力、スキル、「つながり」は相互の信頼、役割分担、情報交換です。
最初に目的があり、目的の下に要素である人が集まり、要素が機能でつながることによって組織はできていきます。要素が全体を作るのであり、要素とつながりが変化して全体が変化していくのです。
3,000分の1や80億分の1でしかない自分が1人で世界を変えることはできませんが、大きな全体を作り出しているのは個々の要素とそのつながりです。一人ひとりと周囲の小さな関係が変化し、それが連鎖して世界が変わっていく。世界はそういう構造でできているのです。
スウェーデンの数学者ヘルゲ・フォン・コッホが20世紀初めに提唱した「コッホの雪片」という理論は、自然界の複雑な現象やパターンが単純な細部の自己相似的な変化の繰り返しで作られていることを説明しています。
コッホの雪片は、一つの正三角形から始まり、その正三角形の各辺が三等分されてさらに小さな正三角形を作り、その小さな正三角形が同じプロセスを繰り返すことによって複雑な形状を作り出していきます。海岸線や山脈の輪郭、樹木の枝分かれなども、拡大すればするほど新しい細部が見つかるという複雑さを持っており、その複雑さは詳細な類似形の細部から形成されています。
コッホの雪片は、周囲の長さが無限に長くなり、形状も無限に複雑さを増していきますが、面積は1.6倍以上にはならないというおもしろい特徴を持っています。
人間社会や会社の組織も無限に複雑にすることはできますが、量的な成長には限界があります。一定の規模に達したらそれ以上大きくせず、小さな集団に分けて運営させるというのが、稲盛和夫氏の「アメーバ経営」の思想でした。組織が複雑性が増すと細部の状況が見えにくくなるので、それを避けるために小さな独立単位に分け、構成員の参加意識を引き出して効率性と柔軟性を高めようという考え方です。
コッホの雪片はさまざまな示唆を与えてくれますが、大事なのは最初の正三角形です。複雑で調和の取れた形状を作り出すには、最初の三角形もその次の三角形も、すべての三角形が正三角形でなければなりません。一つひとつの正三角形がその形を保ち、正しい位置で繋がることによって構造が安定し、美しい雪片ができ上がります。一つひとつの正三角形の形が崩れたり、つながりが断たれたら、コッホの雪片は壊れてしまいます。
人が正三角形を保ってつながることで、強く美しい組織ができ上がります。正三角形は、ジョン・ロールズの言うところの正義の第一原理である「基本的自由の保障」です。自由な個人を然るべき位置で繋ぎ合わせるのが、集団の理念や価値観、ルールや制度、情報などです。
私たちは3,000分の1や80億分の1の小さな三角形です。しかし、複雑で大きな社会を作り出しているのは一つひとつの正三角形なのです。正三角形が形を保ち正しくつながることによって、複雑で美しい、安定した雪の結晶ができ上がる。それが個人と世界の美しい関係です。
3人のレンガ職人が今この瞬間に小さなレンガを一つひとつ積み重ねていかなければ、数百年後にその町の見知らぬ人々が大聖堂に集まって祈りを捧げることはありません。社会の大きな課題は、一人ひとりが周囲の小さな課題に「Just」を見出していくことから少しずつ改善されていくのです。できないことを嘆くのではなく、できることをやってみる。一つひとつの小さなつながりが、やがて大きな変化を生み出していきます。
市場化した社会を癒す希望のマネジメントは、「誰かの大きな仕事」ではなく「私の小さな仕事」なのです。
★ 希望のマネジメント
第11条 「最初の正三角形から始める」
<本章のまとめ>
個人は宇宙や地球の歴史から見れば小さな存在だが、社会を構成する重要な要素である。
大きな変化は小さな部分の変化から生まれる。
コッホの雪片は、複雑な構造も単純な要素の繰り返しから作られることを示している。
自由な個人が正しくつながることが、強く美しい組織を作り上げる。
希望のマネジメントは「私の小さな仕事」である。